アゴニー・コラム
悪魔であるのか、天使であるのかそれは知らない。女にあってはどこで天使が始まり、どこで悪魔が始まるのかもわからない
~ハインリッヒ・ハイネ~
二人は、ニューヨークの市街地を走るバスを乗り継ぎ、マンハッタンにほど近いクイーンズのダウンタウンにいた。
マンハッタンとは違い、高層ビルは少なく、集合住宅や商店が立ち並び、いまだ古い街並みの面影を残していた。
クイーンズは移民の町としても知られ、アストリアのギリシャ人街や、ジャクソンハイツのインド人街など、多様な人種が居住し、独自の文化を形成している。
赤い看板を掲げたベーカリーからは焼きたてと思しき小麦の良い香りが漂っている。暫く碌な物を腹に入れていないので、空腹を刺激されたが、零はそれを無視して速足で歩き続けた。斎藤も同じだったようで、ちらりと香りの元を見やってから、少し残念そうに零の後を追った。
地図を見ながら、蛇のように曲がりくねった裏路地を通り、ようやく目的の場所に着いた。大分年季の入ったアパートメントだ。零は、ブライアンのSNSから画像の位置情報とIPアドレスを辿り、このアパートメントがブライアンの住居だと突き止めた。ハーミットからは未だコンタクトはなかったが、100%味方だとは限らない。指名手配されている今、連絡を待っている暇はなかった。
「目の前はカフェなのか…。」
アパートメント前の道路を挟んで向かいには、オープンテラスのあるカフェがあり、テラスにはこの寒い中、数人の客がコーヒーを飲んでいた。
零はアパートに直ぐ入ることはせず、テラスに座って店員に2人分のカプチーノをオーダーした。零の行動の意味が分からない斎藤が零を見る。
「なぜ行かんのだ。あそこが目的の場所なのだろう?」
その言葉は、ソーサーにカプチーノの入ったカップを置いた零の視線で遮られた。
「斎藤さん、私が建物に入りますから、ここで監視していてください。」
思わぬ提案に、斎藤が瞠目した。声を荒げようとして、はっとしたように声を落とす。
「馬鹿な。お前だけにそんな役目をさせるわけには……。」
「いいですか。出来るだけ騒ぎは起こしたくない。中からは誰が来るか分かりません。だから1人が残って情報を伝える。それが一番効率的でしょう。」
苦虫を噛み潰したように押し黙る斎藤に、心の中で謝りながら、零は段取りを説明し始めた。
―――――
寒空のオープンテラスには、気温のせいもありやはり客足もまばらだった。その中で、ダークグレイのコートに、黒髪を後ろになでつけた東洋人男性が、テラスの端の席で不機嫌そうな顔でタイムス紙を読んでいる。しかし、その鋭い視線は向かいのアパートの入り口に注がれていた。
斎藤は大分冷めてしまったカプチーノを啜りながら、手にした英字新聞を読んでいた。何が書いているのかさっぱりわからないが、零からは偽装する為だと隣席の客が置いて行った新聞を押し付けられ、しぶしぶ読んでいるふりをしているのだ。
右耳にはイヤホンと、コートの胸ポケットには繋がったままの携帯電話を入れていた。
「おい。聞こえるか。今のところ誰も来ていないぞ。」
ぽつりと独り言のように呟くと、右耳のイヤホンから冷静な低めの女の声が響いた。
『了解。引き続きお願いします。』
事務的な返事の後、イヤホンからは衣擦れと風音だけが右耳に入ってきた。片耳の鼓膜がおかしくなりそうだ。と斎藤は思ったが、つけられたイヤホンを取ろうとはしなかった。
タイムス紙を広げながら、再び通りと零が入っていったアパートに眼をやる。相変わらず様々な人間が行き交う通りは、まさに人種の坩堝という名に相応しい。
「……ふぅ。」
特に何も変わり映えのしない景色に、いい加減飽き飽きしていた時だった。アパートに二人組の男が入っていくのを捉えた。
目つきの鋭い、スーツ姿の短髪の男と、ボウタイに細身のジャケットを羽織り、黒い眼鏡をかけた変わった髪型の男だ。
「……待て、誰か来たぞ。」
『……!!』
しかし、イヤホンからは返事はなく、代わりに酷い雑音が鼓膜を直撃し、斎藤はたまらずイヤホンを引き抜いた。
「くっ…やはりこういう道具は苦手だ。」
耳を抑えながら、斎藤は険しい顔でアパートを見上げた。その顔には怒りよりも不安の色が色濃く滲んでいるようであった。
―――――
古い木製のドアからすぐのらせん階段は、人が一人やっと通れる程の幅で、今にも腐って抜けそうな部分もあった。注意深くそれらを避けながら、目的の場所へ向かう。
零はあたかもアパートの住人のごとく自然に振るまい、入口付近のメイルボックスで部屋番号を確認し、入って三分後には既にブライアンの部屋の前にいた。
鍵は古いシリンダータイプの鍵だったため、開けるのは容易だった。
ブライアンの部屋は2LDKの、一般的な一人暮らし用の部屋だった。中は意外と整然としていて、生活感はあるものの、男の一人暮らしとしてはかなりきれいな部類に入る。
老朽化してギシギシと悲鳴を上げる床を、できるだけ音を立てずに滑るように歩く。短い廊下の先にあるリビングダイニングには、本棚とキャビネットが置かれ、新聞や雑誌、専門書の類がぎっしりと入っていた。
零はなぜか目に留まったその中の一つ、『D国の黄昏』という本を手に取り、パラパラと捲った。
その本は、約30年前、最高指導者による独裁政治を行っていたとある国についてのルポだった。その国は、極端な圧政から軍事クーデターが勃発し、連合軍の軍事介入を経て、世界地図からその名前は消滅した。
確か、行き過ぎた軍備拡張と科学者や物理学者の招聘が、議論を招いていたと記憶していた。
そんな事を思いながら、ページを捲っていくと、一か所だけ蛍光ペンで線が引かれているのに気が付いた。それはとある科学者の名前だった。
亡命直前に、秘密警察に見つかり、スパイ容疑で処刑されたと記載してあった。
その名前を頭の片隅に刻み、別の場所へ移動した。トイレ、バスルーム、そして、寝室。そのドアの前に来た時、咄嗟に息を止め、懐のステアーを抜いた。僅かだが、中から物音がしたのだ。
たっぷり数秒待って、ドアノブを回し、姿勢を低くして勢いよく中へ入った瞬間だった。
赤いコートに眼を引くつややかなブロンドを確認する暇もなかった。引き金を引く前に、その高いヒールを履いた脚が乗馬鞭のように零の手首を打った。手の中のステアーが空中へ放り出され、零もたたらを踏んだ。
だが、次のナイフの一撃を食らうほど、零は迂闊な人間ではなかった。頸動脈を正確に捉えた手首を万力のような力で掴み、そのままコートの襟を掴むと、リビングへ続いているであろう壁に、渾身の力でブロンド女もろとも叩きつけた。建築法を無視して作られた薄い壁は、あっけなく砕け散り、二人はもんどりうってリビングへ倒れこんだ。
間髪入れずに、マウントポジションのまま、ブロンド女の顔面に拳を容赦なく叩きつける。女が懇願するような悲鳴を上げた。これがそこらの素人男だったら少しは加減しそうなものだが、生憎零はプロで、女だった。一片の慈悲も無く無感動に、無表情に拳を振り下ろす。
鼻血が顔に飛び散ったが、女がぐったりと動かなくなるまでそれは続けられた。
漸く抵抗らしきものも無くなり、人形のようにぐったりとしたブロンド女を見下ろした。道行く男を魅了したであろう顔は、今や面影もなく無残な物に成り果てていた。
零はブロンド女が持っていたナイフを遠くに捨てると、念入りに体を探った。肉感的な腿に巻かれたホルスターから、マカロフとサバイバルナイフ、腰からももう一丁の小型拳銃が出てきた。
「よくもまあこんなにも。」
呆れたように呟くと、物騒な玩具達を放り投げた。東側の人間だろうかと思いながら、物色を再開した。
小さなビジネス手帖がコートのポケットから出てきた。表紙にはB・Rと書かれている。恐らくブライアンの私物だろう。
手帖を開くと、日記代わりに使用していたのだろう、ここ最近の日常で起こった事が細かに書かれていた。
―――…月…日。同僚のエディから鍵を預かってほしいと頼まれた。何の鍵かは教えてくれなかったが、彼は大事な友人でもある。困ったときは力になりたい。
―――…月…日。部屋に空き巣が入った。オメガの時計が二本盗まれた。最悪だ。エディから預かった鍵もない。彼になんて説明しようか…。時計、限定モデルだったのに……。
―――…月…日。僕のIDが使われていた。エディは何か知っていたようだ。明日、理由を聞かなければ。だけどここ数日彼は出勤していない。何か大変なことに巻き込まれているのかもしれない。
「……同僚のエディ。ね。」
そういえば、ハーミットから寄越された封筒には鍵が同封されていた。エディという男に聞けば何か知っているだろうか。
零が日記を見ながら思案している間、ブロンド女の腫れあがった眼が微かに見開いたのには、気づかなかった。
だが、玄関のほうで人の気配を感じて零が寝室に飛び込むとそれは同時だった。
女は何処に隠し持っていたのか、ロシア製のマシンピストルを右手に構え、憤怒の形相で零に向かって9×18mmマカロフ弾をばらまいた。
間一髪でベッドの陰に隠れた零は、先程ハイヒールの蹴りでステアーを飛ばされたことを思い出し舌打ちした。
ベッドマットから大量の羽毛が舞い、部屋中に白い羽が雪のように舞い散る。
素早く次の動作に移ろうとしていた時だった。
「動くな!FBIだ!」
玄関のほうから聞こえた怒声に、零はまずいと思う反面、好機と判断した。ブロンド女がその声に反応したのか、銃撃が一瞬止んだ。先程放り投げてあったナイフを拾うと、電光石火の勢いで投げつけた。
「あっ!」
ナイフが一直線にブロンド女の腕に突き刺さり、がしゃりと銃を落としたのが聞こえた。
警察がここに来た以上、長居は無用だった。だが、ポケットに入れたはずの日記帳が見当たらない。
「くそっ。」
零は自分の間抜け加減に心の中で舌打ちをした。日記帳はベッドの上だ。僅かに顔を出すと、黒縁のメガネをかけた私服捜査官らしき男が、ブロンド女に銃を突き付けている。
仕方がない。零は腹をくくった。
「動くな。そのままだ。」
後ろから聞こえてきた声が、何を意味しているのか零はよくわかっていた。素直に両手を上げ、敵意がないことを示す。
「すごいですねぇ。主任の引き。ガイシャの部屋に来たら女同士が殺し合いなんて。」
黒縁眼鏡をかけた若い捜査官がブロンド女の腕を掴みながらへらへらと笑う。零に銃を突き付けているブラウンの短髪の捜査官はそんな冗談を相手にすることはせず、厳しい声で答えた。
「デイヴ。ここはオフィスでもお前の部屋でもねぇ。私語は慎め。おい。そのままゆっくりとここへ腹ばいになれ。」
最後の台詞は零に向けて言った言葉だった。少しアイルランドの訛りがある。両親、もしくはどちらかがアイルランド人だろうか。
二人は、まだ零が誰か気づいていないようだった。無理もない。今はセミロングの暗めのブロンドに殆ど別人になるような化粧を施している。
零が両手を後頭部につけたまま膝をついた。短髪の男がその腕に手錠をかけようとしたその時だった。
ブロンド女が若い捜査官を手錠をかけたその手のまま投げ飛ばし、ナイフを構えるのが見えた。切っ先をこちらに向けて水平に構えたナイフ。嫌な予感がした。
咄嗟に全身のバネを使い、後ろに飛んだ。背後にいた捜査官を巻き込み、床に倒れこんだ零の鼻先を、鋭利な刃がとんでもないスピードで飛んでいき、木製のクローゼットに突き立った。
スペツナズナイフ。旧ソ連の特殊部隊が使用していたといわれる射出型ナイフだ。
零はクッションの役割を果たしてくれた後ろの男の手の中のコルト・ガバメントをもぎ取り、ブロンド女の額にぴたりと照星を合わせて迷うことなく引き金を引いた。薬莢が床に落ちるのと、女がぐらりと糸が切れた人形のように頽れるのは同時だった。
零はそのまま女の生死を見届ける事はせず、豹のように素早く起き上がり、ベッド上の日記を引っ掴むと、そのまま窓ガラスに飛び込んだ。
「待て!!」
背中に制止の声を聞きながら、零は4階の窓を突き破り、重力に任せて落下していった。




