狼たちの邂逅
地獄への道は善意で舗装されている。
~ダンテ・アリギエーリ~
暖かい焔を感じて、目を覚ました。
酷い夢を見た気がする。凍てつく水の冷たさや、肌を刺す冷気はとても夢とは思えなかったが。
取り敢えず覚醒はしたが、瞼が開かない。
ひどく体が重い。暖かい寝具が冷えた体に心地よかった。
ふと、誰かが自分を見つめている気配がした。敵か、味方か。それは判らない。
藤田は横になったまま神経を研ぎ澄ませた。腰に佩いていた愛刀は無くなっていた。今感じているのは、パチパチと薪が爆ぜる音と煙の匂い、何者かの気配。
気配が更に近づくのを感じた。ギシリと寝台が鳴り、顔のすぐ横に何者かの気配を感じる。
「!!」
たまらずに目を開けると、大きな灰色の狼が、銀色の瞳で斎藤を見つめていた。
状況が把握できずにそのまま固まっていると、狼が首をめぐらせ、小さく吠えた。
「ああ、今行くよ。ちょっと待って。」
声の主を確認するため、身体を起こす。自分の体を見てみると、見慣れない服を着ていた。丈が合わないのか少しきつい。
藤田が体を起こすのを見て、傍らの狼がするりと声の方へ歩いていく。無駄に吼えることもなく、人に良く慣れている。
改めて、部屋を見回す。丸太で作られた小屋のようだが、決して粗雑ではなく、広さもあり頑丈そうな作りだ。
煉瓦で作られた暖炉の中では薪がパチパチと炎を纏わせて爆ぜていた。
それよりも、見慣れない調度品が気になった。この四角い黒い物は何だろうか。
部屋を見回していると、香ばしい香りが漂ってきた。明治の世になってから徐々に流行ってきた珈琲の香りだと気づく。
「気が付いた?運がよかった。あとちょっと遅れてたらヒグマ共の冷凍食品になってましたよ。」
声のしたほうに目を向けると、背の高い女がそこにいた。長めの黒髪を背中で一つにまとめ、変わった洋装に身を包んでいる。鼻梁が高く端正な顔立ちだ。異人の血が入っているのだろう。年齢は、20代後半位だろうかと藤田は判断した。
女性にしては低い声と、乱暴な口調が、一瞬男だと勘違いしそうになる。
足元には先程の狼がひっそりと佇んでいた。
取り敢えず、ここが何処か聞く必要があるようだ。
――――――――
厄介な拾い物をしてしまったと思った。
あの場所から1時間かけて正体不明の男を担いで運んだのだ。刀はライの背中に括り、分厚い雪に難儀しながら山を下りた。
自分の塒に運び上げたとき、男はかなり冷たくなっており、低体温症の一歩手前だった。頬の辺りなど、黒っぽく凍傷になりかけていた。
湿った服を脱がせている時、違和感を感じた。どう見ても服の縫製が工場で大量生産された物とは違うのだ。生地もポリエステルとは異なる手触りで、デザインも大分古めかしい。昔の軍服を彷彿とさせた。
上着を脱がせると、黒い肌着を着た体が露わになった。細身だと思っていたが、かなり鍛えられた体躯の持ち主だった事がわかった。そして、刀創と思われるおびただしい傷。頬のこけた痩せた顔、閉じられているが切れ長の眼は、痩せた狼のようだった。見た目からして日本人のようだ。
(軍人ではないようだ。火薬のにおいも、トリガーダコもない。だが、これは戦いを生業にする人間だ。)
面倒なことにならないといいが、と思ったが拾ってしまった手前また捨ててしまうわけにはいかない。ここに住んで3年ほどになるが、こんな事は初めてだった。
後ろで、ライが不満げに鳴いた。刀を括り付けてそのままだった。
「ごめんごめん。今外してやる。」
ライの背から刀を外すと、ずっしりとした手ごたえを感じた。1.5kgはあるだろうか。軽く鞘から刀身を出してみる。ギラリと日本刀特有の輝きが現れた。どう見ても本物だ。
こんなものを持っているとは、物好きな人間だ。
「重かっただろ。ごめんな。」
刀を仕舞うと、愛犬を労うように首を撫でた。
ベッドの上の男を見やると、まだ目を覚まさないようだ。何者か判らないが、こんなものを持っている以上堅気の人間には思えない。大方ヤクザ絡みの人間かそこらだろう。
「ライ。こいつを見ててくれ。目を覚ましたら呼べよ。あと、何かあったら、わかってるな。」
了解と灰色の眼が自分を見つめ返した。ライは賢い。ウルフドッグの血が入った猟犬であった。普段は幽霊のようにひっそりと自分に付き従っているが、狩りの時には、狼の血が騒ぐのか、勇敢に獲物に立ち向かう。自分の3倍はあろうかという羆にも怯むことなく戦った。今では唯一無二の相棒といってもいい存在だ。
愛犬にその場を託し、キッチンへ向かった。
コーヒーの良い香りが鼻腔を擽る。奮発して買ったかいがあったものだ。ステンレスのマグを二つ棚から取り出す。
それと同時にその下の引き出しから、食器棚には全く似つかわしくないもの――拳銃を取り出した。グロックは威力は低いが、プラスチックを多用しているため、寒冷地では重宝した。弾倉を確認してから、上着の下のホルスターに差し込んだ。
いつもの癖だ。初対面の人間は信用しない。いや、自分はすべての人間を信用していないのかもしれない。
コーヒーを淹れて、部屋に戻ろうとした時、ライが吠えた。男が目を覚ましたのだろう。
「ああ、今行くよ。ちょっと待って。」
銃の存在を今一度確認し、部屋に戻った。
「気が付いた?運が良かった。あとちょっと遅れてたら、ヒグマ共の冷凍食品になってましたよ。」
冗談めかして声をかけると、ベッドの上の男はまじまじと見つめてきた。
「ほら。温まらないと。凍死寸前だったんだ。コーヒーは飲める?」
ベッドに腰掛け、カップの一つを手渡す。恐る恐る手に取り、カップをまじまじと見るばかりで、一向に口をつけない男を見て、自分が先にカップに口をつけた。
部屋の中に香ばしい豆の香りが広がった。
「此処は…どこだ?」
ぽつりと男が呟いた。低い掠れたテノールだった。
「私の家ですが?」
「北海道なのか?」
「は?…そうだよ。美瑛町の外れだけど。あんたさ、なんでまたあんな恰好でトムラウシなんかに入ったんだ?自殺行為もいいところだ。」
「……トムラウシ?」
かみ合わない会話に違和感を覚えながら、気になっていたことを聞いた。
「あの刀は貴方の物?ずいぶん物騒なもの持ち歩いてんだね。」
「…俺の刀はどこだ。」
その途端に、男の眼に殺気が宿った。肌がピリピリと危険を訴える。やはりこの男は素人ではない。
「そう怒らないでよ。ちょっと預かっているだけ。それに、あんたを一時間かけてあそこから担いできたんだ。ちょっとは感謝してくれてもいいんじゃないかな?」
それを聞くと、男の殺気が和らいだ。ばつが悪そうに眉間にしわを寄せている。
すると、後ろにいたライが、甘えるように男に頭を寄せた。不思議そうにライを見つめている。
「ああ、そうだ。こいつはライ。あんたを見つけたのはこいつだ。感謝するならこいつにしてくれる?」
「…礼を言う。」
いまだ表情は険しいままだったが、ライの頭をなでる手つきは優しかった。
「ああ、私は吉村零だ。此処で猟をして暮らしてる。こんな見た目だが、これでも日本人だ。一応ね。」
人懐こい笑みを浮かべると、右手を差し出した。
「フン……藤田だ。藤田五郎。」
藤田と名乗る男は、零の手を握り返すことなく、相変わらず顰め面のままだった。
「藤田五郎」と名乗る男は、警察官だと話した。職務中に猛吹雪にあって遭難したらしい。
はっきり言って信じる気にはならなかった。もっとましな嘘をつけばいいものを。突っ込んでやろうかと思ったが、暴れられたら困るのでやめた。無用な争いは避けたい。
ただ、引っかかる物を感じた。只管珍しそうに部屋の中を見回して、暇だろうからテレビでも見てろとリモコンを渡せば、使い方もわからないのか、危険物でも触るかのように恐る恐る触っていた。
痺れを切らしてテレビをつけてやれば、飛び上がりそうなほど驚いていた。プライドが高そうな奴だったので、見て見ぬふりをしてやったが。
服を乾かしにランドリーに放り込もうとすると、上着の襟の内側に何か書かれていた。
『明治…年 内務省 官給品』
と厳めしい字で書かれている。内務省なんて省庁はこの国にあっただろうか。聞いたことがない。
(刀といい、こんなものを持っているとは随分懐古趣味な奴だな。この国にはまだサムライがいるんだろうか。)
そんなことを思っていたら、上着のポケットの中に何かがある。
確かめると、くしゃくしゃになった煙草だった。見たことのないパッケージで、鮮やかな花と女性のデザインが美しかった。今時両切りタバコなんて渋い煙草を吸う人間がいるとは。
ふと、思い立ち、煙草をポケットの中に入れた。
部屋へ戻ると、藤田は呆然としたようにテレビを凝視していた。目を向ければ何てことはない、ただのニュースだ。キャスターが淡々とこの大雪による被害を伝えていた。
「どうかした?」
「これは一体…いや、今は…何年だ?」
思わぬ質問に一瞬眼が点になったが、冗談とは思えぬほど真剣に聞いてくる藤田の姿に少したじろいだ。
「今は2028年。平成で言うと40年か。それがどうかした?」
「何だと?『へいせい』?」
弾かれるように藤田が顔を上げた。先程の殺気立った瞳が、今は嘘のように揺れていた。顔色も心なしか青い。
「あの。大丈夫?」
顔を覗き込もうとしたが、それを嫌がるように背けられた。やれやれと肩を竦める。
「疲れてるんだよ。今日はゆっくり休むといい。この吹雪じゃどっちみち麓まで行けないし。あ、それと電話は諸事情で引いてないんだ。悪いけど吹雪が止んだら麓まで送るから。それまで我慢してくれよ。」
おやすみ、そう言い残すと、電気を消して寝室を出た。
――――――――
吉村 零と名乗った女に、藤田はこれまでの経緯を簡単に話した。自分が警察官だと言えば、疑うような目を向けられた。ムッとしたが、嘘をついているわけではないので特に弁明などしなかった。
勿論、おかしな場所に土方らしき人物を見たという事は省いて説明したが。だが、この吉村という女、軽い口調の割には、随分用心深いようだ。
ドアを開けるとき、必ず向こう側の様子を確認してから開けるのだ。ほんの短い時間だが、様子を伺う気配を感じた。
更にこの女は『足音』をたてないように歩くのが癖のようだ。普通に歩いているようにみえるが、殆ど足音を立てていない。だが、無駄なことだ。どれほど音をたてずに動こうとも、気配でわかる。
何者なのか。猟師と言っていたが、それを信じるほどバカ正直でもない。念の為、警戒しておくに越したことはない。
吉村が、服を乾かしてくるから、テレビでも見ててくれ。と、黒い棒のようなものを投げてよこしてきた。まず、『てれび』とは何なのか。
黒い平たい棒をまじまじと眺めていると、脇から伸びてきた手に奪われた。すると、目の前の長方形の額が光ったと思ったら、音が鳴りだした。飛び上がりそうになった自分に腹が立つ。
扉に向かっていく笑いをこらえているだろう吉村の背中を、せめてもの仕返しと、睨みつけた。
長方形の額のようなものに、人が写っている。絵画ではなく、今流行の『ほとから』のように鮮明だ。違うのはそれが色鮮やかであり、動き、しかも喋っている。
中の『人物』は天候のことを話していると推測された。その人物の頭の上には『東北から北海道に大雪注意報』と文字が左から右に流れていた。
全てにおいて理解の範疇を超えている。
ここは、一体何処なのか…?
ただ、理解できるのは、此処は明らかに自分のいた場所ではないということだ。
チラリと窓を見れば、相変わらず風と雪が猛威をふるっている。外の景色を見ることはできない。
カチャリとドアが開く音が聞こえた。あの女、吉村零が戻ってきたのだ。だが、そちらに視線をやることなく、四角いこの『額縁のようなもの』を凝視していた。
『これ』は何なのかとは聞きづらかった。聞けばこの女は自分を不審に思うだろう。さっきは当たり前のように『これ』を使っていた。ここでは当たり前なのかもしれない。
今は何年かと聞いてみた。予想通り変な顔をされた。だが、返ってきた答えは予想の斜め上を超えたものだった。
(へいせい…?此処は、明治ではないのか?何が起こっている?)
一層混乱した。鼓動が速まっているのが自分でもわかる。
「大丈夫?」
顔を覗き込もうとする吉村から顔をそむけた。こんな無様な顔を見られたくはなかった。
何かを言われたが、耳に入らなかった。
おやすみ。という声が聞こえた。部屋が暗くなる。やはり疲れているのだろう。体を横たえると同時に、強い睡魔が襲ってきた。これはただの夢だと強く願いながら、藤田は目を閉じた。