John・Doe
ジョン・ドウ(John・Doe)
身元不明の遺体を指す俗称。Richard・Roeとも言う。
「Hey!Guys! arriverd in NY.(おい!お前ら。着いたぜ。ニューヨークだ。)」
しゃがれた濁声が、後ろで眠る二人を叩き起こした。のっそりと起き出した零が寝ぼけ眼をしょぼしょぼとさせながら、Thanks.と答えた。
斎藤ははいまだ疲れが抜けきれないのか、無精ひげが生えた顎を摩りながら、欠伸をかみ殺している。
『ハハ!そんな顔じゃ色男が台無しだぜ?俺には負けるがな!』
南部訛りの陽気な運転手はそんな二人を見ると、金歯を光らせて笑った。
『悪いね。無理言っちゃって。これ、少ないけど取っといてよ。』
零がポケットからクシャクシャになったドル札を数枚、気のいいドライバーに握らせた。
二人はあの後、墜落地点から夜通し歩き続け、やっとフリーウェイに出ることが出来た。それから2時間ほど歩き続けて運よく見つけた24時間営業の小さなダイナーに滑り込んだのだ。
彼は、疲労と空腹で憔悴しきった二人の男女を見かねてパニーニを奢り、偶然同じ目的地であるニューヨークまで、自分のトレーラーで連れて行くと二人に申し出た。
親切なドライバーに嘘を吐くのは心が痛んだが、二人は荷物を盗まれた唯のバックパッカーを装うことにした。
そうして、移動も兼ねた屋根付きの寝床を得た二人は、ニューヨークまでの11時間、泥のように眠りこけた。大分体力は回復したはずだが、やはり疲れは抜け切れていない。
『いいってことさ。それよりいいのかい?こんなに貰っちまってよ。』
『いいんだ。せめてものお礼だよ。本当にありがとう。』
二人は運転手と握手をすると、Ciao!と走り去るトレーラーを見送った。束の間の心休まる時間だった。
「気のいい男だったな。少し喋りが過ぎるが。」
「南部の男は大体あんな感じですよ。いい人に巡り合えて幸運でした。」
ハドソン川に架かるジョージ・ワシントンブリッジからでも、遥か天空を目指して聳え立つ摩天楼群がはっきりと見える。そこから少し離れた所に、この自由の国を象徴するかのように、右手を天高く掲げた女神が、眼下に広がるビッグ・アップルを見下ろしていた。
「ここが、そうか……。」
流石に疲れたように呟く斎藤に、零が無言で頷いた。その顔からはいつもの余裕のある表情は消え失せ、死地を目の前にした兵士のように厳しい眼をしていた。
「やっと……やっとスタートラインに立てたって言うわけだ。」
晴れ渡った空とは対照的に、ハドソン川からの冷たい風が二人の前を拒むように吹き抜けていった。
二人はそのままニューヨーク市街に入ることはせず、必要な物資の調達と、休息を得るために一度マンハッタンにごく近いユニオンシティにある零のハイドアウト(アジト)に寄ることにした。
ユニオンシティは面積が小さい割に人口密度が高く、治安はお世辞にもいいとは言えない。街は落書きやゴミが散乱し、至る所で売人らしき人間を見かける。ヒスパニック系のギャングが幅を利かせているのもあるが、ニューヨークから居場所をなくした貧困層の住人が流れ込んできたことも一因だった。
零のハイドアウトは個性的な落書きに覆われた雑居ビルの一室にあった。零のような生業をする人間はこのような【別荘】をいくつも持っている。いざという時に備え、装備や金を隠しておくのだ。
オーナーは華僑系アメリカ人で、下は雀荘と所謂いかがわしい宿になっており、上の階をアパートとして貸し出していた。
「いいところでしょう?」
零はソファの下の床板を外しながら、おどけたように斎藤を見た。冗談で言ったつもりだったが斎藤には通じなかったようで、あからさまにジロリと睨みつけられた。
バスルームにつながるドアを斎藤が開けると、ドアの上から雪のように埃が落ち、たまらずくしゃみを繰り返した。それを見て零がクスリと笑う。
「埃だらけだぞ。全く。」
「まぁ、借りてから2回ぐらいしか使ってないですからね。」
零は埃だらけの床板の下から、銃と弾倉、現金、使い捨ての携帯電話を取り出し、念入りに点検した。
近くで手持無沙汰そうにそれを見ていた斎藤が、リビングの方を見て零に声をかけた。
「てれび、を見てもいいか?」
「ああどうぞ。リモコンはテレビ台の上にありますよ。」
おぼつかない手つきだったがどうにかテレビはつき、画面からはCNNのキャスターが早口でニュースを読み上げていた。斎藤は、流れてきた異国の言葉に首をかしげながら見つめるしかなかった。
――本日未明、アメリカ全土の管制システムがサイバー攻撃を受け、旅客機が墜落するという前代未聞の痛ましい事件が起こりました。
――死傷者は500人を超えるとの見解です。
――なお、この事件を当局はテロ攻撃と断定し、捜査を行っております。このテロの実行犯の一人とみられる……。
零は備え付けの古いデスクトップを立ち上げ、キーボードを打ち込もうとしたその時だった。
「おい、これはお前じゃないのか?」
姿勢よくソファに座っていた斎藤が、零の背中に問いかけた。驚いたように振り返ると、小さな画面の中にアレクシス・コールマンであった頃の零の顔写真が映っていた。
呆然と画面を見ていると、キャスターが相変わらず淡々と原稿を読み上げている。
――なお、政府はアレクシス・コールマン容疑者の拘束に繋がる報奨金として、400万ドルを用意。
「やられた……。クソッ!」
まんまとハーミットにはめられた。そう思い零は拳を机に思い切り打ちつけた。キーボードがその衝撃にガシャンと音を立てて床に落ちた。
「落ち着け。零。いいから何がどうなっているのか訳せ。」
斎藤が怒りに震える零を静かに諭した。
「……すいません。あの墜落事故の犯人の一人は、私だという報道です。めでたく最重要指名手配犯リスト入りですよ。この首に5億円の懸賞金がかかってるんですって。」
自分の首を親指でなぞるように示すと、零はSHIT!と吐き捨てた。だが、斎藤はしばらく考え込んでこう言った。
「5億円とは豪気なことだ。俺にはどれくらいか見当もつかん。」
斎藤のどこか的外れな受け答えに、零は一瞬呆けたように顔を上げると、たまらず噴き出した。
「斎藤さんは図太いですねぇ。相棒がアメリカ全土、いや世界中から指名手配されてるのに。」
「悪かったな。」
「いいえ。褒めてるんですよ。」
先ほどの怒りは何処へやら、何が面白いのかくつくつと笑いをこらえるように下を向く零の姿を、斎藤が憮然としながら見つめていた。
二人はほんの少しだけ休息を取り、身なりを整えた。斎藤は無精髭を剃り、新しい服に着替えただけだが、零はそうはいかない。何せ顔が大々的に知られているのだ。なので、化粧を施し、セミロングの暗めのブロンドのウィッグを被って顔はサングラスで隠すようにした。それだけでも別人のように雰囲気が変わり、斎藤は気味の悪いものを見るかのように零を見た。
「……こうみると、異人の女にしか見えんな。」
「失礼な。斎藤さんだって見様によってはインテリヤクザにしか見えませんよ。」
再びデスクトップの前で零がキーボードを叩き始めた。斎藤の今の姿はダークグレイの細身のスラックスに、カッターシャツ、ジャケットと言うオフィス街でもあまり浮かない格好だ。だが、窮屈なのか首元のボタンを外していた。
「少しきついぞ。何とかならんか。」
「我慢してくださいよ…あれ?」
ディスプレイを見つめていた零が、不意に声を上げた。窮屈なシャツと格闘していた斎藤がどうした?と手を止める。無言のまま一点を見つめ続ける零が気になり、斎藤も隣から覗き込んだ。
画面には、少し短めの英文とテーブル一杯に載せられた中華料理を前に、満面の笑みを浮かべる小太りの白人男性が写っていた。斎藤には分らなかったが、その英文は、『最近引っ越した自宅近くの中華料理店だよ!すごくおいしそう!』と書かれていた。
「この男がどうかしたのか?」
「誰だ……これは。」
零が何を言っているのかわからない斎藤は、再度問いかけようとしたが、零は何やら考えるそぶりをしているのでやめた。
相変わらず零は画面をにらみつけたまま、何事かを思案しているようだ。
「これ、この前言ったブライアン・ロイドのSNSのアカウントなんです。勤務先、年齢、間違いないはずなのに……。私の知っている人間とは全くの別人です。」
「確かか?」
「ええ。目の雰囲気が全く違う。他の部分は整形でどうにかなりますが、黒目と白目の比率、目じりの角度から目元の雰囲気はどうしても同じになる。それに……あれは……。」
―――怖いほどの静寂の中に、荒れ狂う獣性を宿した獣の眼だった。
「……どういうことだ……?」
得体のしれない不気味な感覚と疑問が零の頭の中を支配した。では、あの時の男は誰だ?死んだブライアン・ロイドは何者なのか。
終わりの見えない思考回路から抜け出せずにいると、不意に肩を叩かれた。
「部屋にこもって悩むなど貴様らしくない。直に行って調べるしかないだろう。話はそれからだ。」
斎藤の思わぬ言葉に零は少し驚いた顔をすると、そうですね。と笑った。
この不思議な男がなぜ零の前に現れたのか、零自身もどうでもよくなっていた。
その浮世離れした感性と、普段は冷静なくせに、無鉄砲な所もあり、ぶっきらぼうな態度の中に、どこか優しさもあった。
誰かが放った刺客ではないかという疑念は殆ど薄れ、信頼という感情が芽生え始めていたのだ。
もしかしたら、神が遣わした守護天使なのではないかと、零は訝しげに眉間にしわを寄せる男を見て柄にもなくそう思った。




