Turbulence
小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
~ヨハネの黙示録~
二人の乗るバンは、時折エンジンから壊れたような異音を出しながら、ガタガタと空港に向かって走り続けていた。
重苦しい沈黙に耐えかねてか、零がくしゃくしゃになったタバコのパッケージを取り出して吸い始めた。たちどころに狭い車内に紫煙が立ち込める。
カーラジオからは早口の中国語で、先程の爆発事故の報道がひっきりなしに流れていた。
「……礼を言わなければならんな。」
助手席の窓から外を眺めていた斎藤が口を開いた。
紫煙を吐き出した零が、ちらりと隣を見た。
「何がです?」
第二の爆弾が爆発しようとした時、零は前を行く斎藤の背を咄嗟に押した。そのおかげで、彼は爆風を直に受けずにかすり傷だけで済んだのだ。
斎藤は、零が咄嗟に自分を助けようとしたのだと解っていたが、その行動に一抹の不安さえ感じていた。
「いや、何でもない。気にするな。」
「……こちらこそ、お礼を言わなければなりません。私の眼を覚ましてくれたのは斎藤さんですから。」
あの時、零は爆発の爪痕の中、酷く絶望したような顔で誰かを呼んだ。全く別の世界を見ているかのように。
斎藤にはそれが気になっていたのだ。過去に何があったにせよ、この頑丈な女を絶望させるほどの傷は、どれだけ時が経とうとも癒えることはなく、今でも彼女を蝕んでいるのかもしれない。
あの襲撃から、零は生き急いでいるような気がしてならなかった。
「……死に急ごうなどと考えるなよ。」
「え?」
何を言おうとも、薄っぺらい言葉になりそうで、どうにか紡ぎだした言葉はいつもの皮肉。自分の不器用さに腹が立った。
零はそんな斎藤の思いなど知ってか知らずか、あの人を食ったような笑顔を返した。咥えたタバコから、薄く紫煙が立ち上る。
「どんなことがあろうとも生存し、帰還しろと教えられましたからね。大丈夫。斎藤さんを置いては死にませんよ。」
不安になっちゃいました?とからかう零の言葉に、斎藤は眉を顰めてフン、と顔を背けた。
だが、前を見据えた零が呟いた言葉は斎藤には届かなかった。
「……もう、目の前で仲間を失うのは、ごめんだ。」
香港国際空港は、いまだ規制がかけられていないのか、通常通りに運行されていた。あと1~2時間もすれば、すべての便が規制されるだろう。テロリストが国外へ逃亡するのを防ぐためだ。この国では当局の意向がかなり強力で、民間の名を冠した国有企業はその意向に逆らえないのが現状だ。
「また、あの空飛ぶ奴に乗らなければならんのか。」
またもぶつくさ言う斎藤を宥めるのも、いい加減面倒になってきたが、へそを曲げられるとまた面倒なのでどうにか宥め賺した。
「今度はファーストクラスですよ。さっきのエコノミーとは天と地の差ですから。」
明るく言う零だったが、それに反して胸の中は疑心に満ちていた。得体のしれない告発者。『ハーミット』が取ったチケット。何らかの罠かもしれない。
自動チェックイン機で、指定された番号を入力し、2枚分のチケットを受け取る。
それを見て、零は眼を剥いた。名前は言わずもがな、スペルも完璧だった。それを見てさらに警戒の色を濃くする。自分はともかく、斎藤一という男の名前は、楢崎と自分、後は限られた人物しか知らない。
何処で知られたのか。何者かが、自分たちを視ている。言い知れぬ不気味さに支配された。
「どうかしたのか?顔色が悪いぞ。」
深刻そうな顔で黙りこくっていた零に、斎藤が顔を寄せる。大丈夫だと言おうとした零の耳に、驚くべき言葉が飛び込んできた。
「……やはり、誰かに尾けられているな。」
「解っていたんですか?何時から?」
「北海道の時からだ。気のせいかと思っていたが、やはりな。」
ずっと見られているような気がしたと、そう呟く斎藤の腕を掴み、零は耳元で囁いた。
「……ではこのまま気づかないふりをしましょう。何が目的にせよ、私たちを殺すならもっと手っ取り早い方法でやるはずです。」
それは同感だ。と言う斎藤に頷くと、もしもの時は、強行突破しかないなと心の中で覚悟を決めながら二人はゲートの中に消えていった。
―――その後ろ姿を見ながら、どこかへ電話をかけている人間がいたことには気づかずに。
警戒していた割に、空の旅路は肩透かしを食らうほど恙なく進んだ。周りには殆ど乗客もおらず、香港行きの便より随分精神的にも楽だった。
エコノミークラスとは違うゆったりとしたシートは、疲れた体には高級ホテルのベッドにも勝るとも劣らぬゆりかごのようだ。
だが、何処に敵が潜んでいるかわからないこの状況で眠ることはできなかった。碌な休息を取っていない体は、ひたすらに睡眠を欲していた。閉じそうな瞼をこじ開けながら隣を見ると、斎藤のほうは相変わらず冷や汗を浮かべてひじ掛けを握りしめている。
これならば、万が一眠ってしまったとしても大丈夫そうだ。
「斎藤さん。大丈夫ですか?水でも貰います?」
「いや、大丈夫だ。慣れてきた。」
台詞とは裏腹に全く慣れてなさそうな頑固な相棒に苦笑していると、斎藤が青い顔でじっと零の顔を見つめてきた。斎藤の事を気遣うその顔は少しやつれた様に見えた。
「何ですか?人の事じろじろ見て。」
「……碌に寝ていないのだろう?何かあったら直ぐに起こす。寝ておけ。」
「大丈夫ですよ。そこまで疲れていません。」
「黙れ。俺はこんな所では眠れん。お前は寝ろ。二人とも倒れたらシャレにならん。」
言い出したら聞かないのは短い付き合いだがよくわかっている。零はありがたく申し出を受けることにした。
「……少しでも異変があったら蹴り起こしてくださいよ。ホントに。」
「解っている。うるさい。黙れ。寝ろ。」
半ば殺気立った眼でぎろりと睨まれて、やれやれと肩を竦めると、睡魔に委ねるようにブランケットにくるまった。
この場所は本当に奇妙で異常だ。
此処で過ごしてほんの数日だが、斎藤はそう思った。
忌々しい鉄車。二度と乗りたくもない空を飛ぶ鉄の塊。文明の発達とは百数十年で此処まで変わるものか。
それは、人々に利益をもたらす物だけではない。
人を殺す兵器でさえも、自らが知る時代とはかけ離れている。如何に効率よく殺せるか。あの爆弾は、それを限界まで考え、開発されたような物に思えた。
火薬だけではあそこまでの威力は出ない。4丈は離れていたはずだが、あの体が浮き上がる程の圧力には寒気すら覚えた。今でも克明に思い出せる。
異国の地であのような事件が起こっているというのは零から聞かされていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思わなかった。
(この女があの場で気づかなければ、今頃は此処に居なかっただろうな。)
初めに乗った座席よりはるかに質の良い背もたれにゆっくりと背を預け、小さな窓から外を見る。切り取られた天鵞絨のような空。立ち込める灰色の雲海の上には月が煌々と浮かんでいる。
幻想的な景色を楽しむ余裕等殆ど無い。上下にゆったりと揺れるのには慣れてきたが、やはり空を飛んでいると思うと自然と体に力が入ってしまう。
「Excuse me.Do you need a blanket?」
いきなり異国語で話しかけられ、ぎくりとした。客室乗務員と言うらしい異国の女だ。何を言っているかはわからないが、毛布を持っているところからして、乗客に必要か聞いて歩いているという所だろう。
「……いや、必要ない。」
異国語など話せる筈もなく、日本語ですらぎこちなくなる。乗務員はそんな斎藤ににっこりと笑顔を返し、別の席へと歩いて行った。ほっと息をつく。この飛行機とやらは最新式の陸蒸気(機関車)よりかなり静かで揺れも少ない。空を飛んでいるなど、外を見なければ解らないくらいだ。
周りを見渡せば、数少ない乗客も座席を倒して寝入っている。零には休めと言ったが、やはり自分自身も疲労が溜まっていたのだろう。うつらうつらと意識が飛びそうになる。
暫しの間必死に睡魔と戦っていたが、ファーストクラスのシートと心地よい揺れは、斎藤を否応なしに夢の世界へ引きずり込んでいった。
零は、言いようのない違和感を感じて覚醒した。弾力も触り心地も素晴らしいシートは、全快とは言えないが、澱のように溜まった疲れを癒すのには十分だった。
辺りを見回すと、隣では自分が起こすと言っていた筈の斎藤が腕を組んだまま眠っていた。喉の奥で笑いながら自分のブランケットをかけてやると、ついでに窓の外を見た。途端にその顔が難しいものに変わった。
(あれは……旅客機?いくら何でも近すぎはしないか?)
旅客機の航路は、衝突コースを避けるため往路復路が別のコースで構成されている。たとえ同じだとしても、ニアミス防止の為に高度を最低でも1000フィートは空けるはずだ。
だが、あの旅客機は、真っすぐに零達の乗る機の横腹に向かっているように見える。
嫌な予感がする。シートベルトのランプは点灯していないので、反対側の座席へ移動し、窓のシェードを開けた。
「嘘だろう……?」
4機はいるだろうか。いや、もっといる。その全てが、雲海から四方八方に飛び魚のように飛び出してきた。
異常な光景に、零は戦慄した。
『機長からお客様へご連絡します。誠に申し訳ありませんが、当機はこれよりシカゴ空港へ緊急着陸に入ります。乗務員の指示に従い、シートベルトをお締め下さい。』
急いで斎藤を起こす。寝ぼけ眼の斎藤にシートベルトを締めさせ、素早くコックピットと乗務員の様子を観察した。
騒然とする乗客に対して、プロらしく毅然と対応しているが、明らかに動揺が見て取れる。
「おいどうした……。何かあったか?」
「あ、起こしてすいません。気流が不安定なので、シートベルトを着けてくださいですって。」
眼をしょぼしょぼさせながら斎藤が聞いてきたが、そ知らぬふりをした。余計なことを言ってまた駄々を捏ねられたら堪らない。
出来るだけ窓の外を見せないようにこちらに注意を向けようとしたが、それは徒労に終わった。
「おい……向こうの奴、火が出ているぞ……。」
茫然と呟く斎藤と同じ方向に眼を向けると、ちょうど雲海から出てきた旅客機が真っ赤な炎ともうもうとした煙を纏っていた。左主翼が半ばから引きちぎられたように中身を露出させている。
雲の中で別の機と衝突したのだろうか。
さらについてない事に、零達の機から200メートルも離れていなかった。
「なんだってこんなにもツイてるのやら。全く。斎藤さん、もし此処で死んでも恨まないでくださいよ。」
「……悪いが、それは無理だ。」
隣でピーナツバーを齧りながらとんでもないことを言う女を、じとりと睨みつけると、斎藤はもう絶対に飛行機など乗ってたまるかと心に決めた。




