老兵と侍
輝く太陽にほまれあれ!ほまれあれ!
われらが空の太陽にほまれあれ!
われらがルーシのイーゴリ公にほまれあれ、
ほまれあれ、ほまれあれ!
~歌劇「イーゴリ公」~
その後、襲撃は呆気なく収束した。
凄絶な剣技を目の前で見た海賊たちは、戦意を喪失したのか、銃を捨て続々と投降した。
それはあまりにも呆気なく、サハロフ達も目を瞠るほどだった。
斎藤が血糊と脂の付いた刀を入念に拭き取り、刃こぼれがないか点検していると、後ろから少し訛りのある日本語が聞こえてきた。
「ミスターサイトウ、貴方の御蔭で最小限の損害で済んだ。礼を言う。」
異人の口から耳慣れた日本語が飛び出したのが不思議なのか、
斎藤は少し驚いたように目を瞬かせると、はっと我に返ったように頭を下げた。
「いや、貴殿が注意を引いてくれたおかげだ。こちらこそ礼を言わねばならん。」
それを聞くと、サハロフは心から驚いたように目を瞠った。
「……日本人は謙虚だと聞いていたが、本当だな。」
独り言の様に笑うと、サハロフは斎藤の刀を興味深げに覗き込んだ。
「カタナというものは初めて見た。それを遣いこなす人間も。日本にはサムライが居たというが、ここまで凄まじいものとは思わなんだ。」
どう答えていいかわからず、戸惑っていると、デッキの隅に集められている海賊達が視界に入った。銃を持ったサハロフの部下に囲まれている。
彼等はサハロフの部下によって厳重に拘束されていた。資材を留める為の結束バンドで両腕を後ろ手で拘束され、もはや抵抗すらできない。
悄然と項垂れている者、絶望を顔に張り付かせて泣き喚く者の声が甲板に響いていた。
「奴らは何者だ?」
拘束されている海賊たちを見ながら、斎藤はサハロフに問いかけた。
「奴らは最近この海域を荒らしまわる海賊でな。他国の輸送船も被害に遭ったと聞いていたが……まさか我々の船に襲撃をかけるとは、馬鹿な奴らさ。」
何の感慨も無さそうに淡々と答えるサハロフが、海賊たちを見張る部下にロシア語で何事かを叫んだ。
ロシア人達は彼等を拘束したまま無理矢理立たせると、銃で追い立てるように彼等を縁まで移動させた。
斎藤は訝しげにその様子を見守っていたが、次の瞬間瞠目した。
悲鳴と水音が船のエンジン音にかき消される。
後ろ手で縛られたまま一列で立たされた海賊たちは、為す術もなく荒れ狂う海の中へ落とされていった。
サハロフが静かな眼でそれを見守る。処刑を見守る領主のような冷酷な眼だった。その眼が斎藤に向けられる。
「我々は、同志と認めた者の為には命を賭けてでも戦う。だが、牙を向ける者には一切の容赦はしない。それが我々のやり方だ。」
「……ならば、何故止めを刺さない。」
「弾が勿体ないからだ。長期間の航海は慢性的に物不足になるからな……奴らの誰かでも運が良ければどこぞの船に拾われるだろう。」
ボロボロの輸送船が走った後の波の合間に、点々と人の頭が出ていたが、この荒波だ。十中八九助かるまい。
泣き叫びながら海へ落ちていく海賊たちを見ながら、斎藤は暗澹たる気分に支配された。
「斎藤さん。」
不意に後ろから声をかけられる。聞きなれた低めの女の声。
「この船の上は彼等の国です。私達は部外者。何も見ない聞かない事。」
零はそう言いながら、さっさと船倉に引っ込んでしまった。
「……わかっている。」
斎藤は、自分に向けられているのであろう異国語の賞賛や感嘆も耳に入らず、ただじっと昏い海を見つめていた。
―――――――――
昏い顔で戻ってきた相棒に、零は労いの言葉をかけようとして口を噤んだ。
「あと7,8時間で着くはずですから、それまで少し仮眠しておいた方がいいですよ。」
そう言うとごろりと硬い船倉の床の上に寝転がった。が、斎藤は一向に横になる気配もなく険しい顔で虚空を睨んでいた。
「……吉村。」
「……はい?」
背中を向けたまま答えたが、いつもの様に行儀に煩い男が、何も言わないことに違和感を感じた。
「……お前は…いや、何でもない。」
「……。」
しばしの沈黙の後、零は深く息を吐いた。
「真実とは美しいものとは限らない。正義もまた然り。」
「なんだと?」
「…昔、上司に言われた言葉です。斎藤さん。これから私達には今日起こった事以上の出来事が降りかかるかもしれない。
それは、『普通の人間が知らなくてもいい事』を見ることになるんです……それでもいいですか。」
零は、その言葉が汚い、卑怯なセリフだという事は分かっていた。だが、自分は正義の味方でも何でもない。これから起こることは決して綺麗事では済まされない。
ここから先、生半可な選択や気の迷いは、死を意味する。
彼は恐らく、無抵抗の人間があそこまで残酷に殺されてゆく事に動揺しているのだろうと零はそう思った。
それはそうだ。彼等は敵対する者の全てを破滅させるほど苛烈で、残酷だ。見せしめと称して酷く残酷な殺し方だってする。
だが、それが彼らの世界であり、彼等のやり方だ。自分たちは部外者で、外国人。正義のヒーローでも何でもない。
斎藤は正義感の強い人間なのだろう。だが、零の言う事を理解できぬほど愚かではなく、その狭間で葛藤しているのだ。
「もう既に3人殺した身だ。今更どこに行こうとも無駄だ。」
絞り出すような低い声が、零の背中に投げかけられた。それに続いて、だが、という声が静かな船倉に響いた。
「……俺は、俺自身の正義の為に剣をふるう。ただそれだけの事だ。」
その声に迷いはなかった。零はそれを聞くと、静かに笑った。
―――――――――――――
その後の航海は、驚くほどに恙なく過ぎて行った。釜山港に着くまでの間、零はラジオを聞きながら空港のスケジュールを確認し、斎藤は刀の手入れと言う風に時間を費やした。
『さあ、着いたぜ。ヤポンスキー。』
ユーリが船倉に顔を出し、そう告げた。口調は素っ気ないものだったが、その顔には初めのような敵意はなかった。
デッキに出ると、既に釜山港が見えた。宵闇の中で釜山の町の灯りが煌々と輝いている。
零は二人分のパスポートとチケットを確認し、サハロフに声をかけた。
『Mrサハロフ、ここまで乗せてもらって感謝する。貴殿が居なければ私達はここまで来られなかった。』
零がロシア語でそう告げ、右手を出す。
『いや、礼を言うのはこちらのほうだ。同志達よ、もしも何か困った事があれば連絡しろ。すぐに我らが駆けつけよう。』
固く握手を交わし、二人は船を降りた。
「ミスターサイトウ!」
不意に投げかけられた日本語に、斎藤が振り向いた。
「貴公は高潔な騎士だ。それには敬意を表する。だが、その正義は余りにも危うい…それでも、貴公はそれを貫くのか?」
意図の見えない問いかけに、斎藤は逡巡したが、すぐに遠ざかる船上の老兵士を見返した。
「無論。死ぬまで己の誠を貫くのみだ。」
それを聞くと、老兵士は満足そうな笑みを湛えた。
『Рати храброй их слава, слава, слава!
(諸公の勇敢なる兵士にほまれあれ、ほまれあれ、ほまれあれ!)』
海上に朗々とした歌声が響き渡った。港で忙しなく行交う荷揚げ業者達が、思わず立ち止まるほど美しい歌声だった。
それは歌劇『イーゴリ公』プロローグの一節で、プチーヴリの民衆によって歌われる、 出発するイーゴリ公達を寿ぐ歌だと傍にいた零は直ぐに理解した。
「斎藤さん。凄いじゃないですか。稀代の革命家に気に入られるなんて。」
怪訝な顔をしてそれを見やる斎藤を見て、零はクスリと笑った。