老兵士は戦場の夢を見る
革命は決して人民の罪にあらずして
政府の罪なり。
~ゲーテ~
ロシア人達の輸送船の船倉は、相変わらず薄暗く、ジメジメとして、たまに海水が入り込んでくる。荒れ狂う波をもろにひっ被り、引っ切り無しに揺れる。
毛布を敷いただけの堅い床も、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
それよりも沈没の心配をしておいたほうがよさそうだと、手帖を読みながら零が思っていた時だった。
錆着いた嫌な音を立てて、船倉の扉が開いた。
深緑色のセーターを着たサハロフが、ウォッカの瓶とショットグラスを片手に入ってきた。
『Mrサハロフ。どうしたんだ?』
零がロシア語で問いかけると、極寒の地を思わせるようなアイスブルーの瞳が零を見つめた。
「この時化で船酔い一つしないとは大したものだな。反吐にまみれて転がっているものかと思ったぞ。」
意外なことに流暢な日本語が彼の口から流れ出た。
「そりゃどうも。……日本語、なかなか上手いんだな。」
「ナラサキに教わった。奴は古い戦友だ。傭兵時代のな。」
サハロフがウォッカの栓を開け、ショットグラスに注いだ。琥珀色の液体がグラスに満たされる。
「スタルカの12年物だ。中々飲めんぞ。部下に見つかったら味わうどころかラッパ飲みされちまうからな。」
ショットグラスから立ち上る芳醇な香りを深く吸い込み、意外な顔でサハロフを見た。
「……いい香りだ。ウォッカってのは馬鹿みたいに強いだけかと思った。」
「アメリカ産の下品なまがい物と一緒にするな。アルメニア産のブランデーがブレンドされている。他にも複雑な工程故に生産数も限られているんだ。だが、味は保証する。」
零はグラスを受け取り、束の間芳醇な香りを楽しんだ。サハロフがグラスを掲げる。
「……我々の出会いに。乾杯。」
目の前にグラスを掲げ、一気に飲み干す。アルコールの塊が喉を滑り落ち、かっと体が熱くなった。
すぐに馥郁たるオーク樽の香りと芳醇なブランデーの香りが鼻腔に広がる。ウォッカと思えないほど繊細な味わいだった。
「……うまいな。これは美味い。」
「だろう?」
サハロフの髭面が少年の様にくしゃりと笑った。その笑顔だけ見れば、彼が血生臭い生業をしている人間とは到底思えぬほど、人間臭いものだった。
零はその顔を見て、ふと思った。
「ずっと誰かに似てると思ったが、あんたまさか、ディミトリ・カレンスキー……か?」
「……なぜそう思う?」
その言葉を聞いたサハロフが歯をむき出して笑った。先程の笑顔から一変し、獲物を目の前にした羆の様に獰猛な笑顔だった。だが、零はつまみのアザラシの干し肉を齧りながら、淡々と答える。
「さあな。教科書に載っていた顔に似ていただけだ。ま、あのクリミアの英雄がこんなボロ船に乗ってるとは到底思えないがね。」
ディミトリ・カレンスキー。15年前のロシア連邦で起こったクーデターの立役者であり、最大の功労者。クリミア出身の軍人で、ロシア政府の強引なクリミア編入政策に反発し、叛旗を翻した。彼は一将校とは思えぬ手腕で反ロシア勢力をまとめ上げ、実質的な指導者となる。
そのカリスマ性は、ネストル・マフノの再来とも言われ、反体制派からは熱狂的な支持を受けた。
圧倒的な数の不利を覆したハバロフスクの戦いでは、ロシア軍の戦車を奪い、無線を混乱させ味方同士の誤爆を誘って、敵を恐怖に陥れた。
数々の功績と、彼自らの戦いぶりから両軍の兵士たちは畏怖を込め、『ズヴェルボイ(猛獣殺し)』と呼んだ。
のちに独立は実現したが、彼はロシア政府から最重要指名手配テロリストに指定され、
ディミトリ・カレンスキーの名は表舞台から忽然と消えた。死んだという噂や、アメリカに亡命したという噂も出ていたが、どれも眉唾だった。
「……俺はただの水夫さ。それにな、英雄なんてものは、99%がプロパガンダの紛い物だ。真の英雄は、表舞台には決して出ない。」
まるで誰かの死を悼むように、彼の瞳が揺れた。だが、それは一瞬のことで、すぐに零の眼をまっすぐに見据えた。その眼は歳経た雄鹿の様に穏やかで、静かな威厳に満ちていた。
「お前はただの小娘じゃない。お前の眼は兵士だな。俺にはわかる。だが、お前のそれは棄てられた猟犬の眼だ。」
琥珀色のウォッカが、再度グラスに満たされるのを零は無言で見つめていた。タバコが無性に吸いたくなり、ポケットをあさる。
「小娘ね。三十路もとうに過ぎた女にはずいぶんな褒め言葉だこと……。まぁ、あんたの過去に興味はないさ。この船に乗せてもらって感謝している以外はね。」
「……そうだな。余計な詮索をした。せっかくのウォッカが不味くなるな。」
サハロフが詫びながら、自分のグラスにもウォッカを注いだ。折角なので零も楢崎から貰ってきたタバコの箱を手渡すと、サハロフは喜んで受け取った。
「そういえば、お前の連れの日本人だが、不思議な男だな。」
ふと、サハロフがつぶやいた。
「Mr斎藤のことか。ああ、ものすごい世間知らずだが、悪い奴じゃあない。保証するよ。」
よもや斎藤が早速何かしでかしたかと思い、咄嗟にフォローする。だが、零の考えは杞憂だったようだ。
「最初は兵士かと思っていたのだが…いや、違うな。久しくあんな眼を忘れていた。」
愉快そうにサハロフが笑った。斎藤が何かしでかしたのでないと判り、半分ほっとする。
「……日本にはかつて騎士のようなものが居たそうだが……ああ、何と言ったか……?」
「サムライか?」
「おおそうだ。ナラサキがそう言っていた。サムライか。剣と志を持って主君に忠節を誓う、高潔な騎士だと聞いた。傭兵時代、ナラサキから色々なサムライの話を聞いたよ。
中でも私が好きだったのは、滅びゆく国の為、最後まで国に尽くしたサムライ達の話だ。少しだけ我らに近いものを感じた。だが、それと同時に思い知ったよ。
私は彼らのような覚悟など到底できない半端者だと」
是非本物に会ってみたいものだと言ったら、ナラサキに笑われたがね。とサハロフが少し残念そうに笑った。それを聞いた零は、ただ、手の中のグラスをぼんやりと見つめていた。
「……私は、国の為に死ぬ事などできなかった。見捨てられ、彷徨いながら、どうにかして自分の存在する意味を見出したかった。色々な経験をしたが、さして自分が変わったと思えない。臆病者の半端者だな。私は。」
自嘲するように、零が吐き捨てる。アルコールも入り、疲れているのもあるのか、いつもより饒舌だった。それは、サハロフの不思議な存在感の所為なのかは判らないが。
「確かに、見捨てられた犬は死を待つ運命かもしれん。だが、その死ぬまでの時間は自由ということじゃないのか?」
はっとしたように、零はサハロフを見た。相変わらず、静かな湖面のような瞳が自分を見つめていた。
「嘆き悲しんで死ぬも、捨てた主人に牙を突き立てるも、好きに野山を駈けるもお前の自由だ。お前の首にはもはや、鎖も首輪もないのだからな。」
よく通るバリトンが、不思議と心の蟠りを溶かしてくれているような気がした。零はそこで初めて、自分が迷っていたことを知った。
あの強大な権力を持つ国家に、棄てられた犬の牙など届くのだろうかと思う自分もいたのは確かだった。だが、今の言葉で心は決まっていた。
牙が届かずとも、真実を見つける。たとえそれが自らの血と肉を犠牲にしたとしても。もう自分に鎖はないのだから。
「……流石英雄様だ。人心掌握が上手い。政治家になれば投票したくなるよ。」
にやり、と零がサハロフの肩を拳で軽く叩いた。
「私が嫌いなものはな、アメリカと政治家と社会主義、そしてアメリカ産のウォッカだ。よく覚えておけ。」
冗談交じりにサハロフが答えると、何やら扉の外が騒がしくなっている。二人が首を巡らせると、禿頭に入墨を入れた大男が細身の男を担いで入ってきた。その強面の顔はどこか気まずそうだった。
サハロフが部下に鋭いロシア語で問いかけた。
『どうした。セルゲイ。何があった。』
『あっ、大尉!?申し訳ありません。ちょっとヤポンスキーが酔いつぶれちまって……。』
サハロフを見たセルゲイが一瞬ぎくりと立ち止まり、眼を泳がせる。大体の事情を察した零がため息をついた。
『あ、斎藤さん。やっちゃったかー。大丈夫。この人、ノーと言えない人だから。こいつも悪いから気にするな。』
真っ赤な顔をして眠りこける斎藤を寝かせると、あとで水と塩と洗面器を持ってくるようにセルゲイに頼んだ。
「すまんな。私の部下が。よく指導しておこう。」
しきりに恐縮するセルゲイと、それを詫びるサハロフをなだめると、借りだと思って後で返してくれればいいと笑って言った。
サハロフたちが出て行った後、船倉には零と酔っぱらって眠りこける斎藤だけが残った。彼はずいぶんと船酔いしやすい性質のようだったし、これでよかったかもしれない。不可抗力というものだ。
「おい、サムライ。だらしないぞ。」
零が斎藤の眉間のしわを伸ばすように指を押し付けると、更に眉が寄せられた。起きる気配は全くない。あの小憎らしい斎藤とはずいぶん違う意外な姿に、小さく笑う。
「ははは……。いいさ。今はゆっくり休め。船を下りれば、戦場になる。何処から敵が来るのかは分からないが……あんたのことは、絶対に守ってやるよ。」
無関係の人間を巻き込んでしまったことを悔いながら、零は決意を新たにする。もう絶対に死なせるものかと。
―――海は未だ荒れ続けている。その荒波の中、必死にもがき続けるのだ。嵐の中の小舟の様に。たとえそれが無駄な足掻きだとしても、決してあきらめることはない。




