アレックス
どんな馬鹿でも真実を語ることは出来るが、
うまく嘘をつくことは、かなり頭の働く人間でなければならない。
~サミュエル・バトラー~
薄暗い洗面所の鏡の前で、零は自分の姿を見つめていた。後ろで束ねていた髪を下ろし、この隠遁生活で長くなった髪を指でつまんだ。
そして、徐にハサミを手にし、鏡の中の自分を見つめた。
「じゃあな。吉村零。」
ざきり、ざきりと黒い髪が切られていく。みるみるうちに、長い髪が切り落とされ、顔の輪郭が露わになる。かつての自分と決別したはずなのに、あの頃に戻った様な錯覚を覚えた。今となれば、忌々しい記憶でしかない。
すべて切り終えた零の髪は、すっかり短いショートヘアに変わっていた。
頭を振ると、ぱさぱさと残りの髪の毛が足元へ落ちた。洗面台に両手をついて、額を鏡につけると、鏡の中のショートヘアの女がこちらを睨みつけた。
「おかえり。アレックス。」
その声は、言葉とは裏腹に驚くほど冷たく、寒々しいものだった。
洗面所から出ると、藤田が驚いた様に目を見開いた。普段から鋭い狐目の男がそこまで目を剥く姿が何だかおかしくて、零はクスリと笑った。
「何?そこまで驚くことはないんじゃない?」
自嘲するようににそういうと、藤田は少し気まずげに目を逸らした。
「いや、あまりにも雰囲気が変わったからな…。何故髪を切った。」
「髪が短いほうが何かと便利なんだ。変装するときとかね…。ああそうだ。さっき薄野駅で襲撃された。尾行はないと思うけど、用心に越したことはない。10分後にここを出る。」
「何、襲撃だと?どこの誰だ。」
「ちょっと、それに関しては物事を整理する必要があるんでね。情報が圧倒的に少なすぎて。…あ、爺さんできた?」
案の定零に詰め寄る藤田をやんわりと押しとどめながら、楢崎に声を掛けた。
「…ああ。出来てるよ。ほら。」
「さすが、ゴッドハンドは仕事が早いね。」
真新しいパスポートを手に取ると、零は確認するように一ページ一ページ丁寧に見ていく。零は顔が引きつった男の写真と、新たな名前を確認して、パスポートを手渡した。
「サイトウ ハジメ…か。いいんじゃない?フジタゴロウより何か似合ってる。」
「…どういう意味だ。」
「いやいや!別に馬鹿にしたわけじゃないって!」
じろりと威圧感たっぷりに睨みつけられ、慌てて零が弁解した。そんな二人を楢崎は呆れたように見つめた。
「おい。斎藤一っつったら、かの有名な新選組の隊士だろうが。そんなことも知らねぇのか。」
その言葉に、何故か斎藤がびしりと固まった。だが、零は聞きなれない単語に首を傾げるだけだった。
「シンセングミ…?この国の歴史に全部詳しいわけじゃないんだ。サムライがいたことしか知らないし。」
「全く世も末だねェ。嘆かわしい。ちったあ勉強しとけ!……それより嬢ちゃん。行く『足』はどうするんだ。」
その言葉に、零は真剣な顔で楢崎に向き直った。
「一度は飛行機を考えたが、ここから千歳まで行く間に奴らは包囲網を敷いているだろうな。あとはフェリーしかないか…その厄介なものもあるし。ね、斎藤さん。」
そういうと、零は斎藤とその傍らにある黒いゴルフバッグを見やった。
ちなみに中身はクラブではなく、彼の刀だ。自宅を出る時に頑なに処分することを拒否した為、仕方なくゴルフバッグに入れて持ってきたのだ。
ただ、このバッグは特殊仕様で、本来の用途で使うものではなく、銃器などの武器を隠しておける細工がなされている。
それでも渋る斎藤を何とか説き伏せたが、万が一見つかればどう言い訳してもやり過ごすことはできないだろう。
「……今日の夕方。小樽から船が出る。ロシアの貨物船だ。行先は釜山経由らしいがな。仕切ってるのはサハロフという男だ。古い馴染みでな。信頼できる男だ。俺がつなぎをつけてやるから、後はうまくやりな。」
楢崎がロシア語で書いた手紙と、おそらくサハロフという男の連絡先が書かれたメモを零に手渡した。
「…爺さん…。なんで…。」
驚きを隠せないといった表情で零は楢崎を見た。
「勘違いするんじゃねぇ。金はきっちり貰う。前金で15万だ。後は手数料で5万だ。今払え。」
「くそっ!少しでも感動した私が馬鹿だったぜ!この糞ジジイが。」
ポケットから札を取り出し、粗っぽく数えてから机に叩きつけた。それを見て楢崎が素早く万札の束をひったくる。皺の刻まれた顔が満面の笑みに変わった。
「何とでも言えや。地獄の沙汰も金次第ってな。」
「地獄には金も持っていけねえよ。くそったれ。あとタバコくれ。」
零は近くにあった国産たばこをを4カートンほど袋に詰めた。
「お前タバコやめたんじゃねぇのか。」
「ロシア人には喜ばれる。日本のタバコは高いからな。」
「やること為すことえげつないねぇ。まぁ、それは餞別にやるよ。持ってけ。」
零はタバコを数カートン受け取り、バッグに詰め込んだ。要件は為した。もう、ここにいる理由はなかった。
「じゃあ爺さん。そろそろ行くよ。」
二人が出口から外に出ようとした時だった。
「……零よ。」
楢崎が零の背中に声をかける。先ほどとは打って変わって静かな声だった。
「死ぬんじゃねぇぞ。」
「…ああ。」
お互い顔を見ることすらしない。短い別れだった。斎藤がちらりと楢崎の顔を見た。
楢崎は斎藤の視線に気づくと、深々と頭を下げた。
斎藤は目礼だけで返すと、楢崎たばこ店を後にした。
車に乗り込むと、二人は改めて今後のスケジュールを話し合った。
といっても、斎藤の方は何もわからないので、全て零に任せっきりでなのだが。ただでさえ慣れない地で目まぐるしく変わる状況に、いい加減斎藤自身も疲労が見えてきたようだった。
「取り敢えず、楢崎の爺さんのつてで釜山へ行きます。そして釜山から香港経由でニューヨークまで。かなり長旅になりますけど……我慢してください。」
「そんなことは気にしなくてもいい。……そろそろ何が起きているのか、何故お前は追われる身になったのか、いい加減話せ。俺はお前に同行する以上、経緯を知っておく必要がある。」
斬りつけるような斎藤の視線に怯むことなく、零はまっすぐにその眼を見つめた。暫く沈黙が続き、漸く観念したように息を吐いた。
「昔、私はDIA…アメリカ国防情報局に所属していました。」
ハンドルを握りながら、零は静かな口調で語り始めた。
「……6年前、私はソマリアにジャーナリストとして潜入し、イスラム原理主義のテロ組織に情報を漏えいしている人間を特定するという任務に就いていました。だけど、後一歩で特定できるという寸前で、どこからか情報が漏れ、私は捕らえられた。」
淡々と話す零の横顔を見ながら、さっきまで話していた吉村零とは、まるで別人のようだと、斎藤は思った。
「私はソマリア北部のどこかで数か月、監禁、拷問されました。監視の隙をついて逃げだした私は、7日間山を越えてサバンナを彷徨い歩き、行き倒れていたところを、奇跡的にモガディッシュに向かう途中だった記者団に保護されたんです。脱水症状と失血で殆ど記憶はありませんが、気が付いたら、モザンビークの軍病院に入院していました。捕らえられてから3か月も経過していたと、助けてくれた記者が差し入れてくれた新聞を見て初めて知りましたよ。」
自嘲気味に零が笑った。思い出したくも無い記憶だったが、一度たりとも忘れたことは無い記憶でもあった。
「ある日、ペンタゴンのお偉いさんが物々しく護衛を連れて面会に来ました。奴はゴミを見るような目で吐き捨てやがった。
私がテロ組織に通じて機密情報を流し、CIA局員を二名殺害した反逆罪で今この場で権限をはく奪し、本国へ強制送還の上、拘束するとね。」
フロントガラスを滑るワイパーの音だけが、車内に響いていた。
「もちろん濡れ衣だ。半年以上ソマリアに滞在していたし、私は3か月間監禁されていた。そんなことをできるはずもない。」
「……罠か。」
斎藤が厳しい目で唸るように言った。
「誰が何のために私を罠に嵌めたのか知らないが、兎に角私は所属していた組織にも、仕えていた国にも見捨てられた。反逆者としてね。」
零はそれから病院から逃げ出し、各国を転々としながら日本に辿り着いた。だが未だにCIAやペンタゴンに限らず、昔煮え湯を飲ませた組織や有力者全てが、その命を狙っているのは事実だ。
「所詮、私達は消耗品でしかないんですよ。彼らにとってはね。壊れたらウォルマートに買いに行けばいい。」
ははは、と半ば冗談めかして言ったが、斎藤は苦々しげな表情を崩すことはなかった。
「だが、一つ分からんことがある。何故追われている今、敵のいる危険な場所へ向かうのかということだ。何か理由があるのだろう。」
「……つい先日、ニューヨークである男が殺された。名前はブライアン・ロイド。デイリータイムスの記者。」
「…ぶ…?そいつが何か関係あるのか。」
「…彼は6年前、行き倒れていた私をあのソマリアの地から助け出してくれた記者の一人だ。彼の名前に聞き覚えがあった。」
「……。」
「なぜ今になって彼が殺されたのか、私のもとに暗殺ユニットが来たことも何か関係があるのかもしれない。だから、彼の死に何があったのか調べる必要がある。」
暫く口を閉ざしていた斎藤が、口を開いた。
「…はっきり言って、お前の話はさっぱり理解できん所もあったが、先の襲撃はその、ぶらいあんとかいう男が関係しているのだな。」
零は斎藤のぎこちない言い方にクスリと笑いながら、そうだと答えた。彼は野生の狼の様に勘も言動も鋭いのに、時たまこういう物言いをするのが何だかおかしかった。
「…いい加減カタカナ言葉覚えましょうよ。どこの時代の人間ですか。」
「五月蠅い。現在はわけの分からん横文字が多すぎるだけだ。」
憮然とする斎藤の姿が、小さい子供が拗ねている姿と重なり、零は吹き出してしまった。
「あはははは!いいね。最高。…さてと、助さん、格さん。参りますぞ。」
「誰が助さんだ。…俺は少し寝るぞ。さすがに疲れた。」
シートベルトを少し手間取りながら着けると、斎藤はシートに体を預け、目を瞑った。
「どうぞどうぞ。…着いたら起こしますから。ゆっくり休んでください。」
「…そういえば……お前、その、傷のほうはどうなんだ。」
いきなり聞かれて零は目を丸くした。隣を見ると、ふいと顔を逸らすように窓のほうを見る斎藤の耳は心なしか赤い。それを見て零は小さく笑う。
「…心配…してくれてるんですか?…ありがとうございます。大丈夫です。痛みはほぼ無いですし。」
「…フン。随分頑丈な女だ。おい。この椅子は窮屈だな。もっと横にはなれんのか。」
「やれやれ。このレバーを倒せばほら、倒れますよ。」
「うお!…いきなり倒すんじゃない。」
いきなり後ろに倒れた座席に斎藤が驚いたように声を上げる。もぞもぞと体勢を変えると、ようやく落ち着いたように息を吐いた。
「畳に横になりたいものだが、贅沢は言ってられんな…。何かあったらすぐに起こせ。遠慮はいらん。」
「…了解。おやすみなさい。」
規則正しい呼吸を聞きながら、零は前を見据えた。信号が青になった。アクセルを踏み込む。
「……過去からは逃げられない。か。」
小樽港まではまだ遠い。まるで彼らの行く先を予見しているかのように、鈍色の空が延々と続いている。
「……ブライアン・ロイド。何故お前は殺された。何を見て、何を知った…。そして、ハーミット…貴様は何者だ…。」
零は、知らず知らずのうちに、ハンドルを強く握りしめた。




