告解
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
~フリードリヒ・ニーチェ~
まだ夜明け前だからか、薄野駅前は人通りも少なく閑散としていた。その薄暗い駅前のロータリーを黒いダウンジャケット姿の背の高い女が、速足で横切った。
零は吹き抜ける冷たい風に首をすくめながら、ハーミットに指定された公衆電話へ向かう。4番出入り口の公衆電話。
出入り口の天井に設置されている監視カメラの視界を巧みにすり抜けながら、あくまでも自然に歩いている風を装う。恐らく殆ど使われていないであろう公衆電話の前で止まると、数秒の間中の様子を見る。
素早く爆弾やその他の危険物がない事を確認し、ドアを開けた。周りに人の眼がないタイミングを見計らい、緑色の電話機の周りを探る。
「……おかしいな。何もない。」
電話機の裏側から釣銭口、電話帳の間をくまなく見たが何もない。周りを見ると、ちらちらと雪が降り始めていた。思わず上を見る。だが、空よりも別のものに零の視線が注がれた。
「……あった。」
公衆電話ボックスの天井、左の隅に小さい茶封筒が黒いガムテープで張り付けてあった。それをはがして封を切る。中には小さなメモ用紙に殴り書きの字で、『薄野-3031―438328』とだけ書かれていた。
最近駅のコインロッカーは番号形式のものが多い。薄野駅構内のロッカーのものと思われた。もうすぐ始発の時間だ。駅は既に開いている。零はメモ用紙をポケットにしまうと、迷うことなく薄野駅の構内に向かって歩き出した。
閑散とした駅構内を青白い蛍光灯の光が照らし、余計に寒々しい印象を与える。零は眼の端で構内の監視カメラを確認し、ベースボールキャップを目深に被り直す。
メモに書かれたロッカーを探すこと数分、構内でも利用者の少ない一番隅のコインロッカーに該当する番号を見つけた。
番号を入れ、ロッカーを開ける。奥行きのあるスチールの箱の中に、またもや封筒が鎮座していた。ご丁寧な事に赤茶色の封蝋で留められている。
素早く取り出して懐にねじ込むと、中に何もない事を確認してから足早に立ち去ろうとした、その時だった。
「あの、すいません、落としましたよ?」
二十歳そこそこだろうか、ジーンズにグレーのパーカ、大きめのショルダーバッグを掛けた若い白人男性がたどたどしい日本語で声をかけてきた。その手には見覚えのない花柄のハンカチが握られている。
「悪いけど、これは私のじゃないわ。」
そう言って、脇を通り過ぎようとした時だった。ふと、甘苦い独特の臭気がかすかに鼻を突き、零の眼つきが変わった。
いきなり零の体が深く沈みこみ、踏み出された左足を軸にしてくるりと回転した後、男の背後を取った。これには男も驚愕を隠せなかったようだ。零の腕が男のハンカチを持った腕とは反対の腕を掴み、ぎりりと背中で捻りあげた。
「な、何するんですか……僕は落とし物を……」
「悪いが私はスプレー缶なんて落とした覚えはない。その独特の臭気、亜酸化窒素(笑気ガス)だな。スタンガンや注射器と違って痕跡が残りにくいが、それは対象との実力に差があるときにやるべきだ。素人には有効だが、同業者に使うにはリスクが高すぎる。お前のようなF.N.G(くそったれの新人)には特にな。」
零が早口の英語で男も耳元に囁いた。
捻りあげられた手には細長い棒のようなものが握られていて、そのおどおどとした眼がすぐさま鋭いものに変わり、表情が一変した。
「くそ、貴様!」
「おいおい。こういう時にはそういう態度を取れと教官に教わったのか?それをヨルダンやレバノンで試してみな。処刑動画がYouTubeで全世界に発信され、たちまち有名人になれる。
……いいかひよっこ。良く聞け。これはお飯事じゃないんだ。お前は、何故、私を狙う。」
零の挑発に男がきっと睨みつけてきたが、零が締め上げる力を強めた為に直ぐに痛みで顔を歪めた。技術も精神面もまだまだ未熟だ。エージェントだとしても彼は新人だろうと零は判断した。
「…テロリストに喋ってたまるか。」
「…なんだと?私が?テロリストだって?」
怪訝な顔で自らが押さえつけている男に問いかけると、男は憎悪を込めた瞳で睨み返してきた。
「そうだ!あの時、お前が殺したCIA局員の二人のうち一人は僕の兄だ!」
「……そうか。お前、ウィルの…。待ってくれ、それは誤解だ。私は彼を殺していない。彼は……!」
「うわ!」
組み伏せた男が驚いたように声を上げた。零が男を組み伏せたまま強引にロッカーの陰に引きずり込んだからだ。その刹那空気が漏れるような音が響き、二人がさっきまで居た場所のタイルがポップコーンの様に爆ぜた。
「クソッ!おい!大人しくしろ!クソガキ!」
襟元を絞められて暴れる男に怒鳴り、ロッカーの陰に隠れながら周囲を見渡した。弾倉を確認するが、運悪く手持ちの銃の装弾数は心許ない。陰からほんの少し顔を出す。忽ち鉄製のロッカーに銃弾が当たり、鼻先で火花がはじけた。だが、襲撃者の姿を確認するには十分だった。
襲撃者の外見は駅員の姿をしていた。しかも一人ではない。見える範囲では2人いる。だが、銃声の数と角度から推察するに、もう一人が死角に居るとみて間違いはないだろう。
「おいルーキー、銃を貸せ。バカ!頭を出すな!」
拘束を解くと、男はそろそろとロッカーから様子を見るために顔を出そうとした。慌てて零が壁に押し付ける。容赦なく弾丸が鼻先をかすめた。もう一度零は男に向き直ると、銃を貸してもらうよう頼んだが、男は眼を伏せてもごもごと何かをつぶやいた。
「…持ってない。」
「何!?」
「持ってないんだ!僕は兄の様に訓練を受けてない!ただの情報分析官だ!」
SHIT!と一言毒づき、直ぐに思考を切り替えた。周囲を見回す。と、零の視線が或る場所に集中した。考える前にグロックの引き金を引いた。
ジリリリリ!
つんざく様な非常ベルの音が駅構内に響き渡った。零の放った銃弾が狙い違わず非常ボタンに命中したのだ。銃声が止み、複数の靴音が走り去っていった。
震えるのを紛らわすかのようにため息を吐く男をじろりと見やり、零は再度襟首を掴んで顔を寄せた。
「いいか。良く聞けよクソガキ。私は二人を殺しちゃいない。嵌められたのさ。ウィルも、私も。6年前のソマリアでの作戦、あれはCIAとペンタゴンの茶番劇だ。【ギルド】を葬るためのな。奴らは都合の悪い部分を全て抹殺する気だったのさ。」
「ギルド…?あんたは…」
「これ以上深入りするな。お前はエージェントに向いてない。」
「ふざけるなっ!まだ聞きたいことが……うぐっ!」
男は零に掴みかかろうとしたが、その先は口に花柄のハンカチを強く押し当てられ、もごもごと声にならなかった。そしていつの間にか取られていたのか、細長い銀色のスプレー缶がハンカチの上から噴射され、あえなく男は昏倒した。
空になった缶を放り投げると、ぐったりと意識を失った男からバッグと懐を探った。直ぐに目当てのものは見つかった。
「アレン・カーティス…ね。情報分析官というのは嘘じゃないようだな。」
アレンの身分証を見やり、再びバッグの中を探った。すると、ポケットサイズのこげ茶色の手帖を見つけ、身分証と共にジャンバーのポケットに入れた。
零は用も済んだとばかりに体を起こし、右手のスマートフォンを操作する。もちろんアレンのものだ。ロックがかかっていても緊急ダイヤルにかけること出来るのは意外と知られていない。
「悪いが借りてくぞ。……ああ、すいません。薄野駅の構内で人が倒れてるんです。ええ。そうです。20代くらいの男性です。よろしくお願いします。」
通話を切ると、スマートフォンだけアレンのポケットに戻し、その場を足早に立ち去った。
――――――――――
一方で、藤田五郎改め、斎藤一は楢崎老人から貰ったタバコをふかしながら、苛々と零の帰りを待っていた。
「遅い。あいつは何をしている。」
普段から寄せられている眉間の皺を更に深くして、煙草をくわえる様ははっきり言って堅気には見えない。
「まぁ、気長に待てばいいさ。あんたのパスポートも嬢ちゃんが帰ってくるころには出来るしな。」
楢崎が皺枯れた声で笑ったが、直ぐに嫌な咳でかき消された。体の奥から滲み出るようなこの咳を斎藤は聞いたことがあった。楢崎が苦しそうに喘ぎながら机の上の紙袋から錠剤を取り出して、2、3粒口に放り込んだ。
「……どこか悪いのか。」
かつての同志と重なり、古い記憶がよみがえった。
天真爛漫で人懐こく、そして素晴らしい剣の才を持っていた彼は、志半ばで夭折してしまった。その時ほど、どんな人間でも病の前では無力なのだと感じたことはなかった。
「ああ、すまん…。……肺癌でな。医者は2年生きるかどうかだとよ。」
「それは…。」
そう言ったきり、何を言っていいのか分からなくなった斎藤を見て楢崎は自嘲気味に続けた。それは誰ともなしに呟かれる告解のようでもあった。
「じゃあ、嬢ちゃんが帰ってくるまで、ジジイの独り事でも聞いてくれや。……俺の祖父さんと親父は警官でな、ガキの頃から厳しすぎる親父にことごとく反発して、馬鹿だった俺は何時からか裏の世界を一丁前に歩いてた。
三十代の時、まぁ…所謂ヘマをしてこの国に居られなくなってな。逃げるように国を出た。
海を渡って傭兵や海賊紛いのこともやった…。」
悪びれもせず、楢崎が新しいタバコを取り出して火を付け、肺一杯に煙を吸い込んだ。
「…国を出て10年後だ。俺はある国に私兵として雇われた。東欧の貧しい国でな。一かけらのパンの為に子供が銃を取って人を殺していた。支援物資なんか一握りの富裕層が買い占めて、スラムの人間には一口だって入らない。治安も悪化し、政府すら殆ど機能してやしねぇ。道端には毎日の様に死体が転がり、報復に対する報復の連鎖が続いていた。……地獄だよ。この世の地獄さ。」
無言のままの斎藤を見つめる楢崎の眼は、あの時、自らの家を焼く焔を見つめる零の眼とそっくりだった。彼もまた、壮絶な過去を潜り抜けて来たのだろう。
「政府軍と解放軍の戦闘は激化し、国民は国外へ逃げ出していく。国連軍も介入し始めて、戦況は滅茶苦茶だ。指揮系統なんざ最早使い物にもならん。俺の所属する傭兵部隊が雇われていたのは政府軍だったから、早いとこ見切りをつけて脱出しなきゃならなかった。解放軍が大挙して大統領官邸に押し寄せる前に。…しかしだ、脱出当日になって誤算が起きた。大統領夫人に俺たちがとんずらする計画を知られちまったんだ。ま、知られても別にどうってことないんだがな。夫人は俺たちを罵倒するかと思いきや、赤ん坊を俺に押し付けて、娘を逃がしてくれと懇願した。俺は驚いたよ。彼女は日本語を話していた。………日本人だったのさ。」
「…それで、その夫人は…?」
「もちろん説得した。一緒に来いと。だが、頑として首を振らなかった。自分は大統領夫人として、この国の最期を見届ける義務があるってな。もう既に正面ゲートには暴徒が迫っていて時間がなかった。俺は説得を諦め、赤ん坊を抱えて官邸と脱出した。後ろで暴徒が銃を乱射するのが聞こえたよ。彼女の最期は酷いもんだった。思い出したくもないくらいにな。」
楢崎の眼が悲しげに揺れた。
「脱出後、俺はアメリカに渡り、とある孤児院に有り金全部を寄付して子供を預けた。こんな稼業をしていた俺に子どもなんか育てられるわけがねぇしな。」
「その子供は、今どうしているんだ?」
「さあな。どこかでくたばってるかもしれないし、生きて幸せになってるかもしれん。もし生きてりゃ30前後だろうな。さぞや別嬪になってるだろうよ。」
ニヤリと笑う楢崎を斎藤が不思議そうに尋ねた。
「何故そんな話を俺に?」
「さぁて。ただのジジイの気まぐれだ。……ほら、お待ちかねの奴が来たぞ。」
玄関を指さす楢崎につられて、斎藤も玄関のほうに視線を向けた。途端にバタンと蹴破る勢いで零が帰ってきた。
「遅くなって済まない!色々と想定外の事があってね。爺さん!ハサミ借りるよ!」
一通り捲し立てると、ハサミを手に洗面所に駆け込んだ。
「……全く帰って早々騒々しい奴だ。」
呆気にとられる斎藤を横目で見ながら、楢崎は誰ともなくぽつりと呟いた。
「これも、因果って奴なのかねぇ……」
―――長い長い夜が明けようとしていた。だが、それは先の見えない旅路の始まりに過ぎなかった。




