或る老人の追憶
われは群れと交わることを侮ってきた、たとえ、その首領となり、その群れが狼のそれであろうとも。獅子は孤独だ。われも孤独だ。
~ジョージ・バイロン~
ホテルを出た二人は繁華街から少し離れた場所に向かった。そこは古びた雑居ビルが立ち並び、人通りも少なく、住人達もどこかよそよそしい。すすきの駅近辺と比べれば、驚くほど様子が違って見える。
零は藤田にパスポートがない事を知り、渡航するにはパスポートがないとどうにもならないと皮肉たっぷりに告げると、説明もそこそこに藤田を連れ出した。
「ここです。このビルの4階。階段を使いましょう。ここのエレベーターは信用できないんで。」
見上げれば、○○ファイナンスやタイ式マッサージなどの怪しげな看板に混ざり、『楢崎たばこ店』とだけ書かれた古ぼけた看板が目に入った。
一人分通るのがやっとなほどの狭い階段を上がる。踊り場では切れかけた蛍光灯がちらちらと点滅を繰り返していた。此処の住人達はビルのメンテナンスに対して全くと言っていいほど興味がないらしい。
4階に着き、斜めに傾きかけた看板を掲げているドアを零が無遠慮に叩いた。今の時間は朝と言うには大分早い時間だ。
「爺さん。私だ。吉村だよ。」
努めて穏やかに呼びかける。何回か呼びかけると、ようやくドアの向こうから小柄な老人が姿を現した。
「そんなに叩かんでも聞こえてるわ。」
老人は、錆びたドアチェーンをつけたままの隙間から、丸い老眼鏡を額にずりあげ、零と藤田を交互にじろりと見上げる。刻まれた皺は彼が生きてきた年月を感じさせた。
「すまない。急ぎなんだ。入れてくれ。頼む。」
老人は暫く逡巡し、禿げ上がった頭をつるりと撫でると、ちょっと待て。と言いドアを閉めた。
中でガチャガチャと音がしたと思ったら、再度老人が顔を見せた。
「入んな。」
助かった。と零がほっと息を吐き、藤田に入るよう促した。藤田が訝しそうにに外の看板と中を交互に見た。
「ここは煙草屋じゃないのか?」
「表向きはね。渡航にはパスポート(旅券)がいると言ったでしょう?彼の腕は私が知る中でも最高ですよ。」
中に入ると、古今東西あらゆるタバコのパッケージが所狭しと並んでいた。通路は極端に狭く、体を横にしなければ通れないほどだ。
細い通路を抜けると、4畳半ほどの小さな作業場が姿を現した。何十年と使い込まれたであろう木製の机と椅子が、持ち主の技量を物語っている。
「悪いがな、イワンの餓鬼共(ロシア人)の仕事が入ってるんだ。手短にな。」
修理用ルーペを右目に、黙々と手を動かしながら楢崎が素っ気なく言う。
彼は偽造屋だ。その界隈ではかなりの腕として知られている。なかでもパスポートの偽造を得意としていた。ただ、かなり偏屈な性格であり、気に入らなければどれだけ金を積まれても頑として首を縦に振らない頑固者でもあった。以前、中国の大規模組織である三合会の仕事を断ったらしいという噂があるぐらいだ。真偽のほどは解らないが。
「ああ。この人のパスポートを頼みたい。悪いが、今日中に欲しいんだ。」
「無茶いうんじゃねぇ。到底間に合わねぇよ。他をあたりな。」
取り付く島もなくあしらわれる。だが、零は引き下がらなかった。
「爺さん。頼む。今日限りだ。……お願いします。」
頭を下げる零の姿を、楢崎はルーペを取りながら怪訝な顔で見つめる。
「何だなんだ。ずいぶん湿っぽいな。死ぬわけじゃあるめぇし。」
「…近いうちに、この国を離れる。できるだけ早く。」
真剣な面持ちの零を暫し見つめ、大きく息を吐いた。
「そこの写真室に入りな。」
「え?」
「ぼやぼやしてるんじゃねぇ。急ぐんだろ?」
「……ありがとう。恩に着るよ。」
写真室に入っていく小柄な背中に、零は頭を下げた。
「動かんでな。はい。オーケー。」
強張った顔で椅子に座る藤田に苦笑しながら、楢崎が写真を取り出した。
「…今の『ほとから』は進んでいるのだな。」
その言葉に楢崎が一瞬呆けたような表情をしたが、すぐに呵々大笑した。憮然としたように藤田が堅く口を閉ざす。
「いや、すまんすまん。久しぶりにその言葉を聞いたものでな。別に馬鹿にしちゃあいない。今の若いもんは物の歴史すらも知らんバカばかりだからな、うれしいんだ。」
楢崎は機嫌よさげに写真をパスポートに使用されるサイズに切り抜いた。
「俺のじいさんが、昔『ほとからは魂が抜ける』とか大騒ぎでな。あの時は写真技術なんてもんは未知のもんだったんだろうな。」
なつかしさに目を細めながら、楢崎はタバコの灰を灰皿に落とす。藤田は他人と話すのはあまり好きではない。眼の端で零の姿を探したが、唯一頼れるあの奇妙な女は少し出かけると言い残し、折悪しく不在だった。居心地悪そうに咳払いをした藤田が話題を変えた。
「吉村とは知り合いなのか。」
「…まあ知り合いっていうものかね。ありゃあ何年前だっけなぁ。このビルの裏で襤褸切れみてぇになって倒れててな。」
「何だと?」
「最初はくたばってんじゃねぇかって思ったが、まだ息があった。意識もないのに血だらけの手で俺の服を掴んでな。」
早くも次のタバコを咥え、ジッポーで火をつける。大きく肺に吸い込み、吐き出した紫煙が天井まで立ち昇り、虚空に溶けた。
死んでもおかしくない怪我だったが…4日間も昏睡状態が続いた後、眼を覚ました。奇跡的にな。だが、あの眼は忘れられない。」
「眼?」
「あれは、死にかけた狼みてぇな眼だ。死ぬ間際でさえも牙を剥いて一矢報いようとする、まるで獣だな。」
重々しい沈黙が、狭い部屋の中を吐き出した煙のように揺蕩った。
「傷が治ってきたころ、奴はこの国で必要と思えるものを揃えて欲しいと言ってきた。俺は奴の身分証を作った。全てな。名義も金で買える時代だ。どうにでもなる。金は奴の唯一の所持品だった旅行鞄に束になって詰め込まれていた。…俺はあいつの過去や素性を知る気もないし知りたくもないが、奴がどんな人生を送ってきたのかは想像がつく。…おっと、あいつは自分の事を話題にされると臍を曲げちまうんだ。これはオフレコな。」
「……ああ。」
楢崎がタバコを咥えながら笑う。思わぬ零の過去を聞き、何を言っていいのか戸惑う藤田の顔を見て、楢崎が思い出したように口を開いた。
「そういやあんた。名前は何ていうんだ。」
「…藤田五郎だ。それがどうした。」
「藤田…?ああ、いや、これから造るのは偽造の旅券だ。俺の『作品』は限りなく精巧で本物に近いが、本物じゃねえ。面倒な事になるから本名は使うな。
…で、なんて『名前』にするんだ?」
藤田は顎に手を当てて考えるそぶりをした後、目の前の作業用椅子に腰かける楢崎を見た。
「ふ…これもまた因果というやつか。そうだな……『斎藤一』で頼む。」
藤田は自嘲気味にそう言うと、牙を剥いた狼のように口の端を歪めた。