兵士は戦場の夢を見るか
この世の煩いから辛うじて逃れ、
永の眠りに着き、そこでどんな夢を見る?
~シェイクスピア~
北海道最大の歓楽街、薄野。すでに午前三時を過ぎていたが、依然として街はネオンや大型ディスプレイの灯りが眩しく、妖しく輝いている。
「此処が…薄野か…。派手な街だ。島原など目ではないな。」
窓の外に映る点滅を繰り返す悪趣味な電飾の大群に圧倒されたように、呆然と藤田がつぶやいた。
二人は中心街から少し離れた公園の駐車場で車を降りた。零はふらつく脚を叱咤するように歩き出すが、体が言うことを聞かず、途中で車体に寄りかかって大きく深呼吸をする。
やはり、血を流しすぎたようだ。しかし此処で時間を無駄にすることはできない。やることは山ほどあるのだ。
暫く目を瞑って貧血による眩暈をやり過ごしていると、脇から伸びてきた腕がバックパックを取り上げた。
顔を上げてみると、藤田がバックパックを肩にかけながら、いつもの仏頂面のまま右手を差し出していた。呆気にとられていた零は、おとなしくその手を掴んだ。
「何が大したことはないだ。阿呆。やせ我慢するな。死ぬぞ。」
「はは…すいませんね。…このまま行きましょう。酔っぱらいを介抱している位には見えてくれるかもしれません。」
藤田は零の腕を自らの肩へ回し、脇腹の傷に触らぬように支えた。
「…だといいがな。だが、まだ落ちるなよ。お前がいなければ俺は何処へ行けばいいのかわからん。」
零は青白い顔に薄く笑みを浮かべ、了解です。と笑った。
なるべく人目を避けるように細い裏通りを歩き続ける。幸運な事に、彼らはさほど周りの目を集めることはなかった。蒼い顔をした零が藤田に支えられて歩く姿は、場所もあってか、周りの人間には飲みすぎて酔った女が男に介抱されている姿にしか見えない。
「…ここです。此処に入りましょう。」
ようやくたどり着いた目的地は、毒々しいネオンも眩しい、場末のラブホテルであった。
「此処は…何だ。」
わからずとも、なんとなく察しはついている藤田が問いながらも顔を強張らせた。
「…まあ、基本男と女が休憩する所ですよ。…さあ、行きますよ。」
フロントには40代くらいの女性の従業員が暇そうな顔をしていた。チェックインをする旨を告げると、不愛想な返事で部屋番号の付いた鍵をよこした。
指定された部屋のドアを開けると、派手なピンク一色の壁紙が目に入り、その中央には、同色のダブルサイズのベッドが鎮座していた。
「まったく。…趣味が悪いな。」
部屋全体を見渡し、これ以上ないほどのため息をついて、藤田が毒づいた。
零は荷物を降ろし、途中、バラエティショップとコンビニで購入したものを袋から全て出した。上着を脱ぎ、傷に触らぬようにそろそろと服を脱いだ。血は粗方止まっていたが、乾いた血液が傷口の周りに黒ずんでこびりついていた。
銃弾が体内に残っていないのは幸運だった。綺麗な貫通銃創だ。これならば適切な処置をすれば直ぐに治るだろう。だが、残念な事に強力な鎮痛剤は手に入らなかった。この国では仕方がないのだが、市販のものはどうしても効果が弱いのだ。
「藤田さん、傷の縫合とかしたことありますか?」
「あるわけがないだろう。……嫁入り前の女がそんな恰好をするな。」
部屋を見回っていた藤田が、ベッドの上で上半身裸になって傷を確認していた零を見て、仏頂面を更に顰めた。
藤田の諫言もどこ吹く風で、零は黙々と作業を続ける。コンビニで買ったスポーツ飲料のボトルに蒸留水を少々足して、ふたに穴をあけ、バラエティショップで買ったおもちゃの聴診器のチューブ部分を取り外して取り付けた。
「すいません、これ持っていてもらえますか。」
零の作業を怪訝な顔をして見守っていた藤田に、チューブ付きのペットボトルを持ってもらい、次に自宅から持ってきたメディカルキットの中から注射器を取り出し、針の部分を慎重に取り外す。
チューブの反対側に針を取り付けると、左腕の静脈に針を刺した。即席の点滴だ。これで回復も早まるだろう。
次は傷口の消毒をしなければならない。買ってきた消毒液を清浄綿に浸す。この国のコンビニエンスストアは非常に便利だと思う。
他の国ではこのような医療品などおいそれと売ってはいない。かといってスタンドで売られているようなものは品質すら怪しいものだ。
「…これはどうすればいいんだ。」
「…ちょっと、暫くの間そのままでお願いします。」
消毒液を浸した綿を傷口に当てると、途端に焼けつくような痛みが襲った。ぐ、とくぐもった声を出して激痛に顔を歪めた。
震える手で、キットの中から医療用縫い針と糸を取り出し、タオルを口に噛むと、鏡の前で傷口を縫い始めた。
藤田は内心、大したものだと感心していた。このような深手を負って、ここまで冷静に自分で縫合するような人間など今まで見たことはない。ましてや零は女だ。
女とはか弱く、たおやかなモノだと思っていた。だが、これほどまでに力強く、冷徹になりきれるものなのか。まるで、あの人のように。
藤田は、血だらけの手で自ら傷を縫う零の姿を、誰かと重ねるかのように見守り続けた。
「……やっぱり、撃たれるのは堪えますね。」
傷の手当てを終えて、精根尽き果てたようにベッドに体を投げ出した零がぼそりと言った。
未だに代用点滴のペットボトルを掲げている藤田は、困惑した様子でショッキングピンクの寝台に腰を下ろした。
「聞いてもいいか。その背中の傷は……?」
藤田が聞きづらそうに口を開いた。
治療中に彼女の上半身に無数の傷があるのを認めたが、特に酷いのが背中全面を覆う程の火傷の痕だった。
「……ああ、これですか。…昔、ソマリアにいた頃、捕虜になって拷問を受けたんですよ。それで、命からがら逃げだしてきた勲章ですよ。」
冗談交じりに答えたが、実際は言葉にするのも憚れるほど壮絶なものだった。この事件で、零はかつて仕えていた国の体制に疑問を持ち始めたのだ。この体験は、零にとって思い出したくもない忌々しい記憶だった。
「…30分ほど仮眠します。もしも誰か来ても絶対にドアに近づかないでください。その時は蹴ってでも私を起こしてくださいね。」
「餓鬼じゃあるまいし、怪我人はおとなしく寝ていろ。」
「ふふふ。分かりました。じゃあ、少し休みます。」
というが早いか、零の口からは寝息が聞こえてきた。やれやれと藤田はポケットを探り、タバコがなかったことに再度ため息を吐いた。
――――
饐えた臭いが鼻を突いた。熱帯地域特有の気候が、容赦なく体力と水分を奪っていく。
捕らえられてから何時間経ったのだろうか。
もはや顔にたかる蠅を振り払う気力も無くなりつつあった。
枷を嵌められ吊り下げられた両腕は、すでに感覚すらない。少しでも動けば、肩の関節が酷く痛んだ。
錆び付いた耳障りな音を立てて鉄の扉が開き、のろのろと顔を上げる。房内にアラブの伝統衣装、カンドゥーラを纏った数人の男たちが、サブマシンガンを手に燃えるような憎悪の眼差しで近づいてきた。
その中の一人に訛りの強い英語で誰何される。
「I’m journalist.(私は記者だ。)」
そう答え終わる間もなく、Ak47サブマシンガンの銃床が、容赦無く顔面に叩きつけられた。
瞼の裏で火花が散り、世界がぐらぐらと揺れた。生暖かい新しい血が、こめかみを伝うのを感じる。
「自分自身が何者か、思い出させてやろう。醜い豚め。」
男は前髪を掴み、早口のアラビア語でそう怒鳴ると、隣の男に合図を送った。灼熱の熱源が背中に迫るのを感じ、奥歯を砕けんばかりに噛み締めた瞬間だった。
「うああああア゛ア゛アアア!!」
背中に今まで感じた事の無い激痛が走り、喉が張り裂けんばかりの咆哮をあげた。其れはほんの数秒であったのだが、永遠に等しく思えた。部屋に広がる自らの肉が焼ける臭いに気が狂いそうになる。
焼きごてが離れていく。皮膚が焼け剥がれる激痛に身体が悲鳴をあげている。冷や汗が止まらなかった。水が飲みたい。どうすればこの場所から逃げ出せるか。それだけが頭の中を駆け巡っていた。
男が近づく。最大限恐怖でパニックを起こしている風を装う。
だが、男は吐き捨てるように笑うと、前髪を掴んだ。否応無しに首が上を向く。
「演技は無駄だ。アメリカ人。もう一度聞くぞ。Who are you?(お前は、誰だ。)」