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Lone wolf  作者: 片栗粉
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Prologue

我を通らば 苦悩の街の道へ

我を通らば 永遠の苦痛の道へ

我を通らば 滅びの人々の中へ


~ダンテ・アリギエーリ~



遠くで犬の吠える声が聞こえた。


どうやら、仕留めたようだ。


白い息を吐きながらライフルを肩に掛けると、分厚い雪を掻き分けるように歩き出した。


今年は雪が多い。4月に入ろうかというのに、いまだに氷点下20℃を下回る。猟を生業とする人間には厳しい季節だ。


「久しぶりに分厚いステーキにありつけそうだな。」


心なしか独り言も弾んだ口調になった。


酷い吹雪で3週間家の中に篭りっぱなしだった。ストックしてある食料も心許なくなり、いつもより少なめの食事を見た愛犬が、何とも言えない寂しげな目で訴えていたが、それを苦笑いをしながら宥めるしかなかった。


スコープ越しに見た限り、かなり大きなエゾシカだった。自分と愛犬だけなら1ヶ月は持ちそうな程に。


風が出てきた。刺すような冷気が頬を撫でる。

早く帰って獲物を解体して、熱いシャワーを浴びたかった。それに、最近手にいれたコーヒー豆の香りも試してもいいだろう。寒さに鈍っていた足取りが軽くなる。


鳴き声が近い。もうすぐだ。

蹄と血の跡を辿りながら、枯れ藪を掻き分けた。


暫く歩くと、白銀の大地を赤く染めて、大きなオスのエゾシカが横たわっていた。呼吸は荒く、もがく脚は弱々しい。息絶えるのも時間の問題だろう。


だが、普段なら獲物の側にぴたりと張り付き、主人を待っている愛犬の姿が見えない。不審に思って周りを見渡せば、5、6メートル先でぐるぐると回りながら、戸惑うように鳴き声をあげている愛犬がいた。


「ライ、お前獲物放り出して何してんだよ。」


呆れたように声をかければ、クンクンと気まずそうに小さく鳴き、上目遣いで見上げてきた。


よく見ると、ライの側に黒っぽいものが蹲っていた。


「何だ、熊でもいたか?」


更に近づくと、それが何かはっきりと見えた。


「……おいおい。何てこった。」


うつ伏せで雪に埋もれかけているのは熊でも鹿でもなく、人間だ。


素早く口元と首筋に手を当てる。かなり冷たいが、僅かに呼吸があった。細面の短髪で、見たところ30代前後の男性のようであった。


ポンチョのような薄手のコート、紺色の上着に同色で両脇に白線が入ったズボン。そして長めのブーツ。どこかの制服だろうか。いずれにしろこんな格好で冬のトムラウシに入る等、自殺行為に他ならない。


そして格好以上に奇妙だったのは、腰に提げられたそれ。黒い鉄製の鞘に簡素な拵え。刀だ。


ずっしりと重い質量をもったそれは、レプリカではなく、本物のようにみえた。


なあ、どうする?」


ため息をついて、愛犬に問いかける。はっきり言って面倒はごめんだった。このまま放っておけば、間違いなくこの男は死ぬだろう。

どうしようか思案していると、ライがそろそろと男に寄り添うように座り込んだ。


それを見て少し驚いたように眼を見開いたが、すぐにやれやれと肩を竦める。


「ステーキは暫くお預けだぜ?いいのか?」


再び問いかけると、上目遣いの顔を少し上げて小さく鳴いた。


「はぁ、分かったよ。しょうがない…」


その時、ライが立ち上がり鋭く吠えた。


その方向に素早く銃を構え、引き金を引く。乾いた発砲音が雪深い山に響き、残響がこだました。


薄く煙を吐く銃口の先で、野うさぎがくたりと倒れていた。

その一撃は正確に野うさぎの頭部を貫通している。かなりの熟練した猟師でなければできない芸当だ。


「今日はこいつで我慢だな。さっさと帰るぞ。」


名残惜しそうに息絶えたシカを見やるが、男一人背負ってこんなでかい獲物は運べない。それに、血の臭いを嗅ぎ付け、穴持たずの羆が来るかもしれない。その前に此処から離れなければならなかった。


「風が出てきた。吹雪になる前に帰ろう。」


傍らのライが、小さく鼻を鳴らす。


来た道を振り返ると、点々とついた足跡を消し去るように、ひゅうひゅうと冷たい風が粉のような雪を吹き上げ始めていた。



―――――――



明治十六年。北海道 函館警察署。



藤田五郎警部補は、途方に暮れていた。


東京から転属して北海道に来たものの、こんなにも天候がガラリと変わるとは思わなかったのだ。つい2時間前まで晴天だったはずだ。


先程、同僚が難解な地言葉で早く帰ったほうがいいと助言してくれた時、素直に従っていればよかったと思ったが、後の祭りだ。


残務処理を終えるころ、外は真っ暗、お世辞にも新しいとは言えない庁舎の窓が、今にも割れんばかりの勢いで鳴っている。


煙草をポケットから取り出し、マッチに火をつけた。ため息とともに紫煙が宙に立ち上る。


(北海道の地吹雪とはここまで酷いものか。)


半ば感心したように、窓の外に視線を向けた。ふと、その目が険しいものに変わる。かつてこの地で最期を迎えた盟友がふと脳裏に浮かんだ。


(土方さんは、何を想ってこの吹雪の中を歩いたのだろうか…)


新撰組の斎藤一から、警視庁の藤田五郎となり、政府の狗と誹られても、変わらず己の正義を貫き続けてきた。


だが、もしもあの時、共に行っていたら、何かが変わったのだろうか…


(フン。感傷に浸るなど、俺らしくもない。)


イラついたように、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

ふと、その手が止まった。

窓の外、猛吹雪の中にありえないものを見た。


(……何だ…?あれは…)


馬に乗った人間だ。この吹雪だ。馬車さえも既に通っていない。

目を凝らせば、馬上の人影が微かに見えた。黒い洋装に身を包んでいる。

最近、露西亜からの密輸船が増えている。それを取り締まるのも自分の仕事のうちだった。


仕方ないと肩を竦め、愛刀を手に取った。




扉を開いた途端、凄まじい風と雪が吹き込んできた。東京ではあり得なかった全身を刺すような冷気が堪える。羽織ってきた外套もあまり意味がない。


(どこだ…?)


分厚い雪に難儀しながら歩き出した。いつでも抜刀できるように、柄頭に左手を置いた。


(足場が悪いな…全く。吹雪も収まりそうにない。)


右手で雪から顔を守りながら、辺りを見回す。先程の人影を見たのはこの辺りだったはずだ。


(見間違いか……?…!)


その時、微かに馬の嘶きが聞こえた。素早く刀を抜き、気配を感じたほうに刀を構えた。


射抜くような鋭い眼差しを人影に向ける。


だが、その目が驚愕の表情に変わった。


「……土方さん…なのか…?」


吹き荒ぶブリザードの向こうには、かつてこの北海道の地で果てた土方歳三の姿があった。


見慣れぬ洋装に、散切り頭ではあったが、その顔を忘れることはない。だが、あり得ない。先の戦で銃弾に斃れたはずだ。


しばし呆然としていると、馬上の土方は一言も発さず、くるりと馬首を返した。


「!…待て…!!!」


藤田の声など聞こえていないかのように、吹雪の向こうへ進んでいく。まるで誘うかのように。


慌てて追おうと走り出すが、一際強い風が吹き、雪が舞い上がった。思わず足が止まる。吹雪の向こうへ土方の後ろ姿が消えていくのが見えた。


「土方さん!!!」


視界が、白に塗りつぶされた。夜の闇ですら、白く染まっていく。


全てを覆い隠すホワイトアウトに飲み込まれるように、藤田の意識はそこで途切れた。






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