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高潔な聖女(全年齢)

高潔な聖女なので、聖騎士さまの覚悟を知ってしまった以上、もう何も知らないふりはできません

作者: 鳥遊優里夏
掲載日:2026/07/10

挿絵(By みてみん)


前作はこちら(R-18)→https://novel18.syosetu.com/n2202ml/

  今日、私はエリアスさまと一緒に王城に招かれた。小さな広間(彼が言うには、ここは王家が私的に使う場所なのだそうだ)に通される。そこに待っていたのは、国王さま、正妃さま、二人の側妃さま、そして王太子さまを含めたエリアスさまのごきょうだいたちだった。


「聖女カトレアです。本日はお招きありがとうございます」


 緊張しながらも、それを見せないよう心がけながら挨拶をする。すると国王さまは「今回は私的な内々の会だ。恋人の家族だと思ってリラックスしてほしい」と笑った。


「お気遣いありがとうございます」


 私は頭を下げてから席に着く。いつもの会食とは違い、今日はエリアスさまの分も用意されている。彼が隣に座ってくれたので、私は胸をそっとなで下ろした。


「光を司りし御方よ。今日の糧を与えられしことに感謝いたします」


 食事前の祈りを唱え、目の前に並ぶ料理を見る。コース料理の前菜……、に当たるのかな? とにかく目の前にあるのは、ハーブのサラダだった。

 ……えっと、こういうのは、確か外側のフォークとナイフを使うのだっけ?

 恐る恐る食事を口にする。食べ慣れたハーブのはずなのに、香りがとっても豊かで。ドレッシングの酸味もいいアクセントになっている。


「どうかな?」

「すごくおいしいです」


 国王さまの言葉に笑顔で応えると、彼は「それはよかった」と、何処かエリアスさまと似た眼差しで笑った。


 和やかに会食は進む。食べ方が分からなかったり、会話に詰まったりしたときは、エリアスさまがさりげなく助けてくれた。そうしていると、一番下の王女様がキラキラとした目で口を開く。


「聖女様! そう言えば、お兄様が聖女様を魔族の手から救ったとお聞きしました」


 その瞬間、王太子さまが彼女の口をふさいだ。側妃さまがあわてて彼女を諌める。エリアスさまはこちらへ視線を向けた。そのまなざしが「大丈夫ですか?」という言葉を雄弁に語っていた。

 ……正直、その時のことはあんまり思い出したくはない。エリアスさまとの夜は素敵だったけれど。

 私は苦笑いをかみ殺しつつ、ゆっくりと口を開く。


「……まあ、そうですね……。エリアスさまが来てくださって、すごく安心しました。きっと、物語の王子さまというのは、あのような方のことを言うのでしょう」


 小首を傾げて微笑めば、王太子さまが「妹が失礼いたしました」と頭を下げる。


「子どものしたことですから」

「聖女様のご寛恕に感謝します」


 震えそうになる手をこっそりさすりながら応えると、王太子さまは安心したような表情になった。ふと、手の上に自分のものでない温かさがあることに気づく。隣へ視線を向ければ、朝日の湖面にも似た瞳が見えた。

 ありがとうの気持ちを込めて頷き、私は再度王家の皆さんの視線を向けた。



 会食は進み、メインメニューが運ばれてくる。ステーキと、ハンバーグ、みたいなもの? 美味しそうだけど、フォークで食べたら崩れちゃいそう。

 皆さんは、どうやって食べているんだろう? そう考えた私はさりげなく視線を動かした。

 国王さまや王太子さま、側妃さまたちにと視線を動かす途中で、気づいてしまう。

 エリアスさまの手元。給仕が下がる一瞬の隙に、小さく折り畳まれた紙切れが渡されていたことに。

 彼はほんのわずかに視線を伏せる。……エリアスさまに何かあったのかもしれない。心配になった私は、気が付けば口を開いていた。


「……エリアスさま、それは……?」


 そう聞いた瞬間、エリアスさまの瞳がまるで氷のように冷たくなる。彼は唇だけ動かして、「見なかったことにしてください」と言った。


「こちらですか? ミートローフですね」


 彼はにこやかな笑みを浮かべながらそう答える。……笑顔のはずなのに、「踏み込むな」と言う冷たい意思表示があった。

 ……エリアスさまがそう言うなら、私は何も言わない。だって、彼が私を傷つけようとしたことなんて、一回もないから。


「エリアスはよく務めていますか?」

「え、あ、はい。公私ともに私を支えてくださってます」

「……恐縮です」


 王太子さまが場の空気を治すように、軽い調子で聞く。エリアスさまは低い、照れている時の声でそう答えた。


「聖女様はエリアスがいないとき、不安になられませんか?」


 そう尋ねたのは、エリアスさまのお母さまだった。私は心からの笑みを浮かべて答える。


「……一人でも務めは果たせます。ですが、隣にいてくださるだけで、心が落ち着くんです」


 その言葉を聞いた彼女は「素敵ですね」と微笑む。正妃さまは「こうしてエリアスがあなたのそばに寄り添っているのを見ると、この子を送り出した日のことを思い出してしまいますね」と懐かしそうに目を細めた。


「エリアスが出家して聖騎士団に入る、と言い出したときは驚きました。いっぱい話し合って、ケンカもして。最終的には『たとえ出家しようとも、あなたは私たちの家族よ』って送り出しました。聖女様、どうか私たちの家族をこれからもよろしくお願いします」

「はい、もちろんです。……皆さんのご家族を、これからもずっと大切にさせていただきます」


 出家しても家族の縁は残るけれど、家業との縁が切れてしまう。王家の特権を捨ててまで神に仕える道を選んだエリアスさまを、彼を送り出すと決めてくれたエリアスさまのご家族を後悔させたくない。

 そんな気持ちを込めて、正妃さまの言葉に笑顔で応える。


「聖女様がそうおっしゃってくださると安心です」


 私の言葉に、皆さんが笑顔を浮かべる。国王さまは「そう言えば、この話は聖女様にしたことはなかったかな」と笑って続けた。


「確かあれは初めての模擬戦の時だったかな。エリアスは剣を抜くときも、構えたときも、相手の体勢を崩したときでさえ礼をした。指南役が理由を聞いたら『礼は多いほうがいいかと思いまして……』だったかな。彼も頭を抱えていたよ」

「目に浮かぶようです」


 話題はそれとなくエリアスさまの話になる。彼に向けられる、柔らかい眼差し。エリアスさまは小さく唇を噛み、手の甲でそっと額を撫でるような仕草をする。そして、ほんの少し恥ずかしそうに「おやめください……」と苦笑した。その様子を見て、「家族がいるのってうらやましいな」と思った。その時だった。


「……大丈夫です。大司教猊下も、私も、おそばにおりますから」

「……ありがとうございます」


 エリアスさまがそう答えてくれる。思わず口に出てしまったらしい。恥ずかしくて視線をそらすと、末の王女様が目を輝かせた。


「本当にお二人は素敵な恋人なのですね。きっと、お兄様は素敵な恋文を書かれるのでしょう?」

「恋文?」


 思わず聞き返した私に側妃さまが補足してくれる。


「近頃、貴族の恋人や夫婦のあいだで恋文を贈り合うことが流行っておりますので。私も陛下から頂きました」

「私も婚約者に書きました。手紙はいいですよ。普段なかなか言えないことも言葉にできますから」


 王太子さまは茶目っ気たっぷりに笑う。……私もやってみたいな。そう思ってエリアスさまに視線を向ければ、小さく頷いてくれた。





 教会へ帰ったあと、私は侍女さんにお願いして便箋を用意してもらった。公務が終わったあと机に向かい、羽根ペンにインクを浸す。


『親愛なるエリアスさまへ』


 どんなことを書こうかな。いつも支えてくれる感謝は書かないと。私を守ろうと前に立ってくれる時の背中の大きさ、そっと後ろに控えてくれる時の頼もしさ、控えめな温かさを向けてくれた横顔……。書きたい内容はどんどん浮かぶ。その中からエリアスさまが喜びそうなものを選択していく。


『愛を込めて カトレア』


 結びに記してペンを置く。結局、書き終わるまで二日かかってしまった。

 手紙を封筒にしまい、封蝋を押す。明日はスケジュール上、お昼にちょっと時間があるはずだ。エリアスさま、喜んでくれるかな。そんな無邪気な気持ちを抱えつつ、私はベッドに横になった。


 お昼ごはんのあと、午後の公務が始まる前のちょっとした時間。こんな時間はいつも、エリアスさまとちょっとだけゆっくりする。今日は予定が詰まってなくて、いつもよりちょっとだけゆっくりできる。

 手紙は手元にある。侍女さんに頼んで、部屋から持ってきてもらってる。……お渡しするの、少しどきどきする。一つ深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。


「エリアスさま」

「カトレア様」


 声が重なる。思わず笑いをこぼす。エリアスさまも笑っていた。


「カトレア様、お先にどうぞ」

「ええと……」


 一度深呼吸をして、そっと手紙を取り出す。


「その、これ、受け取ってほしくて」


 エリアスさまの目が一瞬丸くなる。その後彼は陽だまりのような柔らかい笑みを浮かべながら、懐から手紙を取り出した。


「奇遇ですね、私も用意しておりました。受け取っていただけますか?」


 彼も用意してくれていた。その事実に胸が温かくなる。私は「もちろんです」と笑って手紙を交換した。


「書いてくれてうれしいです。大事に読みますね」

「こうして言葉にしていただけると……そばにいられる時間が、いっそう尊く感じます」


 手紙を胸に抱いて微笑めば、エリアスさまも笑い声をこぼす。


「……そろそろ時間でしょうか。参りましょう」

「はい」


 エリアスさまのエスコートで歩き始める。恋人のような親密な触れ合いではない。けれども、触れ合った手から流れてくる温かさに、心が上向いた。




 その日の夜。公務を終えた私は、ベッドのうえでエリアスさまからの恋文を読んでいた。


『拝啓 カトレア様

 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。日々ご多忙のことと存じますが、カトレア様はいかがお過ごしでしょうか。

 私は変わらず、与えられた務めに従い日々を過ごしております。


 中庭での哨戒中に、以前お好きだとおっしゃっていた花を見かけました。ふと目に留めていただいたとき、心が少しでも和らげばと願っております。


 もし、これから先に何が起きたとしても。私の心は、いつでもあなたのそばにあります。


 明日以降も、変わらず自らの務めを果たしてまいります。

 敬具 エリアス』


 便箋一枚にも満たない、それでもエリアスさまらしい手紙。読み終わってしまうのが惜しくて、一文字一文字をじっくりとなぞる。なんだか、エリアスさまが隣にいてくれるような心地だ。手紙を読み終わった私は、それを皺にならないように気をつけながら折りたたみ、封筒に戻す。

 明日、侍女さんに頼んで手紙を入れる箱を用意してもらおう。

 ふわふわとした心地に身を任せて目を閉じた。きっと明日も、いい日になる。そう信じて。





 カトレア様の警護が終わり、自室に帰ろうとした時のことだった。宿舎に戻ろうとする私に、大司教猊下が「エリアス」と声をかける。その声の調子は、硬かった。


「どうかいたしましたか?」

「聖女様の警護について、お話が。警備上秘匿すべき話ですので、私の執務室に」


 こんな時間に? と疑問がよぎる。だがそれも、ほんの刹那。

 こうした呼び出しがどんな意味を持つか。それを知らぬほど、聖女付きの近衛として、また王の血を引く者として未熟ではない。


「かしこまりました。すぐに参ります」


 そう返事をすると、猊下は「頼みます」と言ってその場を離れた。


「大司教猊下、エリアスです」

「入ってきなさい」

「失礼します」


 猊下の執務室に赴く。彼は小さく「沈黙(シルエンス)」と防音魔法を唱えた。そのうえで口を開く。


「エリアス。私は貴方の味方です。貴方を守ることが、聖女様を守ることにつながると理解しています」


 猊下ははっきりとそう発言した。真意を問うように目線を向ければ、彼は目尻に深い皺を刻んだ。一呼吸おき、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「エリアス、貴方に外交文書の持ち出し疑惑がかかっています」


 身に覚えのない罪。会食の時に家族から渡された紙切れの内容が頭をよぎる。


『お前に嫌疑がかけられそうだ。私たちは全力でお前を守る。

 だが、万一のことがあれば、聖女様に声を上げてもらえ。必要な根回しはすでに済ませてある』


 ついにきたか。どこか冷静な頭でそう呟く。大司教は一枚の辞令を取り出した。内容は、私が近衛を罷免となり、辺境伯領の聖騎士団へと配置換えになる、というものだった。


「貴方は罪に問われてはいませんが、教会幹部たちから、嫌疑のあるものを聖女様の近衛にしておくのもいかがなものか、という意見が出ています。出立は、引き延ばせて明朝まででしょう。……エリアス、せめて貴方から、事実を()()()()()聖女様にお話しください」


 ……私がもし、身に覚えのない罪で疑われていますと言えば、カトレア様は必ず声をあげる。王族や教会が聖女を操ったのではない、聖女が自分から声を上げた。そういう建前が整う。


「お気遣いありがとうございます。……ですが、私は話しません」


 だからこそ、私は首を横に振った。私の態度を見て、猊下はわずかに息を詰めた。


「エリアス」

「もう決めていたことです」

「……聖女様のご意志が確認でき次第、すぐにこちらが取り計います。聖女様が口にするのは疑問だけです。『聖女は政治には立ち入らない』という原則も、彼女自身も、必ず守ります。それでも……」


 私は再度首を横に振る。その保険は、切り札は、使わない。


「たとえそれでも、カトレア様は巻き込みません」

「……もう、決めているのですね」


 肩を落とした猊下は、諦めにも似た沈黙を漂わせる。私は深く首を垂れた。


「どうか、私の代わりに、カトレア様をお支えください」

「……もちろんです」

「それと、今回の件はカトレア様には知らせないでいただけますか?」

「……貴方が罷免され、配置換えになった。この事実はお伝えせねばなりません。ですが、それ以外は」

「ご寛恕に感謝いたします。……日の出前には、出立いたします」


 もう一度騎士の礼をして立ち上がる。振り返ることは、できなかった。



 引き継ぎと最低限度の荷物整理を終えた私は、気配を殺しカトレア様の部屋の前に立った。

 扉は開けない。彼女の前には決して姿を現さない。それでも、せめて最後に彼女の気配を感じたかった。そっと扉に触れ、目を閉じる。扉の先の気配は動かない。きっと、もう眠っているのだろう。

 ……どうか、カトレア様のこれからが、光あふれるものでありますように。

 声を出さずに、静かに祈る。……そろそろ出なくては、夜が明けてしまう。カトレア様が、起き出してしまう。

 動かない足をなんとか叱咤し、部屋の前を離れる。教会を出て駅馬車に乗った。

 王都を出るまで、私は懐にカトレア様からの恋文が入ったままだったことに気が付かなかった。





「光を司りし御方よ。今日の始まりに我らを照らしたまえ」


 今日もいつも通り、朝の礼拝をする。心を静め、呼吸を整え、朝の光と共に聖堂の空気を吸い込んだ。今日は雨が降っているからか、聖堂内はいつもより暗い。雨の日は主の光が地上に届きにくいから、いつもより心を込めて祈った。

 礼拝を終えて聖堂を出る。辺りをキョロキョロと見回して、首を傾げた。エリアスさまがいない。


「……おかしいな。いつもなら、礼拝が終わる頃に迎えにきてくださるのに……」


 疑問に思いながら食堂に向かう。朝食を取る人々の中にも彼の姿はなかった。大司教さまの姿はあったので、「おはようございます」と声をかけた。


「おはようございます。ご一緒いたしましょうか」

「お気遣いありがとうございます。……ところで、エリアスさまを見ていませんか?」


 私の言葉を聞いた途端、大司教さまは目を伏せる。指先で手を所在なさそうに撫でた。


「エリアスは、近衛騎士を罷免され、辺境伯領に任地換えになりました。昨夜出立したそうです」


 食堂のざわめきが遠くなり、雨音だけが耳に残る。


「聞き間違いですよね? エリアスさまが辺境伯領に行った、なんて」


 彼は静かに首を横に振る。そんな、嘘だ。信じたくない。


「どうしてですか……」


 そう呟いても、大司教さまは何も答えない。


「……本日は、もうお部屋に戻られますか?」


 それでも、私のことを気遣ってくれている。それを信じられるから、私は大丈夫。そう言い聞かせる。


「いいえ。私は聖女ですから」


 だから、私は務めを果たさなくてはならない。大司教さまは私の目を見た。彼は心配そうに微笑みながらも口を開く。


「承知しました。ですが、護衛をどうするかが決まるまで、外出は控えていただく必要があります。公務の予定を、組み直しいたします。……食事にいたしましょうか」


 彼に促され、私は席に着いた。いつもなら、隣の椅子にエリアスさまが座る。けれど今日は、その椅子が空いたままだ。

 料理は温かく、味も変わらない。苦手な一人でのご飯じゃない。それなのに、スプーンの進みが遅くなってしまった。



 午後の儀式に備え、聖具室で必要なものを揃えていたときのことだった。棚の一番上に置かれた小箱に気づき、私はつま先立ちになる。

 ……届かない。

 腕を伸ばす。指先がほんのわずかだけ箱の縁に触れた。……いけるかな、無理かな、ともう一度背伸びをする。

 その瞬間、いつもなら背後に気配がくる。振り返ればエリアスさまがいて、取りたかった箱が目の前にある。「こちらですか?」と微笑む彼にお礼を言って箱を受けとれる。普段であれば、そうだった。

 ……あれ?

 私は無意識に動きを止めた。もう一度棚を見上げる。箱はまだそこにあった。


「……?」


 胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。


「エリアスさま?」


 私は後ろを振り返る。後ろに控えてくれている温もりを探す。そうして気がつく。エリアスさまは、もういない。


「……えっと」


 一瞬だけ迷ってから、私は近くにいた聖騎士さまに声をかけた。


「すみません、あの小箱を取っていただけますか?」

「あれですか? すぐに取りますね」


 彼は小箱を取って差し出してくれる。


「ありがとうございます」


 礼を言い、箱を受け取る。動作は何も変わらない。必要なものは、ちゃんと手元にある。

 それでも。胸の奥に残った寂しさは、消えなかった。



 今日の公務が終わった。私はベッドに体を預けて、小さくため息をつく。

 エリアスさまがいなくても、日常は続いていく。やることは何も変わらない。それでも、心にぽっかりと穴があいたような、そんな寂しさがあった。

 寝返りを打つ。その時に、彼からもらった手紙が目にはいる。……エリアスさまが、いた証。気がつけば、私は手紙を手に取っていた。


「拝啓 カトレア様……」


 手紙を一文字一文字追いかける。短くて、でも温かい手紙。彼が残した言葉。


「……私の心は、いつでもあなたのそばにあります……」


 視線が止まる。


「……いつでも……そばに……」


 もう一度、繰り返す。心にゆっくりと温かさが満ちていく。


『いつまでも、お側にいますから』


 エリアスさまの声が、今も隣から聞こえた気がした。


「エリアスさま……」


 手紙をぎゅっと抱きしめる。確かに彼は、ここにいない。でも、心は私の隣にいた。


「私は、エリアスさまを、エリアスさまの言葉を信じます」


 心は寂しい。けど、泣かない。空を見上げれば、三日月が優しく輝いていた。彼の頭上にも、おんなじ月が輝いているはずだ。


「主よ、どうか、エリアスさまの行く末をお照らしください」


 私は祈る。遠く離れた彼のもとへ、この想いが届くと信じて。





 エリアスさまが出立されてから一週間ほどが経った頃の、公務と公務の隙間時間。エリアスさまの同期である聖騎士さまが「聖女様、ちょっとご相談が……」と声をかけてきた。


「無事に着任したエリアスから、手紙が届いたんですが……」


 彼はそう言って一通の手紙を見せてくる。


『拝啓

 辺境伯領に到着し、本日付で着任いたしました。移動および引き継ぎは滞りなく完了しております。


 当地は想定より静かで、任務に集中しやすい環境です。多少の無理は生じますが、支障はありません。こちらに関しては特段の配慮は不要です。


 今後も与えられた役目を果たすことのみに専念いたします。以上ご報告まで。

 敬具 エリアス』


「あいつ、元気……ってことでいい、んですか、ね……?」


 聖騎士さまは自信なさそうにこちらを見つめてくる。私は二の句が告げなかった。

 エリアスさまはきっと一人で無理してる。誰にも頼らず、助けすら求めず。


「……エリアスさまは、我慢強いお方です。だから、我慢できてしまう。苦しいと、声すらあげずに」

「……やっぱ、そうですよね」


 彼は苦々しく呟く。……私は、ゆっくりと目を閉じた。

 エリアスさまは黙って耐える。「大丈夫ですか?」と聞いても「私のことは、お気になさらず」と笑う。笑ってしまう。

 彼が一人で苦しんで、私だけみんなから守られてぬくぬくと笑っている。エリアスさまは、きっとそれを望んでいる。それでも。

 彼一人が苦しむのは、私が嫌だった。手紙を握りしめ、私は踵を返す。


「大司教さまのもとへ行ってきます」

「聖女様⁉︎」


 聖騎士さまの戸惑う声が響く。それでも私は、振り返らなかった。



「大司教さま、カトレアです」


 大司教さまの執務室をノックする。予想以上に切羽詰まった声になってしまった。彼はすぐに扉を開け「どうかなさいましたか?」と心配そうな顔でこちらを見つめた。


「エリアスさまの元へ行きます。予定の調整をお願いします」


 彼の瞳が、丸く見開かれる。次の瞬間には、真意を探るように動いた。視線を決して逸らさない。大司教さまは春の早朝のような厳しくも優しい微笑みを浮かべた。


「……良きように取り計います。ですので、頷いてください」


 彼はそれだけ言うと、あえて厳しい声色で言った。


「聖女様、なりません。彼は近衛を罷免された身。貴方のような尊きお方が会うべきではありません」


 否定の言葉だ。しかし、私は頷いた。だって、大司教さまが良きように、と言ったのだ。つまりこれは、ただ建前を整えてるだけ。


「近頃、聖女様はお疲れの様子。静養を兼ねての旅行などはいかがでしょう」


 頷く。彼の指示通りに。


「辺境伯領などおすすめです。あそこは国内有数の温泉地ですよ」

「はい。お願いします」


 すっと頭を下げる。彼はそれを見て「すぐに公務の調整と、旅行の手配をいたします」と静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 もう一度頭を下げる。私は握りこぶしを一つ握りしめた。



 ()()の準備が慌ただしく進んでいく。大司教さまは「なるべく早いほうがいいでしょう」と大急ぎで便宜を図ってくれた。一日もしないうちに準備が整う。随伴する聖騎士さまは、精鋭中の精鋭から三人選ばれた。私付きの侍女さんも一人同行してくれる。


「しばらくよろしくお願いしますね」

「エリアスほどではありませんが、私たち三人でなんとか務めます」


 聖騎士さまたちに挨拶をする。傅く彼らに微笑みを向けたところで、大司教さまが声をかけてきた。


「聖女様。お渡ししたいものが」


 彼はそう言って、白い紙袋を差し出す。


「大司教さま、これは?」

「辺境伯への手土産にご用意したクッキーです。エリアスが『皆の手を取れる』と判断されたとき、こちらを辺境伯にお渡しください。きっと、エリアスの力になるでしょう」


 普通の手土産に、そんな条件がつくはずがない。……つまりこれは、ただのお菓子じゃない。心臓が少し早くなる。


「これは、私が運んでも大丈夫なものですか?」

「はい。ぜひお持ちください」

「分かりました」


 大司教さまから紙袋を受け取る。手にした瞬間、胸の奥でじんわりと温かさが広がった。


「道中の無事を、お祈りしております」

「はい、行ってきます」


 深く頷いて馬車に乗り込む。日差しが車窓から差し込み、景色を淡く照らす。風が頬を撫でるたび、胸の奥で小さな光が揺れた。


 ……待っていてくださいね。今行きますから。





 暗く視界の悪い森の中、魔物の唸り声が聞こえる。私は剣を握り、部隊の皆と共に討伐に当たっていた。


「……ここですか」

「おう。いけるか?」

「問題ございません」


 隊長の合図で斬りかかる。ほんの少し、踏み込みが遅れた。……身体が重い。だが、怯むわけにはいかない。

 すぐに魔法を発動し、体勢を立て直す。魔物の身体が地面に崩れ落ちた。


「さすがだな! そいつ、皮が硬くて貫きづらいんだよ」

「判断も迅速だし、何より剣も魔法もレベルが高けぇな」

「魔物相手に飛び出せる勇気もある。中央から来たって聞いたからどんな腑抜けかと思ったけど、無用の心配だったわ」

「まだまだ至らぬ点ばかりです」


 皆の声が滑る。謙遜を返せば、「謙虚だな」と笑われる。重い息を吐く。無意識に肩を回した。……問題ない。

 本部に戻って報告書をまとめる。聖騎士団の報告書を辺境伯の下へ届けるのも私の役目だ。


「閣下。エリアスです」

「おう、入れ」


 執務室の扉をノックすれば、返事が返ってくる。「失礼します」とことわって入室した。


「本日の報告書となります」

「後で確認するな。ご苦労さん」


 閣下は私をじっと見つめる。居心地の悪さを感じ、「……どうかいたしましたか?」と口を開く。


「ん、なんでもねえよ」


 口ではそう笑っている。……視線がうるさい。私は逃げるように口を開いた。


「では、職務がありますので、これにて失礼致します」

「おう。……休むことも仕事のうちだ。無理すんな」

「……休息は取れておりますので。それでは失礼いたします」


 口角を釣り上げて答えたのちに退出する。……まだ、大丈夫だ。体は動く。問題ない。

 本部に戻れば、終業時間となった。同部隊の先輩に「おい、エリアス」と声をかけられる。


「これから酒場に行くけど、お前も来るか?」

「いえ、明日に響きますので」

「真面目だなー。分かったわ。また明日」


 手を振る彼に頷いて別れる。食堂で食事を取り、宿舎に戻った。

 机、椅子、ベッドなど、生活に必要なものが揃った部屋。……肩がほんの一瞬だけ軋むように痛んだ。身体に酸素を通すように息を吐き、ベッドに腰掛ける。

 暗い室内の中、淡い色彩の封筒が月明かりを受けていた。カトレア様からの恋文だ。


「……捨てなくては」


 立ち上がり、封筒を手に取る。柔らかいクリームのような色をした封筒に、赤い封蝋が踊る。隅には丸みを帯びた崩し文字で、「エリアスさまへ」と書かれていた。

 これはもはや、私のものではない。だから、捨てなくてはならない。頭ではそう考えているのに、体は動かない。月の光が、優しく照らしてくる。


「……あまり起きていると、明日に響きます……。休息を、取らなくては」


 封筒を机の上に戻し、ベッドに横になる。意識して目を閉じれば、体が沈んでいく。

 ……夢は、見なかった。





 中央から出て四日たった日の夕方、私はようやく辺境伯領にたどり着いた。空気は乾燥していて、空の色も知ってるものとはちょっと違う。到着した私が向かったのは、辺境伯さまのところだ。


「聖女カトレアです。本日は急な訪問にも関わらず、快くもてなしてくださってありがとうございます」

「わが領は温泉が有名ですから、きっと聖女様もゆっくりご静養できるでしょう」


 辺境伯さまの執務室で、私は彼と相対する。体が大きくがっしりとしていて、軍人特有の威圧感がある。彼は笑顔のまま、沈黙(シルエンス)と唱えた。


「よし、これで周りに音は聞こえないだろ。聖女さん、いったい何をしに来た」

「エリアスさまに、会いに来ました」

「ほぉー。男を追ってはるばるここまでねぇ。大した聖女様だ」

「褒め言葉として受け取っておきますね。それで、どこにいけばお会いできますか?」


 笑顔を浮かべて首を傾げる。彼の鋭い視線がいやがおうにも突き刺さった。


「例えば、お前のことが嫌いになって、これ幸いとこっちまで来た。んなことは考えなかったのか?」

「エリアスさまが? あり得ません」


 首を横に振る。「ずいぶん信用してんだな」と笑う彼に「エリアスさまですから」と答えた。


「じゃあなんだ。顔でも見に来たのか?」

「……そうですね……。エリアスさまが、一人で抱え込んで、無理をしていたから。だから、なにかできないかと思って」

「なんにもできないかもしれねえぞ」


 辺境伯さまの声が響く。視線はそらさない。

 何かできそうだからここに来たわけじゃない。ただ一人にしたくなかったから、支えたかったからここに来た。


「それでも、一緒にいることくらいはできます」


 辺境伯さまは黙り込む。私をじっと見つめて……そうして、大口を開けて笑った。


「大した女傑じゃねえか」 

「……褒め言葉、でいいんですよね?」

「おう。褒めたつもりだ」


 彼はひとしきり笑うと、真剣な表情になる。


「あいつはめちゃくちゃ頑なだ。俺が言ったって聞きやしねぇ。……けど、聖女さんのまっすぐな言葉だったら届くかもしれねえな」

「と、言うことは……」

「おう、会わせてやる」

「本当ですか!?」


 思わず立ち上がった私を、彼は「落ち着け」と制止する。「すみません」と謝って着席した。


「どこにいけば会えますか?」

「あー、ここで待ってりゃ会えるぞ。あいつには毎日、聖騎士団の報告書を届けさせてる。正直言って、いつ潰れてもおかしくねえからな。毎日見張ってやらないと」


 もしかしたら、手紙の時から悪化してるかもしれない。辺境伯さまは心配で手を握りしめた私を見て「怖かったら帰ってもいいんだぜ?」と笑う。私は「いいえ。待ちます」と首を横に振った。


「おう、その意気だ。お前ら、エリアスが入ってきたら、絶対逃すなよ」


 彼は後ろに控えていた騎士さまに指示をする。「はい」という声が、部屋の中に響いた。





 コンコン、とノックの音がした。「閣下、エリアスです」と低めの声が響く。


「おう、入れ」


 失礼します、と入ってきたのはエリアスさまだった。いつもより表情が険しい。顔色が悪い気がする。


「本日の報告書……と……なり……」


 視線が交差する。彼の手の中から、報告書の束がばさりと落ちる。私が立ち上がったタイミングで、彼はすぐさま踵を返そうとした。だが、すぐにドアの前に待機していた騎士たちがエリアスさまを止める。


「エリアスさま……!」


 私は彼の手をそっとつつみ込み、視線を合わせようとする。それでもエリアスさまは顔を背けた。


「カトレア様……なぜ……ここに……?」

「エリアスさまに会いに」

「……いけません」


 彼の瞳が揺れる。唇が震えた。


「今の私は、カトレア様に害しかもたらしません。お側にいるべきものではないのです」

「……でも、それではエリアスさまがお一人に……」


 そう言い募る私を、彼は笑顔で遮断する。


「……大丈夫です。私のことは、お気にならさず。カトレア様はどうかこのまま中央へお帰りください」


 どう見ても大丈夫じゃないのに。無理を重ねているのに。エリアスさまは一人で立とうとしてる。……このままじゃ、潰れてしまう。いや、違う。彼は、一人で潰れようとしてるんだ。

 それは、絶対に嫌だ。だから、私は祈る。


「……光を司りし御方よ」

「っ、いけません! カトレア様!」


 エリアスさまの表情が焦りに染まる。でもやめない。


「御身の守護をもって、エリアスさまを守りたまえ」


 結界の聖魔法を唱える。でも、すぐに解く。彼を一人にしてしまう壁は張らない。だって、主に守って欲しいだけだから。ふわっと溶ける光の粒にする。柔らかい光で、彼を抱きしめる。


「……っ」


 研ぎ澄まされたサファイアが解け、涙の幕が浮かぶ。彼の肩から力が抜ける。まるで迷子になった子供のような顔をして、エリアスさまは膝から崩れ落ちた。私は微笑みを浮かべ、彼をそっと抱きしめる。


「……なぜ……私なんかに……」


 あえて何も言わない。ただ安心させるようにそばにいた。


「……カトレア様を……守るため……っ、私を……切り捨てなくては……ならないのに……」


 背中をゆっくり撫でる。


「聖女に……、祝福された……ものを……っ、私は……、斬れない……」


 エリアスさまは大粒の涙をぽたぽたとこぼす。必死に嗚咽を噛み殺し、ただ肩を震わせていた。



 エリアスさまの背中をぽん、ぽんと優しく叩いていれば、だんだんと嗚咽の感覚が長くなっていく。彼の目は伏せられていて、このまま眠ってしまいそうだった。

 本当は、このまま寝かせてあげたい。……けれど、私は聞かなければならない。


「エリアスさま」


 名前を呼べば、彼は顔を上げる。その瞳は不安に揺れていた。


「一つ、聞いてもいいですか?」

「……なん……でしょうか……?」


 エリアスさまはじっと私を見つめる。私は「大丈夫です。怖いことは何も聞きません」と笑ってから、言葉を紡いだ。


「エリアスさまは、私を含めた『皆さん』の手を取れますか?」


 大司教さまは「皆の手」と言った。だけど、私もエリアスさまに手を伸ばしたかった。だから、こう言った。

 透き通ったガラス玉が、丸く見開かれる。それはそのまま、ためらうように揺れた。


「……迷惑……では……」

「いいえ。少なくとも私は、そう思ってません」

「……私に……、そんな資格は……」

「みんな、エリアスさまのために手を伸ばすんです」


 息を呑む音が聞こえる。考え込むように目が伏せられる。私は彼の答えをじっと待った。

 かち、かち、と時計が時を刻む音が控えめに聞こえる。永遠にも感じられる静寂。……それを破ったのは、エリアスさまだった。


 小さな、衣ずれの音がする。気がつけば、私は抱きしめ返されていた。震える手で、おずおずと。いつもよりもはるかに弱々しい力で。


 私は柔らかな微笑みを浮かべ、彼をそっと抱きしめなおした。エリアスさまは私の肩に頭を預ける。私は彼の頭に手を伸ばした。ゆっくりと頭を撫でていれば、揺れる湖面が静かに閉じられていく。耳のそばで、安心したような寝息が奏でられる。

 彼は私の手を拒まなかった。きっとそれが答えだ。侍女さんに視線を送れば、彼女は辺境伯さまに手土産を渡す。その瞬間、鳥が羽ばたくような音がした気がした。



 しばらく彼に寄り添っていれば、護衛の聖騎士さまが恐る恐る口を開いた。


「聖女様、その姿勢、辛くないですか?」

「でも、エリアスさまのそばにいたいですし……」

「なら、せめてソファに移動しませんか?」


 聖騎士さまも、侍女さんも、辺境伯の騎士さまも、辺境伯さままでも一斉に頷く。


「……そうですね。皆さんに心配をかけるのもなんですし……。エリアスさまの移動、手伝ってくださいませんか?」


 皆さんにそうお願いすれば、快く頷いてくれた。聖騎士さまにエリアスさまを預け、ソファへと移動する。彼らはエリアスさまをソファに座らせようとしたものの、エリアスさまの力が抜け切っているためかうまくできないようだ。


「……あー膝枕にする、とか?」

「それはいいですね。では、それでお願いします」


 辺境伯さまからの鶴の一声で、私の膝を枕にして寝かせることに決まった。彼は「仮眠に使ってる毛布だ。あったかいぜ」と、エリアスさまに毛布をかけてくれる。


「ほい、膝掛け。好きに使ってくれ。それじゃあ、あとはお若いお二人で、だな。そっちの部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ。空調は入れておくな」

「お気遣いありがとうございます」


 辺境伯さまにお礼を言うと、彼は手をひらひらと振って部屋の扉を開けた。皆さんもぞろぞろと部屋を出ていく。

 明かりが落とされた室内は、柔らかな静寂に包まれていた。エリアスさまはいつか見たようなあどけない表情で眠っている。

 ふわぁ、とあくびが漏れた。長旅の疲れが出たのかもしれない。


「主よ、どうかエリアスさまの穏やかな眠りをお守りください……」


 私は小さく祈ってから目を閉じる。穏やかな眠りは、すぐそこまできていた。





 鳥たちが鳴く声がする。目を開けると、窓から朝の日差しが差し込んでいるのが見えた。どうやらいつもの時間に目が覚めたらしい。


「簡易的なものだし……このままでもできるかな」


 私はそう呟いて指を組み合わせる。


「光を司りし御方よ、今日の始まりに我らを照らしたまえ」


 いつも通り心を込めて祈った。聞こえる鳥の声、光の当たり方、風の流れがいつもと違って、ちょっと新鮮な気持ちだ。

 お祈りが終わって一息ついたところで、エリアスさまが薄く目を開けているのが見えた。


「……カトレア……さま……?」


 寝ぼけているのだろうか、彼は眩しそうに目を細めている。私は「はい、あなたのカトレアですよ」と小さく笑いをこぼした。


「……私……の?」

「そうですよ」


 彼はよく分かってない顔で瞬きを繰り返す。……まだ眠そうだ。


「もう少し眠ります?」

「……はい」


 双藍はまたゆっくりと閉じられる。私は彼を起こさないよう注意しながら、その金糸の手触りを楽しんだ。



 エリアスさまが二度寝を始めてしばらくした頃、執務室のドアが控えめにノックされる。「どうぞ」と返事をすると、辺境伯さまが入ってきた。


「聖女さん、おはようさん。エリアスはまだ寝てるか?」

「はい。昨日は随分とお疲れの様子でしたし、もう少し寝かせてあげたいのですけど、よろしいですか?」


 膝の上で気持ちよさそうに眠っているエリアスさまを、そっと撫でながら答える。

 辺境伯さまは「ん、いいぜ。お前らがソファで寝てようが、仕事はできるしな」と、からから笑った。その後、微かに腕を動かして何か操作したようだった。


「……悪い……昼から……」


 こちらに聞こえないように喋っているということは、聞いてはいけない話なのだろう。私は聞いていませんよ、と澄まし顔でエリアスさまの頭をなでる。


「で、聖女さん。昨日の夜から何にも食べてないだろ」

「あ、そういえばそうでした」

「やっぱりな。手でつまめる軽食を用意させるから、食べてていいぜ」

「ありがとうございます」


 微笑みを浮かべつつ、内心苦笑いをした。ちゃんと食べられるかな……。

 用意されたサンドイッチに手を伸ばす。うん、素朴で美味しい。けど、やっぱり手が止まる。


「あー……。口に合わなかった、か?」

「いえ、その……。すごくおいしいです。……ただ、一人だと、あまり食が進まなくて」


 ちょっと恥ずかしくて、視線をそらす。彼は「口に合わなかったんじゃないならよかったよ」と軽く笑った。


「エリアスと出会ったのっていつだ?」

「聖女になったばかりの頃だから……七年前、くらい、ですかね? 私の近衛になってくれたときが最初です」

「付き合い長いんだな」

「……辺境伯さまも、ですよね……?」


 思わずそう零すと、辺境伯さまは柔らかい笑みを浮かべた。


「なんでそう思った?」

「……エリアスさまのこと、よく見ていらしたので」

「よく見てんなぁ」


 彼は楽しそうにくつくつ笑うと口を開く。


「そいつに剣を教えたのは俺だ」

「……ということは、初めての模擬戦で、何度も礼をするエリアスさまに頭を抱えたという……」

「その話、知ってたか。エリアスらしいよな」


 辺境伯さまはそう言いながらエリアスさまに温かい眼差しを向けた。


「そいつ、その頃からちょっと無理しがちなところがあるやつでさ。俺が毎日素振り千回しろ、って言ったら、疲れてる時だろうが、体調崩してる時だろうがやろうとしてたんだぜ? 慌てて休息も戦士の技術だ、って教えたんだけどなぁ。……無理を隠す、っていうのが上手くなっただけだった」


 ……我慢している、無理をしているというのを見せてくれたのは、前に一度「一緒がいい」と踏み込んだ時と、今回だけ。それ以外はずっと甘えっぱなしだった。それが彼の献身だと、疑いもしないまま。

 思考が自己嫌悪へと走りそうになった瞬間だった。


「……カトレア……さま……」


 寝言だろうか。エリアスさまが低く掠れた声で私を呼ぶ。私の手の上に、彼の手が重ねられた。


「……おそばに……」


 まだ夢の中にいるのだろう。むにゃむにゃ、という擬音に近い声が響く。私は微笑んで彼の頭を撫でた。


「大丈夫です。そばにいますから」


 返事はない。ただ、ゆっくりと繰り返される寝息が、彼の安心を物語っていた。





 エリアスさまが目を覚ましたのは、お昼ごろだった。彼は視線を動かして状況を把握すると、少し耳を赤くして手の甲を口元に添えた。


「……失礼いたしました」

「おはようございます。よく眠れました?」

「はい。申し訳ございません」

「気にしないでください」


 そう言って微笑んでいれば、彼はゆっくりと体を起こした。


「もう少し寝てても良かったのに」

「いえ……そういうわけには……」


 エリアスさまはばつの悪そうな顔で頭をかく。そのまま辺境伯さまの方へと向き直った。


「閣下にもお見苦しいところをお見せしてしまいました」

「ん〜? 気にしてないからいいぜ。にしてもお前、図体はでかくなったのに寝顔はほぼ変わらないんだな」

「……閣下」

「おお、(わり)(わり)い」


 エリアスさまの低い声に、辺境伯さまは軽く笑う。


「起きたんなら飯……と言いたいところだが、どうやら中央さんは待ってくれないらしい」


 彼はそう言って何かを操作する。その瞬間、壁に大司教さまと王太子さまの姿が映った。


「エリアス、起きたみたいだな」

「……これで声が届くとは、にわかには信じがたいですが……。聖女様、ご無沙汰しております。エリアスも共にいるようですね」


 ()の王太子さまと大司教さまが話す。何が起きているのか理解できなくてきょとんとしていると、エリアスさまが「なるほど。通信の魔道具ですか」と呟いた。


「つうしん……の、魔道具?」


 思わず首を傾げた私に、王太子さまと辺境伯さまが補足する。


「遠くにいても顔を合わせて会話できる、という魔道具ですね」

「装置の大きさと希少性から、王城とここにしか置いてない奴だ」


 知らなかった……と慌てる私に、エリアスさまは微笑んで口を開く。


「王家や辺境伯家の者しか存在を知らない上、国王や王太子、辺境伯やその後継ぎしか使用できない特殊な魔道具です。知らなくても無理はないかと。私も初めて見ました」

「エリアスさまも?」

「私はあくまで庶子ですので」


 あくまで事実を伝えるようなさらりとした口調で彼は笑う。辺境伯さまが「とりあえず、始めようぜ」と笑う。それを遮って大司教さまが口を開いた。


「その前に一つ。これはあくまで教会の儀式についての会議です。王太子殿下と辺境伯閣下は、オブザーバー兼魔道具の使用者としての参加になります。よろしいですね?」

「ああ、なるほど。聖女さんは政治の会議に参加できねえもんな。分かったぜ。発言権は?」

「もちろん構いません。議決権のみ、私と聖女様、場合によってはエリアスの三名に絞っていただければ」

「むしろそうしていただかないと、こちらが教会との癒着を疑われてしまいますから」


 大司教さまの言葉に、辺境伯さまと王太子さまが頷く。


「とりあえず、まずは聖女様に状況説明が必要ですね。エリアス、もう彼女に口止めする必要はありませんね?」


 ニッコリと笑顔を浮かべているはずなのに、大司教さまの目が笑っていない。思わずエリアスさまの方へと視線を向ければ、彼は気まずそうに視線をそらした。


「……そうですね。……私から、きちんとご説明いたします」

「よろしい」


 大司教さまはそう頷く。私はエリアスさまへ向き直り「話を聞かせてくれませんか」と聞いた。彼は一度目を閉じ、深呼吸をする。そして、私をまっすぐ見て話し始めた。


「……実は、身に覚えのない罪で疑われ、その結果近衛を罷免されました」

「身に覚えのない罪で……?」

「はい」


 私は目をぱちくりさせる。


「じゃあ、調査結果がおかしいのでは? あるいは、誰かが勘違いしてるとか……」


 そう言った瞬間、エリアスさまは「やはりそうおっしゃるのですね」と苦笑する。


「……私はそれを、あなたに言ってほしくなかった。だから、あなたに事情を隠しました」

「えっと……」


 まったくピンとこない。疑問符を浮かべていると、彼は「きちんとご説明します」と微笑む。


「私に着せられた罪は、証拠がありません。ですから、あなたの言葉で、私の処遇を覆せる余地がありました。王家も、大司教猊下ですら、そうやって私を守ろうとしていただきました。……それを拒否したのは、私です」

「……理由を聞いても?」

「私の冤罪は政治的なもの。それに、あなたを巻き込みたくなかった。それだけです」


 ……分かってしまう。エリアスさまにとって『私を政治に巻き込んでしまう』ということはきっと()()()()と言い表すにはあまりにも重いことだ、と。


「隠し事をしたうえ、おそばを離れてしまいました。まことに申し訳ございません」


 エリアスさまは深々と頭を下げる。私は微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。


「許します。……というよりは、私はちっとも怒っていません、の方が正しいですね。でも……」


 一度言葉を切る。彼の目をまっすぐ見て、私は続けた。


「次からは、ちゃんと相談してください」


 もうあなたを一人にはしたくないから。だから、ちゃんと教えてほしい。そう思いながら彼を見つめれば、エリアスさまはしっかりと頷いた。私は大司教さまの方へ向き直る。


「大司教さま。私はエリアスさまを助けたいです。どうすればいいですか?」


 はっきりと宣言すれば、大司教さまは威厳に満ちた優しい笑みで、「貴方の御心のままに取り計らいます」と笑った。


「聖女様には、預言をいただきたく存じます」

「預言を、ですか?」


 預言を告げる儀式……預言の儀は、災害や不幸な出来事が続いた時など、人々の心が不安に満ちている時に行われる。神の娘として、人々が希望を持って前を向けるような、そんな言葉を授ける特別な儀式だ。


「はい。エリアスが外交文書を持ち出したという調査結果を()()()()()、そんな預言をいただけたらと」

「預言の言葉は、間違いなく聖女様の言葉です。預言を拝受した上で、我々が適切に動きます」


 王太子さまがしっかりと頷く。彼は弟であるエリアスさまを大事に思っているお兄さまだ。そんな彼になら、安心して任せられる。


「分かりました。私の言葉を皆さんに託します」


 大司教さまと王太子さまが深く頷く。


「じゃあ、急いで中央教会に戻らないと、ですね」


 預言の儀ができる場所は、中央教会の中にある特別な聖堂だけだ。今から出発したら……と考え始めた私を、エリアスさまが「お待ちください」と止めた。


「中央へ向かう道中にて、カトレア様の身に危害が及ぶ恐れがございます。預言を封じるため、お命が狙われる可能性は高いでしょう」


 命が狙われる。その言葉を聞いて思わず唾を飲み込んでしまう。エリアスさまは私の顔を見て何かを言いかけたが、視線を下に向け口を噤んだ。

 そんな私をみて、大司教さまが落ち着いたトーンで告げる。


「通常の護衛に加え、辺境伯領の聖騎士による警護をつけましょう。出立は明朝に。今夜はここで備えを整えます」

「ま、そうするしかないわな。こっちの聖騎士団長を呼んでくる」


 辺境伯さまはあえて軽い口調でその言葉に応えた。その後彼は私に向き直る。


「聖女さん、今のうちに少しでも横になっとけよ。出発したら、ゆっくり寝てられるか分かんねえぞ」

「……そうですね。では、お言葉に甘えます」

「おう。エリアス、悪いけど聖女さんを客間まで案内してくれね?」

「……承知いたしました。カトレア様、こちらです」


 エリアスさまの案内で、執務室をあとにする。今は少しでも休まないと。これから何が待ち受けているのかすら、私には分からないから。





 客間まで向かう道中、エリアスさまはふと「……寒くありませんか?」と聞いてきた。いつもだったら、寒いですねとか答えてたと思う。……ここで寒いと答えたら、エリアスさまは自身の着ている上着をかけてくれるのだろう。それじゃあ、彼が寒くなってしまう。だから私は微笑みを浮かべて口を開いた。


「私は大丈夫です」

「……承知しました」


 エリアスさまの目がほんの一瞬、丸く開かれる。すぐに目は伏せられ、「……参りましょうか」と彼は歩き出した。

 客間につくと、給仕さんが食事を持ってきてくれる。ライ麦パンよりも黒いパンに、お肉と豆の煮込み料理。傍にはキャベツかな? のほんのり酸っぱい匂いのする漬物が添えられていた。


「同席いたしましょうか?」


 エリアスさまは私を見つめる。正直に言って、その申し出は嬉しい。一人でのご飯は進まないから。……でも、今はそれよりも彼に休んでほしい。


「大丈夫ですよ。エリアスさまはゆっくり休んでください」


 笑顔でそう伝えた瞬間、エリアスさまの肩がほんの少し強張った。彼は笑顔を浮かべて、「……失礼いたしました」と口にする。その笑顔はどこかぎこちなかった。

 ……なんだかさっきから、エリアスさまの様子がおかしいような……?


「エリアスさま?」


 また何か一人で抱え込んでるのだろうか。そう思って問い掛ければ、彼は「何かご用ですか?」と微笑む。多分ここでなんでもない、って言ったら、またぎこちない笑顔を浮かべそうな気がした。


「……あの、その……」


 ゆっくりと息を吐く。おずおずと「……そこのお水、取ってもらっても大丈夫ですか?」とお願いしてみた。


「もちろんです」


 エリアスさまは肩から力を抜いて、コップにお水を入れて手渡してくれる。


「ありがとうございます」

「お役に立てて何よりです」


 お礼を言うと、彼はふわりと綻ぶような笑顔を浮かべた。さっきまでのぎこちなさはなんだったんだろうか。そう考えてエリアスさまへ視線を向ける。


「何かお困りごとですか?」


 エリアスさまは首を傾げる。私はそんなにエリアスさまに頼りきりだったっけ? そう考えて、ふと気づく。彼の瞳が揺れていることに。


「あの、そばにいてもらっても、いいですか?」

「はい」


 私がそう口にした瞬間、彼は安堵したように息を吐き、ソファの隣に座ってくれた。……その仕草を見て気づいた。エリアスさまはきっと、私に頼ってほしいんだ。


「……その、やっぱり、ご飯、一緒に食べてもらっても……」

「構いません。すぐにもらってきますね」

「……あの、ちょっと……。行っちゃった……。近くに使用人さんがいるのに……」


 恐る恐るお願いを口にすれば、彼は私の言葉を遮る勢いで立ち上がって部屋を後にした。

 エリアスさまはすぐに戻ってきた。トレイには同じメニューが乗っている。彼はしばらく考えて、そっと隣に座ってくれた。食事前のお祈りを済ませて料理に向き直る。黒いパンに手を伸ばして、いつもみたいに千切ろうとした。けれども、うまく千切れない。


「……エリアスさま、これ、どうやって食べれば……」

「ナイフなどで切って、煮込みに浸すことが多いですね」

「やってもらっても、構いませんか?」

「もちろんです」

「ありがとうございます」


 普段なら自分でやるようなちょっとしたことも、様子を見ながらエリアスさまに頼んでみる。すると彼はニコニコと笑顔を浮かべてくれた。

 私が頼るたびに表情も少しずつ和らいでいく。肩の力も抜けたようで、深呼吸するみたいにゆっくり息を吐くことも増えた。


「辺境伯領の空の色、ちょっと中央と違いませんか?」

「……言われてみれば……。確かに、少し青みが強いような気がします」


 たわいのない話を交わす。いつの間にか、煮込み料理の皿は空になっていた。緩んだ空気に小さくあくびをこぼせば、「少し休まれますか?」と聞かれる。


「……そう、ですね……。エリアスさまと、一緒に寝たいです……。だめですか……?」

「もちろん構いません」


 彼と一緒にベッドに横になる。エリアスさまもリラックスしているようで、少し重たげに瞼を開いていた。


「寝る前に……キスして……もらえますか……?」

「はい」


 そっとおでこにキスが落とされる。うとうととまどろむ意識の中、「おやすみなさいませ」と言う、ふわふわとした声が聞こえてきた。





 お昼寝から起きたら、外は真っ暗になっていた。先に起きていたエリアスさまに案内してもらって食堂へと向かう。その道中だった。


「よう、エリアス」


 辺境伯領の聖騎士さまが、エリアスさまに手を振る。彼は立ち止まって「どうかしましたか?」と声をかけた。


「もう編成掲示板見たよな? 明日、俺とお前が同じ討伐班になってたぞ。よろしくな!」

「ああ、もう掲示の時間でしたか。よろしくお願いします。ちなみに、対象は?」

「あ、まだ見てなかったか。ワイルドボアだってよ」


 ……なんでエリアスさまは、明日の魔物討伐の話をしているんだろう。不安になった私は思わず口を開く。


「明日……? だって明日は……」

「明日は別の任務に就いています」


 彼は私に向かってさらりと答える。目の前が真っ白になった。……エリアスさまが守ってくれると、当然のように思ってた。でも、そうじゃなかった。


「カトレア様?」


 彼は怪訝な顔で私の名前を呼ぶ。思わず「……別の任務……?」と繰り返してしまう。


「……はい。そういうことです」


 彼は視線を逸らす。沈黙が痛い。何も言えなくなったところで、たまたま通りがかった辺境伯領の聖騎士団長さまが「聖女様、ちょうどよかった。少し、お話が」と声をかけてきた。


「先に食堂でお待ちしております」


 エリアスさまはそう言って離れていく。団長さまに連れられるまま、私は廊下の隅に移動した。


「聖女様の護衛が決まりました。こちら、名簿と配置になります」


 手渡された紙を確認する。何度探しても、エリアスさまの名前がどこにもない。


「……エリアスさまは……、護衛に入ってない……」

「こちらの判断で外しました。彼は要人警護の経験が豊富である一方、少々気が張っているように見えましたので。本人も志願している様子ではありませんでしたから」


 私の言葉に団長さまはそう返す。


「聖女様が不安でしたら、あと一人護衛を追加することも検討しております。もちろん、貴方様が指名してくださっても構いません」

「エリアスさまでも?」

「それが貴方様のご意志でしたら」


 団長さまは微笑む。ここで彼を指名するのは簡単だ。でも……。


「本人が……志願してない……」


 彼の言葉が本当なのだとすれば、ここで名前をあげることは、エリアスさまの気持ちを無視してしまうことになる。それだけは、絶対嫌だった。


「……少し、考えさせてください」

「承知いたしました。明朝までにお決めください」


 なんとかそれだけ言うと、団長さまは恭しく頭を下げた。



 食堂に向かうと、エリアスさまはすでに席を取って待っていてくれた。恐る恐る声をかける。


「お隣に座っても……?」

「もちろんです。どうぞ」


 椅子を引いてくれたのでお礼を言ってから座る。晩御飯はライ麦パンに、お肉のロースト、それと野菜スープだ。……何だか、お肉にちょっとクセがあるような……?


「どうかいたしましたか?」


 エリアスさまは私の顔をそっと覗き込む。瞳には気遣いが滲んでいた。


「食べられないとか、苦手とかではないんですけど、お肉の風味がちょっとだけ……独特? なのかな?」

「肉……。そういえば、本日は山羊のローストでしたっけ。苦手でしたか?」

「ええと、ちょっとびっくりしただけです。食べられないとかはないですよ」


 彼と視線を合わせて微笑む。エリアスさまは私の顔をじっと見たあと「調味料をとってきます」と席を立ち上がった。そのまま隅に用意されている調味料コーナーへと何かをとりに行く。戻ってきた彼の手には、小皿に盛られた粒が混じる黄色い調味料があった。


「エリアスさま、これは?」

「粒マスタードです。肉の臭みを多少誤魔化せるかと。辛味が強いので少量お使いください」


 彼に言われるまま、ローストにほんのちょっと乗せて食べてみる。多少辛いけど、さっきよりも食べやすい。


「……大丈夫ですか?」

「思ったよりも辛くてびっくりしただけです。でも、さっきより食べやすくなりました」

「喜んでいただけたならよかったです」


 エリアスさまはにっこりと笑みを浮かべる。その笑い方がいつも通りすぎて、『彼が護衛に乗り気でない』とは信じられなかった。





 食堂で夕食を食べたのち、カトレア様を再度客間へ案内する。彼女は部屋に戻るまで、時々こちらに視線を向けていた。ヘーゼルの瞳が、まるで蝋燭の火であるかのように揺れる。

 客間に戻ったところで、遠慮しがちに「あの……!」と袖を掴まれた。


「何かございましたか?」

「……私、やっぱり、エリアスさまに無理をさせてましたか?」


 カトレア様はじっと私を見上げる。その瞳は、初めてお会いした頃……突如聖女として覚醒し、右も左もわからぬまま育った孤児院から中央教会に連れて来られた頃を彷彿とさせた。私は彼女の前に跪く。


「いいえ。無理をさせられているわけではありません。確かに、楽な役目ではないかもしれません。ですが……」


 カトレア様の目をまっすぐ見る。視線は逸らさない。


「私は、自分の判断で、こうしております」

「……なら」


 彼女はぎゅっとワンピースの裾を掴む。


「……護衛任務に志願しなかった、と聞きました。……それは、どうしてですか……?」


 ……そういうことか、と腑に落ちた。思わず俯いてしまう。……私が、不安にさせた。私が、彼女と向き合うことから逃げてしまったから、カトレア様は不安になってしまった。……きちんと、ご説明しなければ。

 一度深く息を吐き、目を閉じる。その後、視線を合わせて口を開いた。


「……私には、聖女の近衛を罷免された私には、あなたの護衛をする資格がありません。だから、志願できませんでした」

「……資格が……?」

「はい。現在の私は正式な近衛ではありません。本来であれば、カトレア様の護衛に名を連ねること自体が、分を越えています」


 言葉を選びながら、淡々と続ける。


「ですが……私自身は、護衛任務を嫌がっているわけではありません。ただ、当然のようにそこにいるべきではない、と」

「エリアスさま」


 森の湖面に光が反射したような、そんな光が彼女の瞳に宿る。


「私は聖女の近衛に守って欲しいわけじゃありません。エリアスさまに、他の誰でもないあなたに守って欲しいんです」


 思わず息を呑む。何も言葉が出て来なくなってしまった。


「……もちろん、エリアスさまが嫌なら断ってくださっても構いません。……エリアスさまは、どうしたいですか?」


 カトレア様は私を、『聖女の近衛だったもの』でも『辺境伯領の聖騎士』でもなく、ただの私をまっすぐ見る。


「……一晩、考えさせてください」


 震える声でそう答えるのが、精一杯だった。



「……では、私は少し失礼いたします。カトレア様も、どうぞごゆっくりお休みください」


 私はそうことわってから客間を退出する。宿舎に戻ったところで、ふと、机の上に置かれた恋文が目に入った。


「そういえば……まだ読んではいませんでしたね……」


 私は恐る恐る封筒を開く。特に抵抗もなく封蝋は外れ、あっけなく封が開いた。


『親愛なるエリアスさまへ』


 教会の正式な書簡に使われる便箋に、柔らかい文字が踊る。


『いつも支えてくださってありがとうございます。あなたがそばにいてくれるから、私は安心して聖女として務められています』


 綴られているのは、日々の感謝。いつも食事を一緒に食べてくれること、貴族に絡まれてしまった時に助け舟を出してくれたこと、寂しい夜にそばにいてくれたこと。私にとっては、たわいのない出来事。その一つ一つに感謝が込められていた。


『最近朝晩が冷え込んできました。どうか風邪をひかないようにあったかくしてくださいね』


 結びの挨拶として用いられているのは、私に対する気遣い。


『愛を込めて カトレア』


 便箋にぽつりと雫が落ちる。遅れて自分の涙だと理解できた。

 ……ああ、自分はなんてものを捨てようとしていたのだ。この手紙は、彼女の心そのものだ。

 こんな、柔らかくて、温かくて、高潔な心を持つ方が、明日から死地に赴くことになる。自分を、助けるために。


「カトレア様が失われるなど、あってはなりません……」


 資格がどうとか、そんなことで迷っていられる状況ではなかった。何よりも、私自身が彼女を守り抜きたかった。思わず拳を握り込む。その瞬間、脳裏にカトレア様の声が響いた。


『光を司りし御方よ、御身の守護をもって、エリアスさまを守りたまえ』


 自己犠牲に傾きかけた思考を引き戻される。……彼女が祝福した私自身を、無為に扱うわけにはいかない。


「明朝、カトレア様に同行を願いでなくては。そのためにも、体調を整えましょう」


 便箋を丁寧に片付け、ベッドに横になる。深呼吸して力を抜けば、体が自然と沈み込んでいく。夢の中で、カトレア様が嬉しそうに笑っていた。





 いつも通りの朝のお祈りが終わったところで、コンコン、とドアがノックされる。


「カトレア様、エリアスです。入室してもよろしいでしょうか?」


 エリアスさまの低めの声が響く。「どうぞ」と入室を促せば、彼は「失礼します」と部屋に入ってきた。エリアスさまはそのままその場に跪く。


「カトレア様、本日はお願いがあって参りました」


 声がいつもより固い。彼の緊張がうつったのか、思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。


「なんでしょうか……?」

「中央までの道中に、護衛として同行させてください」


 エリアスさまはまっすぐ私を見上げる。そのアクアマリンには、力強い光が宿っていた。


「私にそんな資格はないかもしれません。力不足かもしれません。……それでも、私はあなたを守りたいのです」


 その言葉を聞いて、胸の奥がじんわり温かくなる。力強く見つめる彼の瞳を受け止めると、自然と口元が緩んだ。


「道中、どうかよろしくお願いします」

「もちろんです」


 彼は深く息を吸い、静かに騎士の礼をとった。声は低く、それでいて揺るがない。


「私はいかなる困難が起きようとも、持てる力の全てを以ってカトレア様をお守りし、共にあれるよう尽力することを、ここに誓います」


 七年前にしてくれた、近衛就任の誓いの儀式と同じだった。だけどその時と言葉が違う。エリアスさまが軽い気持ちでやってないことなんてすぐに分かる。だからこそ、私も聖女として、主君として答えなくてはならない。

 私は一歩前に進み、跪いたままの彼の前に立つ。


「あなたの誓い、確かに受け取りました」


 今この場に剣はない。だからこそ、代わりに彼の手を取る。


「私は決してあなたを一人にはしません。あなたが私を守ると言うのなら、私は聖女として、そして一人の女性として、あなたの傍に在り続けます」


 エリアスさまは深く首を垂れる。二人だけの誓いの儀式を、窓から差し込む朝日が、いや、光を司りし御方の光が、私たちを包み込んでいた。



 食堂で朝食を食べて(もちろんエリアスさまが同席してくれた)、身支度を整えて集合場所へと向かう。すでにエリアスさまは到着していて、中央から着いてきてくれた聖騎士さま、そして辺境伯領の聖騎士さまと話していた。


「以上がカトレア様の警護を行うときに、私が気をつけているものですね」

「見るところが多くて、やっぱ難しいな」

「ちなみに、エリアスはこれを全部見ながら、聖女様の様子をちゃんと見てるぞ」

「やっば……。エリアスお前、目がいくつあんの?」

「皆さんと同じ二つですね」


 エリアスさまはそう言いながらこちらに振り返ると傅く。すぐに他の聖騎士さまたちもそれに倣った。私は皆さんに「本日からしばらくよろしくお願いします」と微笑みかける。


「必ずや中央にお届けいたします」


 彼らの言葉に頷く。すでに配置は決まっているようで、聖騎士さまたちは馬に乗り込み始める。エリアスさまも馬に乗ろうとしたところで、中央の聖騎士さまが口を開いた。


「あ、そうだ。エリアス、お前がいるなら聖女様のエスコートは任せるな」

「……一応私は臨時の護衛、と言う立場ですよ」


 エリアスさまはそう言って呆れたように笑う。


「まあまあ、そう言うなって。リスクが高いのは降車時だ。聖女様もお前の方が安心するだろ」


 聖騎士さまの言葉を聞いて、エリアスさまはこちらに視線を向ける。私は「エリアスさまが手を引いてくださるのなら安心です」と笑った。


「承知いたしました」

「よし、決まりだな。聖女様、そろそろ向かいましょうか」

「はい。道中よろしくお願いします」


 彼に手を引かれ馬車に乗り込む。ぱかぱかと馬の蹄が響き、馬車はゆっくりと走り出した。





 馬車は街道を進む。馬車の揺れに身を任せながら、私は窓の外の風景を眺めていた。蹄の音が響き、遠くの木々がざわめく。

 エリアスさまは窓の横に配置されたようで、窓際に座っている私は彼の顔がよく見える。警戒しているのだろう、普段より凛々しい表情をしていた。彼は私の視線に気づくと、「大丈夫ですよ」とでも言うかのようににこっと微笑んでくれた。



 馬を休憩させる時間も、私は馬車から降りない。水を飲んだり、草を食べたりしている馬をぼんやりと眺めていると、エリアスさまが話しかけてきた。


「お疲れですか?」

「いえ、私は大丈夫です。エリアスさまの方が疲れていませんか?」

「鍛えてますから」


 雑談をしながらも、彼の視線は周囲に向けられている。警戒しているのだろう。

 ……動いていた視線が、ある一点で止まる。エリアスさまは「少々失礼いたします」と断ってからその場を離れた。何かを確認した彼は、そのまま中央の聖騎士さまの元へ向かう。


「……茂み……痕跡……なかった……」

「……警戒……部屋……制限……お前……」

「……何度も……臨時の……」


 エリアスさまたちは何かを話し合いしている。しばらくすると、彼はこちらに戻ってきた。


「カトレア様。申し訳ございませんが、一度宿のお部屋に入ったら、出発時まで篭っていただいてもよろしいでしょうか? お食事も、部屋の中でお願いします」

「大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。部屋の扉をノックするのは、私だけです。必ず名乗りますし、ノックのリズムも特定のものを使用します。少しでも疑いがあれば、決してドアを開けないでください」

「分かりました」


 しっかりと頷けば、エリアスさまは「ご不便をおかけして申し訳ございません」と頭を下げた。私は笑って「護衛の方たちを信頼して、ちゃんと指示を聞くのが守られる側の仕事ですから」と答えた。



 一日目、二日目と何事もなく宿場町へ到着した。だから、私は内心油断していたのかもしれない。

 明日には中央に入れると言う三日目の、最後の宿場町でそれは起こった。


 宿に入るため、エリアスさまに手を引かれて馬車を降りている時のことだった。


「聖女、覚悟!」


 荷物を受け取りに来たはずの、宿の従業員さんがいきなり襲いかかってきた。彼の手には鈍く光る大振りのナイフがある。咄嗟のことで、声を出すことすらできなかった。鈍い光が、目の前に迫る。


「っ、防護(ウォール)


 エリアスさまの腕が伸びてきて、私を急いで抱き寄せる。すぐさま目の前に結界が展開し、ナイフが弾かれた。聖騎士さまたちが従業員さんを急いで取り押さえる。


「お怪我はありませんか?」

「……はい……」


 襲われた、殺されかけた。恐怖が遅れてやってくる。腰が抜けてしまった私を支えるように、エリアスさまが抱きしめてくれる。……彼の手も、わずかに震えていた。



 すぐに別の宿が手配される。荷物を片付けたところで、最初に三回、一拍置いてから二回、扉がノックされる。事前に伝えられた、エリアスさまのリズムだ。


「カトレア様、エリアスです。食事をお持ちしました」

「今開けますね」


 部屋の鍵を開けると、「失礼します」と言う声と共にエリアスさまが入室してくる。彼は私の前に料理を置いた後、椅子に座る。でもその位置は、少しだけ扉に近かった。


「……冷めないうちにいただきましょうか」

「……そうですね」


 私は頷いて、スプーンを口に運ぶ。何だかいつもより進まない。そっとエリアスさまを盗み見ると、彼はしきりに窓や扉を確認しながらもパンを口に運んでいた。


「……食べられませんか?」

「……そうですね……。あんなことが起こったから、びっくりしちゃって。食べないともたないことは分かっているんですけど……」


 おずおずとそう伝えれば、彼は「大丈夫ですよ。ご無理はなさらず」と微笑む。そしてしばらく考えた後、「少々お待ちいただけますか?」と席を立った。一度部屋を出て戻ってきた彼の手には、ポタージュの入ったカップが握られていた。

 彼は一度カップをかき混ぜると、スープを掬って私に差し出した。

 あ、あーんだ。懐かしいな。孤児院時代、野菜を嫌がる子に食べさせるために幾度となくやったっけ。私はそう考えながら、何の躊躇いもなく口を開ける。

 ミルクで伸ばされたじゃがいものやさしい味のスープで、とっても食べやすい。


「……美味しいです」

「それは良かった。もう一口召し上がりますか?」


 何も言わずに口を開けると、エリアスさまはもう一口食べさせてくれる。私は彼に甘えて、ポタージュを全部食べさせてもらった。いつの間にか、胸の奥のざわめきが少しだけ静まっていることに気づく。


「落ち着かれたようですね」

「はい」


 彼の言葉に笑顔で答える。ふと、エリアスさまは大丈夫だろうかと視線を向けた。彼はしきりに扉や窓に視線を向けている。……昨日は、こんなに警戒してたっけ……?


「エリアスさま……?」

「大丈夫です。明日には中央に到着します。中央教会に着けば、もう仕掛けてくることはないでしょう」


 彼はそう言って微笑む。そして「そろそろ哨戒に戻りますね」と言って立ち上がった。私は彼の背中に呼びかける。


「エリアスさま」

「はい、どうかいたしましたか?」

「あまりご無理をしないでいただけると、嬉しいです。心配になりますから」

「もちろんです。あなたを悲しませるのは、本意ではありませんから」


 エリアスさまは微笑んだのちに部屋を後にする。静まり返った部屋で、私はなぜか、先ほどまで感じていた不安とは別の胸騒ぎを振り払えずにいた。





 湯浴みも終わり、寝巻きに着替えたあとのこと。気がつけば、月が随分と高い位置にいた。思わずあくびが漏れる。そろそろ眠ろうかな、と呟いた時だった。

 部屋のドアが、ためらうように三回、そして一拍置いて二回ノックされる。


「カトレア様、エリアスです」


 間違いない。エリアスさまだ。何か緊張しているんだろうか、声のトーンがいつもより低い。


「今開けますね」


 扉のロックを解除する。彼はしばらく逡巡したのちに「……失礼します」と入室した。


「何かありましたか?」

「……いえ……。何かがある、というわけではないのですが……」


 エリアスさまはそう言ったきり、視線をうろうろと彷徨わせる。私は彼をソファに座らせて、エリアスさまの言葉を待つ。彼は目を伏せ、やがてゆっくりと口を開いた。


「……あの。おかしなことを……申し上げても……?」

「おかしなこと?」


 こてん、と首を傾げる。


「……甘えて……くれませんか……?」

「甘えて……?」

「……はい。……気持ちが、落ち着かなくて……」


 彼は拳をそっと握り込む。……よくわからないけれど、今彼は弱みを見せてくれている。だったら、彼のお願いを聞きたい。


「……じゃあ、ぎゅーってしてください」

「もちろんです」


 手を広げて迎え入れれば、エリアスさまは私をそっと抱きしめてくれる。まるで、私の存在を確かめるかのように。彼の背中に腕を伸ばせば、エリアスさまの肩から力が抜けた。


「……カトレア様」

「はい、ここにいますよ」


 そう答えれば、抱きしめる力が強くなる。上からぽつりと「良かった……」という声が響いた。


「……あなたが、ここにいる……」

「はい。ずっとおそばにいますよ」


 エリアスさまは私の肩にそっと頭を預ける。固かった体がゆっくりと綻び、少しずつ、本当に少しずつ私に預けられていく。


「……もう少し……このままで……」

「もちろんです」


 笑いをこぼしながら答えれば、彼は安心したかのように息を吐いた。体温が溶け合っていく。あったかくて、気持ちよくて、私はだんだんと眠くなってくる。


「……眠い、ですか?」

「……ちょっとだけ、です……」


 うとうととまどろみながら、言葉を紡ぐ。


「でも……もったいない気もして……」


 正直にそう零せば、「……このまま、共に眠りますか?」なんて魅力的なお誘いが返ってくる。


「……すてき……ですね……」

「……では、ベッドに……」


 そのまま二人でベッドに横になる。私はエリアスさまに体を預けて、彼は私に体を預けて。二人で体温を分け合っていれば、簡単に瞼が下がっていく。


「……おやすみなさいませ」

「……おやすみ……なさい……」


 どちらからということもなく挨拶を交わし、私たちは眠りへと落ちていった。



 ふわりと頭や頬を撫でられる感覚がして、私は目を覚ました。目を開くと、朝の空のような柔らかさを湛えた瞳が見える。


「おはようございます。起こしてしまいましたか?」

「いつも起きる時間なので大丈夫ですよ」


 私はエリアスさまにそう答えて体を起こす。起きたばかりなのに寝ぼけていない彼はちょっと新鮮かもしれない。


「……寝ぼけて、いないんですね」

「確かに、過度な緊張が解けた後は寝ぼけやすいとは自覚しておりますが、そう毎日寝ぼけるわけではございませんので……。ご期待に添えず、申し訳ございません」

「あ、あの、そういう意味じゃなくて……」


 いや、確かに寝ぼけてるエリアスさまはちょっと可愛いけど、でもそうじゃなくて……。慌てて弁明すると、彼は「ただの軽口です」と笑う。


「朝食をもらってきます。ちょうど、お祈りが終わる頃に戻ってきますね」

「は、はい!」


 彼はくすくすと笑って部屋を後にする。私は急いで身支度を整え、朝のお祈りを始めた。





 宿場町を出発し馬車に揺られる。日が真上に登った頃、中央教会の尖塔が見えてきた。その奥には、王城が見える。城門を通り越し、馬車はついに中央教会の前で止まった。

 ……無事に、ついた。エリアスさまに手を引かれて馬車を降りると、大司教さまが出迎えてくれる。


「ご無事で何よりです。すぐにお召し替えを。儀式を執り行いましょう」

「はい」


 自室に戻って、聖女のドレスに着替える。聖騎士さまと共に、預言の儀を行う特別な聖堂……啓示の間へと向かう。



 啓示の間には大司教さま、預言の記録を行う書記係の神父さま、国王さまや王太子さまを始めとした王家の皆さま、教会の幹部の方々、国の中枢を担う貴族の皆さまが勢揃いしていた。中央教会所属の聖職者さまや聖騎士さま、護衛として随行してくださった辺境伯領の聖騎士さまの姿もある。

 私が入室した瞬間、彼らは一斉に跪いて首を垂れた。私は入り口から奥の祭壇へ向かう。静寂が支配する中、こつ、こつという私の足音だけが響く。ゆらゆらと虹がゆらめく祭壇に登り、私は信徒たちがいる方を向いた。

 預言の儀は、私が主の言葉を受け取る儀式じゃない。神の娘である()が、信徒たちに預言を授ける儀式だ。

 私の準備が整ったのを合図に、大司教さまが祭壇の前へと進み出る。彼は私の前で祈るように跪いた。


「光を司りし御方の娘たる、聖女カトレア様。どうか、我ら迷える子らにお言葉を、進むべき道筋をお授けください」


 私は一度人々を見回す。聖堂の端に、エリアスさまの姿も見えた。彼の姿が見えた途端、肩から余分な力が抜ける。私はゆっくりと口を開いた。


「聖騎士エリアスが外交文書を持ち出したとする報告。それは、光の下に置いてなお、真実と呼べるものでしょうか」


 信徒たちは静寂を保つ。当たり前だ。私が預言をしている間は、たとえ国王であろうとも口を挟むことは許されない。


「あなた方の中に、虚言を持って善良なるものを貶めたものは、本当におりませんか」


 聖堂内には独特の緊張が走る。誰一人として首をあげない。いや、あげてはならない。


「光を司りし御方の光は、偽りを正し、全ての善良なるものへあまねく降り注ぐでしょう」


 私はそう言って、大司教様に「預言は終わった」と合図を出す。


「聖女カトレア様のお言葉、確かに承りました。光のお導きを我らの道標といたします」


 彼はそう言うと、横に下がって道を開ける。私は背筋を伸ばしたまま祭壇を降り、信徒たちの視線を背に受けながら聖堂を出ていく。聖堂の扉が閉められるまで、人々は跪いたままだった。



 扉が閉められた瞬間、やり切ったという安堵から力が抜けてしまう。そのまま入り口にへたり込んでしまった。


「カトレア様!」


 すぐにエリアスさまが駆けつけてくれる。「大丈夫です。ちょっと力が抜けただけです」と微笑むと、彼は心配そうな顔で「……それならよろしいのですが……」と言った。


「とりあえず、ベンチに移動しましょう。立てますか?」

「……ちょっと、厳しいかもです……」


 私がそう言うと、彼は「承知しました」と頷いて抱き上げてくれる。そのまま近くのベンチに座らせてもらった。彼はそのままその場に跪く。


「カトレア様、まずはお礼を言わせてください」


 エリアスさまは少し顔を上げ、真剣な瞳で私を見つめる。


「何も言わずにあなたのそばを離れてしまった私を追いかけて、辺境の地まで来てくださったこと。一人で全てを抱え込んでしまった私を救ってくださったこと。自己否定に押しつぶされていた私に何も言わず、そばにいてくださったこと。そして、命を賭してまで中央に戻り、声を上げてくださったこと。全てに、深い感謝を。ありがとうございます」


 彼は深く頭を下げる。私はにっこりと笑って「顔を上げてください。エリアスさまには、ずっと支えられてきましたから。今度は私の番です」と答えた。


「……それに、これからも、いっぱい頼っちゃいますから。だからエリアスさまも、どんどん頼ってくださいね」

「もちろんです。これからも、ずっとおそばに」

「はい!」


 胸がぽかぽかとして、思わずくすくすと笑い声を漏らす。エリアスさまもふわりとほころんだ花のような笑顔を浮かべていた。

 そうして二人で笑い合っていると、辺境伯領の聖騎士さまが「あの〜……」と声をかけてくる。


「幸せそうな恋人を引き裂くのは本当に申し訳ないのですけど……、エリアスは明日には辺境伯領に帰る手筈ですよ」


 ……そうだった。完全に忘れていた。エリアスさまも同じだったようで、「……失念しておりました」と頭をかく。


「……えっと、その……。あ、手紙……。毎日手紙を書きます。だから、その……。お返事を書いてくださると、すごく嬉しいのですけど……」

「はい。もちろんです。カトレア様からの手紙を励みに、向こうでも精進して参ります」


 おずおずとそうお願いすれば、彼は春の空のような笑みで答えてくれた。


「それでしたら、通常郵便ではなく、速達魔法を使った方がいいのでは?」


 茶目っ気のある声が聞こえてきて、思わずそちらを振り返る。そこに立っていたのは、王太子さまだった。


「兄上、何か御用ですか?」

「いーや? 儀式が終わった瞬間に、弟が飛び出したのが気になってね」


 彼はそう言って軽く笑う。私は思わず「速達魔法……?」と首を傾げた。


「手紙を鳥の形にして飛ばす魔法ですね。辺境伯領と中央でしたら、半日もあれば届くと思いますよ」


 そんな魔法が……、と驚いたところで思い出す。辺境伯さまにクッキーをお渡ししたときに、鳥の羽ばたく音がしたことを。

 ……多分、これは口に出しちゃいけないことなんだろうな。そう考えた私は、曖昧に微笑んでおく。


「と、いうことで。エリアス、教えるから明日までに覚えろ」

「お待ちください。流石に無茶です」

「冗談だって。話を通しておくから、辺境伯に教えてもらえ」


 王太子さまは軽い調子で「聖女さまの分は私が送りましょう」と笑う。


「そんな、ご迷惑では?」

「魔法は使わないと忘れてしまいますから。ちょうどいい修練の機会になります」


 あえて軽い調子で笑っているのだろう、彼の瞳に柔らかい色がのる。私は深く頭を下げて「ありがとうございます」とお礼を言った。





 エリアスさまが辺境伯領に向けて出発した日から、私は毎晩エリアスさまへの手紙を書いた。四日目以降はエリアスさまからの返事が届くようになった。

 一日の終わりに、彼からの手紙を読む。そしてそのお返事を書く。寝る前のちょっとした時間が、毎日の楽しみになった。私は今日も自室でエリアスさまからの手紙を読む。


『拝啓 カトレア様

 近頃は寒くなって参りましたが、いかがお過ごしでしょうか?


 辺境伯領では雪がちらつき始めております。カトレア様は雪をご覧になったことはございますでしょうか? 外は冷え込みますが、雪の結晶が日の光を受けて輝くさまはなんとも言い表せぬほど美しいものです。


 まだまだ寒さも厳しくなってまいります。どうかお身体には十分お気をつけください。

 敬具 エリアス


 追伸 今回初めて自分で速達魔法を使用いたしました。無事に届いていれば幸いです』


 彼らしい言葉で綴られた、たわいもない手紙。胸がぽかぽかと温まる。便箋を大事に封筒に戻して、きれいな箱にしまう。その後、私は便箋を一枚取り出した。


『親愛なるエリアスさまへ

 

 輝く雪、とても素敵ですね。実は、雪は絵本でしか読んだことがなくて。いつかあなたと一緒に見られたら、なんて思います。

 こちらでは、星がよく見えます。キラキラと瞬く星を見ていると、あなたの上にも同じ星が瞬いているような気がします。

 お忙しいとは思いますが、どうか夜空を見上げる余裕を少しでも持ってくだされば嬉しいです。


 愛を込めて カトレア


 追伸 お手紙、無事に届きました。それでは、またお手紙で』


 羽ペンを置き、便箋を封筒にしまう。丁寧に封蝋を押して封筒を閉じた。明日の朝に王太子さまの元へ届けて貰えば、夜にはエリアスさまの元へ届くはずだ。

 窓の外を見る。夜の空は澄んでいて、星たちが輝いている。私は手を組んで静かに祈った。


「主よ、エリアスさまの穏やかな日々を、どうかお守りください」


 その瞬間、星が一雫流れた。どうか、あの星の光もエリアスさまのもとに届きますように。





 教会幹部の方が変わったり、風の噂で一部の貴族さまが取り潰しになったと聞いたりと、色々あったけども日々は穏やかに過ぎていく。そうして、エリアスさまが罷免されてから一ヶ月くらいが経った頃だった。


「聖女様、大切なお話がございます。私の執務室にいらっしゃってください」


 朝食ののち、そう声をかけられる。なんだろうと首を傾げながらも、彼についていった。


「大司教さま、お話とは一体なんでしょうか?」

「まずはお座りください」


 彼は木漏れ日のような柔らかい笑みを浮かべてソファを勧める。言う通りに座ったところで、大司教さまはゆっくりと口を開いた。


「ここ一ヶ月ほど聖女さまの近衛は、教会の聖騎士たちが交代で務めておりました。ですが、本日より以前と同様に固定いたします。……入ってきなさい」

「失礼します」


 低めで、柔らかさのある声がした。姿を現したのは、近衛の制服を着たエリアスさまだった。その姿を認めた途端、私は立ち上がって彼に飛びつく。


「エリアスさま!」


 彼は私をそっと受け止めて、陽だまりのような笑顔を浮かべた。


「ただいま戻りました」


 外の光が窓から差し込み、聖堂の鐘が遠くで響く。いつもの日常が、ようやくここに戻ってきた。

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次作はこちら(R-18)→https://novel18.syosetu.com/n4341ml/

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