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断罪が五年前に終わっていたので今さら何をすればいいかわかりません  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第9話 お前が誰であっても


 王前会議の大扉が開く音は、五年前の断罪の日と同じだったらしい。


 ──私は、覚えていないけれど。


 前の魂のエレノーラの記憶は、断罪の瞬間だけが不自然に薄い。広間に引き出されたこと。大勢の貴族の前で婚約破棄を言い渡されたこと。膝をついたこと。それだけが断片的に残っていて、音や匂いや温度は消えている。


 人間の記憶は、耐えられないものを消す。


 だから今日、この大扉の前に立った時、体が覚えていたのは恐怖ではなかった。ただ膝が少しだけ冷たくて、石の床に触れた時の硬さを、この体の骨が記憶していた。


 「──入りましょう」


 隣でルシアンが言った。声は落ち着いていた。上申者として列席する権利を持つ弟。二十一歳の青年の横顔に、迷いはない。


 反対側にカイルがいた。何も言わない。ただ、いつもの位置──私の左斜め後ろに、影のように。


 大扉をくぐった。



 王前会議の間は、高い天井と石柱で構成された厳粛な空間だった。


 正面の玉座にアルベルト国王陛下。五十代の、公正だが慎重と評される人物。隣に王妃マルグリット殿下。その左右に宰相、学術院長ヘルムート、神殿長。長い卓の両側に主要貴族たちが並んでいる。


 セドリック第二王子殿下は、卓の左側にいた。金色の髪。青い目。二十七歳。五年前と同じ整った顔が、今日は微かに強張っている。


 リゼットはその後方。白いドレス。胸元の星神教の紋章。聖女の席次で列席している。


 (……全員、揃っている)


 息を吸った。吐いた。修復作業の前にやるのと同じ呼吸だ。手を安定させるための。


 ルシアンが卓の前に進み出た。


 「上申者、ルシアン・フォン・アッシェンバッハ。五年前に執行されたアッシェンバッハ公爵家への断罪処分について、手続き不備と不正の証拠を提出いたします」


 声が広間に響いた。


 セドリック殿下の眉が動いた。



 ルシアンの論証は、正確だった。


 「断罪時の裁判記録をご覧ください。証人尋問の記録にはリゼット・エーデルシュタインの証言のみが記載されておりますが、尋問官の署名がありません。立会貴族二名の確認印も不在です」


 書類を広げる手つきに震えはない。五年間、法律事務の書記官見習いとして働きながら、一枚ずつ集めた書類。その一枚一枚を、弟は淡々と読み上げた。


 「さらに、正式な貴族裁判に必要な王立学術院の魔法鑑定が省略されています。筆跡の魔力痕鑑定は断罪の妥当性を検証する根幹であり、これが欠落しているということは──手続きとして不完全です」


 広間にざわめきが走った。


 五年前の断罪は「正義の王子が悪役令嬢を裁いた」物語として、社交界に定着していた。その物語の台本に、穴があった。


 「続けて、物的証拠を提出します」


 ルシアンが帳簿を卓の上に置いた。あの革張りの綴じ帳。辺境の図書館で、蔵書の奥から見つけたもの。


 「この帳簿は、断罪後にアッシェンバッハ公爵家の資産が王室名義で移転された記録です。最終ページに署名と王室印があります。──魔法鑑定の結果を、学術院長にお願いいたします」


 ヘルムート院長が立ち上がった。分厚い鑑定書を手に。


 「鑑定は宮廷魔導師カイル・ヴェーバーが執行し、当院が公式に発行いたしました」


 鑑定書を開く。


 「帳簿最終ページの署名に含まれる魔力痕は、セドリック・フォン・クレスティア第二王子殿下のものと一致いたします。鑑定の精度は九九・七パーセント。魔力痕の偽造は現存する技術では不可能です」


 静寂。


 数秒。長い数秒。


 それから──セドリック殿下が口を開いた。


 「その帳簿の出所は信頼できるのか。辺境の図書館の蔵書に紛れていた──都合よく出てきたものではないか」


 声は平静だった。弁舌に長けた王子らしい、冷静な切り返し。


 「帳簿の紙の経年劣化は五年以上と鑑定されております。インクの成分も当時の王室書記官室で使用されていたものと一致。捏造の痕跡はありません」


 ヘルムート院長の返答も淡々としていた。


 セドリック殿下の指が、卓の縁を掴んだ。


 「──あの断罪は正当だった。エレノーラ・フォン・アッシェンバッハは聖女に対する嫌がらせを行い、証拠は当時の——」


 「その証拠の精査が省略されていたことを、先ほどルシアン殿が論証されました」


 宰相が静かに口を挟んだ。


 殿下の弁明が続いた。長くなった。


 正義感の強い王子。英雄としての自分。五年前に正しいことをした自分。──そのセルフイメージが、殿下を止められなくしていた。弁明すればするほど、帳簿の数字との矛盾が広がる。資産の移転時期。金額の不一致。流用先の外交費目。


 (……自分で墓穴を掘っている)


 私は何も言わなかった。言う必要がなかった。証拠が語っている。数字が語っている。署名が語っている。


 「──リゼット」


 セドリック殿下がリゼットを振り返った。


 「お前からも言え。あの時の証言が正しかったと」


 リゼットの顔が、一瞬だけ変わった。


 涙。


 また涙だ。でも──今度の涙は、学術サロンの時とも、深夜の廊下の時とも違った。


 「私は……王子殿下に頼まれて、証言しただけです」


 広間が凍った。


 「本当のことを言えば罰を受けると……脅されて……」


 リゼットの声が震えている。肩も揺れている。完璧な被害者の姿。


 でも。


 今この場で「被害者」を演じる相手は、五年前のように顔も名前もない令嬢ではない。隣に立つセドリック第二王子殿下だ。


 (……蛇口を閉めるんじゃなくて、蛇口の向きを変えた)


 涙の使い方が変わっただけだった。武器は同じ。標的が変わった。五年前は私に向けられた涙が、今度はセドリック殿下に向けられている。


 共犯者の裏切り。


 殿下の顔から血の気が引くのが、離れた位置からでもわかった。


 「リゼット、お前──」


 「静粛に」


 国王陛下の声が、広間を切った。低く、重く。初めて聞く声だった。


 「証拠と証言を確認した。裁定を下す」


 静寂。


 「セドリック第二王子。外交権限を剥奪し、王位継承順位を降格する。資産流用については詳細調査を命じる」


 「リゼット・エーデルシュタイン。偽証の疑いにより、聖女の称号について神殿に再審査を委託する」


 「アッシェンバッハ公爵家。名誉回復と資産返還の手続きを開始する」


 一つずつ。短く。正確に。


 国王陛下が私を見た。


 「エレノーラ殿。申し述べることはあるか」


 広間の視線が集まった。


 五年前、この場所で膝をついた体。今は立っている。


 「……陛下」


 声が出た。震えていなかった。


 「私は、古文書を修復しただけです。その過程で見つかった事実を、弟と共にお伝えしました。──申し述べることは、それだけです」


 嘲笑しない。恨み言も言わない。


 言う必要がない。


 私は本を直しに来ただけだ。本を直していたら、真実が紙の奥から出てきた。それだけのこと。


 深く頭を下げた。


 顔を上げた時、ルシアンが隣で小さく息を吐くのが聞こえた。五年分の息だった。



 夜。王宮の書庫。


 蝋燭を一本だけ灯して、作業台の前に座っていた。修復道具は片付けてある。今日はもう作業をする気力がなかった。手がまだ少し震えている。王前会議の緊張が、遅れて体に来ていた。


 扉が開いた。


 カイルだった。外套を脱いで、椅子の背にかけている。いつもの動作。いつもの場所に座る。


 しばらく、何も言わなかった。


 蝋燭の炎が揺れて、カイルの横顔に影を作っている。銀色の目が、作業台の上──修繕メモの第一集が置いてある場所を見ていた。辺境の図書館から持ってきた、最初の一冊。


 「エレノーラ」


 「……はい」


 「修繕メモの中に、この世界の技法と異なる体系がある。辺境の図書館で初めて読んだ時から、気づいていた」


 心臓が跳ねた。


 図書館で。あの時から。


 「お前の知識は──どこから来た」


 答えに窮した。嘘をつくことはできる。独学です。偶然です。そう言えば、カイルはそれ以上追及しないだろう。この人は嘘をつくくらいなら黙る人だけど、他人の嘘を暴くことにも興味がない。


 でも。


 「……答えられないか」


 カイルの声に責めはなかった。


 「答えなくていい」


 え、と顔を上げた。


 カイルが私を見ていた。正面から。蝋燭の橙色の光が、銀色の目に映っている。


 「お前が誰であっても」


 低い声。いつもの平坦さではなかった。一つ一つの音を、紙の繊維を扱うように丁寧に置いている。


 「エレノーラであっても、そうでなくても」


 呼吸を忘れた。


 「俺が五年かけて読んだのは、お前の言葉だ」


 五年。


 三ヶ月の常連ではなく。辺境の図書館で修繕メモの棚に通い始めてからの、五年ではなく。──修繕メモが最初に書架に並んだ日から、五年。


 (この人は、ずっと──)


 涙が出た。


 止められなかった。五年前にこの体から全てを奪われた理不尽でも、弟の奮闘を知った時の安堵でもなく、もっと──名前のつけられない何か。修繕メモの行間に込めた、前世の知識と今世の試行錯誤と、蝋燭を三本使い切った夜の全部を、この人が読んでいた。読み続けていた。


 「……っ」


 声にならなかった。


 カイルの手が伸びた。大きな掌が、私の手を──修復用の刷毛を何千回と握ってきた、傷だらけの手を、そっと包んだ。両手で。


 温かかった。古紙の匂いと、微かな魔力の残り香。


 「泣くな」


 「無理です」


 「……そうか」


 そのまま、しばらく。


 蝋燭の灯りが揺れて、二つの影が作業台の上で重なっていた。


 涙が止まった後、私は言った。


 「……返却期限を、守ってください」


 何の話かわからない台詞だった。でもカイルには伝わった。


 辺境の図書館で、二週間遅れの本を抱えてやってきた常連。「善処する」と言って、結局いつも遅れた。あの日々の続きを、これからも。


 カイルの口元が──初めて、はっきりと動いた。笑ったのだと思う。笑顔というには淡すぎたけれど、あの無表情の人間の形をした壁に、亀裂が入ったような。


 「……ああ」


 短い。


 でも、それだけで十分だった。

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― 新着の感想 ―
弟さんが継げる爵位が戻ったって意味だよね?良かった
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