第8話 この体は、私のものではない
この体は、私のものではない。
──ずっと、頭の隅にあった。古文書の繊維に触れるたびに、刷毛を握るたびに、この指は佐々木志保のものなのかエレノーラのものなのか、わからなくなる。
前世の記憶が戻ってから、もう何ヶ月も経つ。図書館の日常も、王宮の書庫も、修復作業に没頭している間は忘れていられた。でも夜、宿舎のベッドに横になると、いつも同じ問いが浮かぶ。
私は誰なのか。
今朝もそれを考えながら作業室に向かった。考えても答えは出ない。出ないけれど、手は動く。修復の手順は前世でも今世でも一つしかない。紙を壊さない力加減。糊の配合。繊維の方向。
だから今日も、手を動かす。
◇
「──見えた」
カイルの声が、書庫の静寂を破った。
作業台の上に広げた三百年前の魔法書。二週間かけて修復した最後の断片が、ようやくインクの判読可能な状態まで戻った。
ページの中央に、完全な魔法陣。
辺境の図書館で見つけた断片とは比べものにならない──体系の全容だ。円と直線の組み合わせが幾重にも重なり、余白には微細な文字で術式の手順が記されている。
「大魔法災害の原因となった上位魔法の術式。そして──それを封じるための対抗魔法」
カイルの銀色の目が、魔法陣の上を走っている。学者の目。いつもより饒舌だった。この人が言葉を惜しまないのは、学術の話をしている時だけだ。
「三百年間、誰も読めなかった。紙が劣化しすぎていて、通常の修復では原文が復元できなかったからだ」
「リン布紙の繊維層が二重になっていたんです。表層だけ修復しても、裏層のインクは浮かび上がらない。裏打ちの前に繊維を一層ずつ分離して──」
また口が止まらなくなっている。
(……学術オタクの早口、また出た)
でもカイルは黙って聞いていた。聞くだけじゃない。時折「繊維分離の温度管理は」「接着剤の浸透速度は」と、的確な質問を挟んでくる。この人は魔法の専門家であって修復師ではないのに、私の技術を正しく理解しようとする。
それが──嬉しかった。
辺境の図書館で五年間、一人で書き溜めた修繕メモ。前世の知識と異世界の素材を突き合わせて、何度も失敗して、蝋燭を何本も使い切って。
その全部が、この一枚の魔法陣を読むために必要だった。
「……エレノーラ」
カイルが顔を上げた。
「これで、復元プロジェクトの核心は揃った」
短い。でも、その一言の中に「お前の技術がなければ不可能だった」という意味が含まれていることは、もう知っている。この人は「悪くない」が最上級の賛辞で、具体的な評価は事実の羅列でしか語らない。
「ありがとうございます」
「俺は何もしていない」
(いや、質問してくれただけで十分なんですけど)
言わなかった。言ったら多分、カイルは黙るから。
◇
昼過ぎ。学術院棟の廊下を歩いていた時、聞こえてはいけない声が聞こえた。
学術院長の執務室の前。重い樫の扉の向こうから、二つの声。
「──この研究成果は国家事業だ。王室が主導するのが当然だろう」
セドリック殿下の声だった。よく通る、弁舌に長けた声。五年前と変わらない。劇場の主役が台本を読み上げるような、説得力のある響き。
「第二王子殿下。お言葉ですが」
学術院長ヘルムートの声は穏やかだった。でも、穏やかさの質が違う。修復したばかりの革表紙のようだった。柔らかく見えて、芯がある。
「研究成果の帰属は学術院規約に定められております。外部からの──王族を含む外部からの──帰属変更は、規約上認められておりません」
「院長。私は学問を軽視しているわけではない。ただ、この成果を外交カードとして活用する権限は王室にある」
「外交への活用と、帰属の変更は別問題です。成果は学術院のものであり、研究者──エレノーラ殿の功績です。これを王室の功績として発表することは、学術の信頼性を損ないます」
足が止まった。
(……聞いてしまった)
盗み聞きをするつもりはなかった。でも、足音を立てて立ち去ればかえって目立つ。息を殺して壁際に立つ。
「院長、考え直していただきたい」
「殿下こそ、ご再考を。学術は王権の道具ではありません」
静かだった。
怒鳴り合いではない。声を荒げてもいない。でも、学術院長の言葉の一つ一つが、楔のように正確だった。制度という名の壁。規約という名の盾。感情では動かせない。
扉の向こうで、沈黙が落ちた。
足音。重い靴音が近づいてくる。
私は壁際から離れ、何食わぬ顔で廊下を歩き出した。すれ違いざまに見えたセドリック殿下の横顔は、整った造形の中に──苛立ちが、薄く滲んでいた。
(……焦っている?)
五年前に断罪を言い渡した時の、あの余裕のある顔ではなかった。
殿下は私に気づかなかった。あるいは、気づいても視界に入れなかったのかもしれない。どちらでもいい。私は本を直しに来ただけだ。
◇
夜の作業室。
カイルが帳簿を作業台の中央に置いた。辺境の図書館で見つけた、あの革張りの綴じ帳。王室印と署名のある、資産移転の記録。
「鑑定が終わった」
「……結果は」
「署名の魔力痕は、セドリック・フォン・クレスティアのものと一致した」
本物。
呼吸が浅くなった。わかっていた。わかっていたけれど、確定するのと疑いの段階では重さが違う。
「この帳簿の内容は、公爵家の資産が断罪後に王室名義で移転された記録だ。署名は第二王子殿下のもの。──これで、五年前の断罪の裏に資産流用があったことの物的証拠が揃った」
カイルの声は平坦だった。鑑定官としての報告。感情を排した、事実の羅列。
でも──帳簿を私に渡す時、カイルの指先が一瞬、帳簿の表紙に触れたまま止まった。手放すのを躊躇うように。いや、違う。手放した後の私の反応を、見極めようとしているような。
「……ありがとうございます。カイルさん」
帳簿を受け取った。革の表紙は冷たかった。五年分の重さがある。弟が集めた書類と、この帳簿。二つが揃って、初めて──。
「エレノーラ」
「はい」
「この証拠をどうするかは、お前が決めることだ」
知っている。ルシアンが王前会議に上申している。帳簿はその証拠になる。全ては法と手続きで動く。
「ルシアンに渡します。王前会議で提出するために」
「……ああ」
短い沈黙。
それから、私は──言ってしまった。
「名誉回復の手続きが済んだら、辺境の図書館に帰ります」
カイルの手が止まった。
魔力痕の鑑定器具を片付けていた手が、道具を持ったまま動かなくなった。
「辺境の修復作業はまだ山ほど残っています。図書館の蔵書は半分も手をつけていないし、マルタ一人では──」
「……辺境に」
カイルの声が低かった。いつもの平坦さとは違う。何かを飲み込んだような、喉の奥で詰まったような音。
「帰るのか」
「はい。ここでの仕事が終わったら」
「──辺境に帰るなら、俺も──」
途切れた。
カイルが口を閉じた。銀色の目が、一瞬だけ私を見て──それから作業台の上に落ちた。帳簿の横に置かれた鑑定器具。古い金属の道具が、魔法灯の光を鈍く反射している。
俺も。
その先は?
訊けなかった。カイルの横顔が、訊くなと言っていた。いや、言っていないのかもしれない。ただ黙っていただけかもしれない。でも、あの途切れ方は──研究の話をする時のカイルではなかった。
(……何を言いかけたの)
「──片付けよう」
カイルが立ち上がった。いつも通りの声に戻っていた。平坦で、低くて、感情が読めない。
何事もなかったかのように道具を棚に戻し、外套を手に取る。
「おやすみ」
扉が閉まった。
作業室に一人。
帳簿が手の中にある。証拠は揃った。弟の五年間と、私の五年間が、この革表紙の中で重なっている。
なのに。
胸の中にあるのは、達成感ではなかった。
(この体は、私のものではない)
名誉が回復されるのは「エレノーラ・フォン・アッシェンバッハ」だ。公爵令嬢としての名前と家名。それは前の魂のエレノーラのもので──中身が佐々木志保である私のものではない。
公爵令嬢として生きる権利が、私にあるのか。
カイルが見ているのは「エレノーラ」だ。修繕メモを書いた司書。古文書を直す手。その全部が──前世の佐々木志保の知識と、今世のエレノーラの体の、どちらに属するものなのか。
(……わからない。わからないのに、あの人の「俺も」が、ずっと耳に残ってる)
答えが出ないまま、蝋燭が一本、燃え尽きた。
◇
翌朝。宿舎のテーブルに手紙があった。
ルシアンの筆跡。今度は少しだけ、字が走っている。
──姉さん。上申が受理された。王前会議の議題として正式に登録された。開催は早ければ二週間後。帳簿の原本が必要になる。送ってほしい。
便箋を持つ指に力が入った。
二週間。
五年前、この体から全てを奪った場所で──全てが、もう一度審議される。
窓の外に、白い塔が見えた。王宮の尖塔。朝の光を受けて、五年前と同じように聳えている。
あの塔の下で、扉が開く。
五年前に閉じた扉が──今度は、証拠と法と手続きを携えて。




