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断罪が五年前に終わっていたので今さら何をすればいいかわかりません  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第8話 この体は、私のものではない


 この体は、私のものではない。


 ──ずっと、頭の隅にあった。古文書の繊維に触れるたびに、刷毛を握るたびに、この指は佐々木志保のものなのかエレノーラのものなのか、わからなくなる。


 前世の記憶が戻ってから、もう何ヶ月も経つ。図書館の日常も、王宮の書庫も、修復作業に没頭している間は忘れていられた。でも夜、宿舎のベッドに横になると、いつも同じ問いが浮かぶ。


 私は誰なのか。


 今朝もそれを考えながら作業室に向かった。考えても答えは出ない。出ないけれど、手は動く。修復の手順は前世でも今世でも一つしかない。紙を壊さない力加減。糊の配合。繊維の方向。


 だから今日も、手を動かす。



 「──見えた」


 カイルの声が、書庫の静寂を破った。


 作業台の上に広げた三百年前の魔法書。二週間かけて修復した最後の断片が、ようやくインクの判読可能な状態まで戻った。


 ページの中央に、完全な魔法陣。


 辺境の図書館で見つけた断片とは比べものにならない──体系の全容だ。円と直線の組み合わせが幾重にも重なり、余白には微細な文字で術式の手順が記されている。


 「大魔法災害の原因となった上位魔法の術式。そして──それを封じるための対抗魔法」


 カイルの銀色の目が、魔法陣の上を走っている。学者の目。いつもより饒舌だった。この人が言葉を惜しまないのは、学術の話をしている時だけだ。


 「三百年間、誰も読めなかった。紙が劣化しすぎていて、通常の修復では原文が復元できなかったからだ」


 「リン布紙の繊維層が二重になっていたんです。表層だけ修復しても、裏層のインクは浮かび上がらない。裏打ちの前に繊維を一層ずつ分離して──」


 また口が止まらなくなっている。


 (……学術オタクの早口、また出た)


 でもカイルは黙って聞いていた。聞くだけじゃない。時折「繊維分離の温度管理は」「接着剤の浸透速度は」と、的確な質問を挟んでくる。この人は魔法の専門家であって修復師ではないのに、私の技術を正しく理解しようとする。


 それが──嬉しかった。


 辺境の図書館で五年間、一人で書き溜めた修繕メモ。前世の知識と異世界の素材を突き合わせて、何度も失敗して、蝋燭を何本も使い切って。


 その全部が、この一枚の魔法陣を読むために必要だった。


 「……エレノーラ」


 カイルが顔を上げた。


 「これで、復元プロジェクトの核心は揃った」


 短い。でも、その一言の中に「お前の技術がなければ不可能だった」という意味が含まれていることは、もう知っている。この人は「悪くない」が最上級の賛辞で、具体的な評価は事実の羅列でしか語らない。


 「ありがとうございます」


 「俺は何もしていない」


 (いや、質問してくれただけで十分なんですけど)


 言わなかった。言ったら多分、カイルは黙るから。



 昼過ぎ。学術院棟の廊下を歩いていた時、聞こえてはいけない声が聞こえた。


 学術院長の執務室の前。重い樫の扉の向こうから、二つの声。


 「──この研究成果は国家事業だ。王室が主導するのが当然だろう」


 セドリック殿下の声だった。よく通る、弁舌に長けた声。五年前と変わらない。劇場の主役が台本を読み上げるような、説得力のある響き。


 「第二王子殿下。お言葉ですが」


 学術院長ヘルムートの声は穏やかだった。でも、穏やかさの質が違う。修復したばかりの革表紙のようだった。柔らかく見えて、芯がある。


 「研究成果の帰属は学術院規約に定められております。外部からの──王族を含む外部からの──帰属変更は、規約上認められておりません」


 「院長。私は学問を軽視しているわけではない。ただ、この成果を外交カードとして活用する権限は王室にある」


 「外交への活用と、帰属の変更は別問題です。成果は学術院のものであり、研究者──エレノーラ殿の功績です。これを王室の功績として発表することは、学術の信頼性を損ないます」


 足が止まった。


 (……聞いてしまった)


 盗み聞きをするつもりはなかった。でも、足音を立てて立ち去ればかえって目立つ。息を殺して壁際に立つ。


 「院長、考え直していただきたい」


 「殿下こそ、ご再考を。学術は王権の道具ではありません」


 静かだった。


 怒鳴り合いではない。声を荒げてもいない。でも、学術院長の言葉の一つ一つが、楔のように正確だった。制度という名の壁。規約という名の盾。感情では動かせない。


 扉の向こうで、沈黙が落ちた。


 足音。重い靴音が近づいてくる。


 私は壁際から離れ、何食わぬ顔で廊下を歩き出した。すれ違いざまに見えたセドリック殿下の横顔は、整った造形の中に──苛立ちが、薄く滲んでいた。


 (……焦っている?)


 五年前に断罪を言い渡した時の、あの余裕のある顔ではなかった。


 殿下は私に気づかなかった。あるいは、気づいても視界に入れなかったのかもしれない。どちらでもいい。私は本を直しに来ただけだ。



 夜の作業室。


 カイルが帳簿を作業台の中央に置いた。辺境の図書館で見つけた、あの革張りの綴じ帳。王室印と署名のある、資産移転の記録。


 「鑑定が終わった」


 「……結果は」


 「署名の魔力痕は、セドリック・フォン・クレスティアのものと一致した」


 本物。


 呼吸が浅くなった。わかっていた。わかっていたけれど、確定するのと疑いの段階では重さが違う。


 「この帳簿の内容は、公爵家の資産が断罪後に王室名義で移転された記録だ。署名は第二王子殿下のもの。──これで、五年前の断罪の裏に資産流用があったことの物的証拠が揃った」


 カイルの声は平坦だった。鑑定官としての報告。感情を排した、事実の羅列。


 でも──帳簿を私に渡す時、カイルの指先が一瞬、帳簿の表紙に触れたまま止まった。手放すのを躊躇うように。いや、違う。手放した後の私の反応を、見極めようとしているような。


 「……ありがとうございます。カイルさん」


 帳簿を受け取った。革の表紙は冷たかった。五年分の重さがある。弟が集めた書類と、この帳簿。二つが揃って、初めて──。


 「エレノーラ」


 「はい」


 「この証拠をどうするかは、お前が決めることだ」


 知っている。ルシアンが王前会議に上申している。帳簿はその証拠になる。全ては法と手続きで動く。


 「ルシアンに渡します。王前会議で提出するために」


 「……ああ」


 短い沈黙。


 それから、私は──言ってしまった。


 「名誉回復の手続きが済んだら、辺境の図書館に帰ります」


 カイルの手が止まった。


 魔力痕の鑑定器具を片付けていた手が、道具を持ったまま動かなくなった。


 「辺境の修復作業はまだ山ほど残っています。図書館の蔵書は半分も手をつけていないし、マルタ一人では──」


 「……辺境に」


 カイルの声が低かった。いつもの平坦さとは違う。何かを飲み込んだような、喉の奥で詰まったような音。


 「帰るのか」


 「はい。ここでの仕事が終わったら」


 「──辺境に帰るなら、俺も──」


 途切れた。


 カイルが口を閉じた。銀色の目が、一瞬だけ私を見て──それから作業台の上に落ちた。帳簿の横に置かれた鑑定器具。古い金属の道具が、魔法灯の光を鈍く反射している。


 俺も。


 その先は?


 訊けなかった。カイルの横顔が、訊くなと言っていた。いや、言っていないのかもしれない。ただ黙っていただけかもしれない。でも、あの途切れ方は──研究の話をする時のカイルではなかった。


 (……何を言いかけたの)


 「──片付けよう」


 カイルが立ち上がった。いつも通りの声に戻っていた。平坦で、低くて、感情が読めない。


 何事もなかったかのように道具を棚に戻し、外套を手に取る。


 「おやすみ」


 扉が閉まった。


 作業室に一人。


 帳簿が手の中にある。証拠は揃った。弟の五年間と、私の五年間が、この革表紙の中で重なっている。


 なのに。


 胸の中にあるのは、達成感ではなかった。


 (この体は、私のものではない)


 名誉が回復されるのは「エレノーラ・フォン・アッシェンバッハ」だ。公爵令嬢としての名前と家名。それは前の魂のエレノーラのもので──中身が佐々木志保である私のものではない。


 公爵令嬢として生きる権利が、私にあるのか。


 カイルが見ているのは「エレノーラ」だ。修繕メモを書いた司書。古文書を直す手。その全部が──前世の佐々木志保の知識と、今世のエレノーラの体の、どちらに属するものなのか。


 (……わからない。わからないのに、あの人の「俺も」が、ずっと耳に残ってる)


 答えが出ないまま、蝋燭が一本、燃え尽きた。



 翌朝。宿舎のテーブルに手紙があった。


 ルシアンの筆跡。今度は少しだけ、字が走っている。


 ──姉さん。上申が受理された。王前会議の議題として正式に登録された。開催は早ければ二週間後。帳簿の原本が必要になる。送ってほしい。


 便箋を持つ指に力が入った。


 二週間。


 五年前、この体から全てを奪った場所で──全てが、もう一度審議される。


 窓の外に、白い塔が見えた。王宮の尖塔。朝の光を受けて、五年前と同じように聳えている。


 あの塔の下で、扉が開く。


 五年前に閉じた扉が──今度は、証拠と法と手続きを携えて。

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