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断罪が五年前に終わっていたので今さら何をすればいいかわかりません  作者: 秋月 もみじ


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第7話 学術に感情を持ち込まれては


 「あの方が王宮にいると、私──怖くて、仕方がないのです……」


 声が震えていた。肩も、指先も。学術サロンの広間に集まった十数名の学者たちの前で、リゼット・エーデルシュタインは胸に手を当て、うつむいていた。


 淡い金髪が頬にかかる。大きな目に涙が浮かんでいる。白いドレスの裾を掴む指は細く、見るからに弱々しい。


 ──完璧だった。


 一週間前、深夜の廊下で見た涙よりも、さらに洗練されている。聴衆がいる。照明がある。タイミングがある。カップの縁からこぼれる寸前で止まる水みたいに、絶妙な量の涙を、絶妙な角度で頬に伝わせている。


 前世の大学図書館にもいた。クレーム対応で泣いて見せるタイプの利用者。あの人たちは泣き方が下手だった。リゼットは──上手い。上手すぎて、むしろ感心する。


 (……いや、感心してる場合じゃない)


 学術サロン。王宮の一角にある、学者たちが研究成果を発表し議論する場だ。今日は修復プロジェクトの中間報告が予定されていた。私の修復成果を学者たちに共有する、大事な場。


 そこにリゼットが現れた。


 社交界のフィールドなら、この涙は効く。同情を引き、味方を増やし、敵を孤立させる。五年前の断罪を引き起こしたのも、彼女の涙だったはずだ。


 学者たちが、リゼットを見た。


 「聖女殿」


 口を開いたのは、白髪の植物学者だった。名前はヴィルヘルム。今朝の報告会で、私が修復した古文書から三百年前の薬草精製法が判読可能になったことを「画期的だ」と評価してくれた人だ。


 「お気持ちはお察ししますが」


 丁寧だった。でも、声に温度がなかった。


 「ここは学術サロンです。研究の評価は成果と証拠に基づきます。感情を持ち込まれては──困ります」


 静かだった。


 広間に沈黙が落ちた。他の学者たちも黙っている。誰も同情の声を上げない。頷く者もいない。リゼットの涙が、空気を変えなかった。


 (……効いてない)


 社交界では「聖女が涙を流した」というだけで場が動く。同情が味方を作り、味方が空気を作り、空気が正義を決める。


 でもここは学術院だ。


 学者にとって「怖い」は根拠にならない。「危険」なら具体的な証拠を出せと言われる。涙は論文の代わりにならない。


 リゼットの涙が──止まった。


 廊下の時と同じだ。効かないと判断した瞬間に、蛇口を閉めるように。泣きやむ速度が不自然に早い。


 (……やっぱり)


 あの涙は道具だ。効果がないと見れば、即座にしまう。その判断力は確かに本物の才能だった。少しだけ、悲しいけれど。


 リゼットは微笑みを浮かべた。社交界の微笑み。傷ついた聖女の、健気な笑顔。


 「そう……ですよね。失礼いたしました」


 ドレスの裾を摘んで優雅に一礼し、サロンを出ていった。最後まで、美しかった。


 でも、振り返った時の目だけが──笑っていなかった。



 午後の会食は、予想外の展開だった。


 他国の使節が来ていた。隣国ヴァルトシュタインの外交官で、名前はフリードリヒ。四十代半ばの物腰の柔らかい男性で、話し方だけは人当たりがいい。


 「エレノーラ殿。我が国でも失われた魔法体系の研究は急務でしてね。あなたのような修復技術者を、ぜひ客員として迎えたい」


 銀の食器が光る長テーブルの向こうで、フリードリヒは穏やかに微笑んでいた。


 「待遇は保証いたします。研究環境、住居、報酬。王立学術院に劣らぬ条件をご用意できます」


 丁寧な言い回し。でも、要するにスカウトだ。


 (……辺境の図書館司書に、他国からヘッドハンティングが来る日が来るとは思わなかった。前世でも今世でも初めてだ)


 食事の手が止まった。隣の席のカイルが、スープのスプーンを持ったまま動かない。視線がフリードリヒに向いている。


 銀色の目が、鋭かった。辺境の図書館にいた時には見たことのない目つき。宮廷魔導師の目だ。


 「……ありがたいお話ですが」


 私は背筋を伸ばした。


 「現在、王立学術院の招聘を受けてプロジェクトに参加しています。途中で他国に移ることは考えていません」


 自分の口から出た言葉は、思ったより迷いがなかった。


 理由は単純だ。この国の古文書を直しに来たのだから、この国で直す。辺境の図書館で五年間やってきたことと、何も変わらない。目の前の本を直す。それだけ。


 「そうですか。……残念です」


 フリードリヒは笑顔を崩さなかったが、目が一瞬だけ冷えた。外交官の目だった。


 カイルのスプーンが、ようやく動いた。



 夜。作業室。


 修復作業の続きをしていた。三百年前の魔法書の断片。カイルが向かい側で魔力痕の鑑定作業を進めている。いつもの夜。いつもの配置。


 ──ただ一つ、気になっていたことがあった。


 「カイルさん」


 「ああ」


 「この作業室の鍵って、誰が持っているんですか」


 カイルの手が止まった。ほんの一瞬だけ。


 「俺が管理している」


 「他の研究者の方は?」


 「必要な時は俺が開ける」


 つまり、鍵はカイルだけが持っている。他の研究者は、カイルに頼まなければこの部屋に入れない。


 「……それ、不便じゃないですか? 他の方が使いたい時に」


 「セキュリティ上の措置だ。失われた魔法体系に関わる古文書は機密性が高い」


 筋は通っている。通っているのだけれど、今朝、廊下で鑑定官のマティアスが微妙な顔をしていたのを思い出す。「ヴェーバー殿の作業室、入れないんですよ。鍵がね」と苦笑していた。


 (……セキュリティ上の措置。うん。そうなんだろう)


 それ以上は訊かなかった。カイルが「そうだ」と言うなら、そうなのだろう。この人が嘘をつくところは見たことがない。嘘をつくくらいなら黙る人だ。


 沈黙が続いた。修復用の刷毛が紙の上を滑る音と、カイルが魔力を操作する微かな振動だけが聞こえる。


 「エレノーラ」


 名前を呼ばれた。一週間経っても、まだ慣れない。


 「はい」


 「あの修繕メモ。他国に渡す気はあるか」


 刷毛が止まった。


 修繕メモ。五年間かけて書き溜めた、前世の知識と異世界の技術を融合させた記録。あれが他国に渡れば、修復技術だけでなく、失われた魔法体系の復元に関わる情報も流出する。


 国家機密の心配をしているのだ、この人は。


 「ありません」


 迷わなかった。


 「あれは私が辺境の図書館で、五年かけて書いたものです。マルタに怒られながら夜更かしして、蝋燭を何本も使い切って。──他の誰かに渡すために書いたんじゃありません」


 カイルが黙った。


 それから、目を閉じた。


 一瞬だけ。長い睫毛が頬に影を落として、また開く。銀色の目が戻ってきた。


 「……そうか」


 声が、少し──ほんの少しだけ、柔らかかった。馬車の中で「寝てろ」と言った時の、あの角の取れた声に似ていた。


 (国家機密の管理者として安心したんだろうな)


 そう思った。思ったのだけれど。


 カイルの「そうか」の音が、しばらく耳の奥に残っていた。



 宿舎に戻ると、テーブルの上に手紙が置かれていた。


 学術院の事務員が届けてくれたらしい。封蝋の紋章はない。代わりに、見覚えのある几帳面な筆跡で宛名が書かれている。


 ルシアン。


 封を切った。便箋一枚。短い。あの子らしい。


 ──姉さん。王都に到着した。宰相府への上申手続きを開始する。断罪の手続き不備に関する書類と、帳簿の件を正式に王前会議の議題として提出する。受理されるまで数週間かかる見込み。体に気をつけて。ルシアン。


 便箋を膝の上に置いた。


 感情が、読み取れないくらい静かだった。怒りでも悲しみでもなく、もっと硬いもの。辺境の図書館で、五年間かけて背表紙を繕い続けた時と同じ種類の──覚悟、に近い何か。


 弟が動いた。法と手続きで。


 私は本を直す。手で。


 戦い方は違う。でも、向いている先は同じだ。


 蝋燭の灯りが便箋の文字を照らしている。几帳面な筆跡。十六歳の少年が、二十一歳の青年になるまでの五年間が、この一枚の紙に詰まっている。


 (……待ってて、ルシアン。私もここで、やれることをやる)


 便箋を丁寧に折り畳んで、旅の荷物の底にしまった。


 修復師は、資料を大切にするものだから。

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