第6話 国宝級
「──なぜ、お前がここにいる」
その声を聞いた瞬間、膝が笑った。
王宮の大広間。天井は高く、磨かれた石の壁には王家の紋章が金糸で刺繍されたタペストリーが下がっている。朝の光がステンドグラスを通って、床に色とりどりの模様を描いていた。
──綺麗だな、と思う余裕はなかった。
セドリック・フォン・クレスティア。第二王子殿下。
金色の髪と、深い青の目。二十七歳。外交を担当する王族として、堂々とした佇まい。整った顔立ちに、人を惹きつける声。
五年前、この体の婚約者だった人。公開の場で婚約を破棄し、断罪を言い渡した人。
──ゲームの中では「正義感の強い攻略対象」だった。
ゲームの中では。
私の目の前にいるのは、ゲームのキャラクターではない。この体から全てを奪った、生身の人間だ。
青い目が見開かれていた。狼狽。間違いなく。だが、彼の驚きには種類がある。「元悪役令嬢がいる」という驚きではなく、「この場にいる」という驚き方だった。
(……名前は知っていた、ということ? 私が招聘されたことを?)
考える暇はなかった。
「第二王子殿下」
横から、落ち着いた声が割って入った。
白髪を後ろに撫でつけた長身の老人。六十代。鋭い目に丸い眼鏡。学術院長ヘルムート・グリム伯爵。今朝、学術院の宿舎で出迎えてくれた人だ。修繕メモに目を通して「素晴らしい」と一言だけ言ってくれた人。
学術院長が一歩前に出た。
「こちらは、エレノーラ殿。当院が正式に招聘した古文書修復の専門家です」
声に淀みがない。
「この方の修復技術は、当院の巡回調査員オスカー・ブラントの報告と、宮廷魔導師カイル・ヴェーバーの推薦の双方により確認されたものであり──」
学術院長がカイルにちらりと視線を送った。一瞬だけ。それからセドリックに向き直る。
「──国宝級の技術をお持ちです」
国宝級。
大広間が、一瞬だけ静まった。
列席していた貴族たちの視線が私に集まる。ざわめきが起きる。「あのアッシェンバッハ家の」「五年前に断罪された」──囁きが聞こえた。でもそれ以上に大きかったのは、学術院長の声の重みだった。
セドリックの口元が引き結ばれた。何かを言いかけて、やめた。
(反対できない)
学術院の正式な招聘を王族が拒否すれば、「王室は学術を軽視するのか」という批判になる。セドリック殿下は外交を担当する立場だ。国内の学術機関との対立は、外交カードを一枚失うのと同じ。
(……ゲームの中では頭の回る人だった。だからこそ、ここで反対できないことを理解している)
セドリックが唇を開いた。
「……学術院の判断であれば、異存はない」
声は平静だった。でも、青い目の奥にちらついた感情を、私は見逃さなかった。苛立ち。困惑。そして──怯え?
(なぜ怯えるの、殿下。私はただ本を直しに来ただけなのに)
答えはわからない。でも、気づいたことがある。
隣に、カイルが立っていた。いつからいたのか。気づいたら私の左斜め後ろに、影のように。腕を組んで、無表情で。でもその銀色の目はセドリックを見ていて──宮廷魔導師としての、あの無言の圧。辺境の図書館では見たことのない目つきだった。
(……壁みたいだ)
人間の形をした壁。その壁の内側に、私がいる。
不思議と、膝の震えが止まった。
◇
夜。王宮の書庫は、辺境の図書館とは比べものにならないほど広かった。
石造りの部屋に木製の書架が整然と並び、魔法灯の淡い光が天井から降りている。空気が乾いていて、古い羊皮紙の匂いが濃い。温度管理は辺境よりずっと良い。
(さすが王宮。保存環境だけは一流)
前世の大学図書館を思い出した。あそこも温湿度管理は厳格だった。夏場にエアコンが壊れた時は修復室が阿鼻叫喚だったけれど。
(……いやこれ完全に前世の記憶で脱線してる。集中)
作業台に広げたのは、三百年前の魔法書の断片。辺境で見つけた魔法陣と同じ時代の記述様式だ。カイルが学術院の蔵書から選び出してきた。
二人きりだった。
夜間作業は書庫の利用制限がかかる時間帯に行われるため、他の研究者はいない。カイルが学術院長に申請して許可を取ったらしい。護衛と共同研究者を兼ねるという名目で。
「この断片、綴じ穴の位置から推測すると元は一冊の書物の一部ですね。辺境で見つけたものと装丁様式が一致します」
「ああ。おそらく同じ著者だ」
「なら、修復方針も揃えられます。裏打ちの素材を──」
「エレノーラ」
手が止まった。
カイルが、私の名前を呼んだ。
司書殿、ではなく。
「……え」
「ここでは司書ではないだろう」
素っ気ない。理由としては筋が通っている。王宮では「学術院の客員研究員」であって「辺境の司書」ではない。呼称を変えるのは合理的だ。
合理的なのに。
心臓が、一つ、大きく跳ねた。
カイルの声は変わらず平坦で低い。でも、「エレノーラ」と発音する時だけ、ほんのわずかに──丁寧、というのだろうか。子音の一つ一つを正確に置くような、注意深い響き。
(気のせいだ)
気のせいに決まっている。
「……はい。エレノーラで構いません」
自分の名前なのに、変な感じがした。この名前は前の魂のもので、私のものではない。でもカイルに呼ばれると、なぜか「私の名前」として響く。
──変なの。
作業に戻った。修復用の刷毛を握り直す。指先に集中する。魔法書の断片の繊維を痛めないように、慎重に。
カイルは何も言わなかった。向かい側で、古文書の魔力痕を読み取る作業を続けている。二人の間には作業台と、紙と道具と、魔法灯の光。それだけ。
それだけなのに、妙に居心地がいい。
◇
深夜。書庫を出て、学術院の宿舎に向かう廊下。
カイルが数歩先を歩いている。護衛の名目だから当然なのだけれど、辺境では並んで歩いていたので少し距離を感じる。
(王宮では立場が違う、ということか)
考え事をしながら角を曲がった時、廊下の先に人影があった。
細い。華奢な体。淡い金髪が魔法灯の光を受けて輝いている。白いドレス。胸元に星神教の紋章。
──リゼット・エーデルシュタイン。
聖女。
ゲームでは「清楚で心優しいヒロイン」だった女性。五年前の断罪の発端となった「いじめの被害者」。
リゼットが私を見た。
大きな目が潤んだ。唇が震えた。片手を胸に当て、もう片方の手で壁を支えるようにして──。
「あの方が……王宮にいると、私──怖くて、仕方がないのです……」
声が廊下に響いた。
誰に向けた言葉なのか。私か。カイルか。それとも、この廊下を通りかかる誰かに聞かせるためか。
涙が頬を伝った。タイミングが──あまりにも、綺麗だった。
私は何も言わなかった。
カイルの背中を見て、そのまま横を通り過ぎた。足を止める理由がない。止めたら、この人の涙が「効いた」ことになる。
宿舎の扉に手をかけた時、背後で小さな気配がした。
振り返らなかった。
でも、頬に残る涙の筋が本物の涙なのかどうか──私には、まだわからなかった。




