第5話 俺の管轄だ
王立学術院の紋章が押された封蝋を、私はしばらく眺めていた。
赤い蝋の表面に、星と書物を組み合わせた意匠。間違いようがない。この国の学術を司る最高機関の印だ。
封を切る指先が、ほんの少し震えた。
中の羊皮紙を広げる。流麗な活版印刷の文面。宛名は「エレノーラ殿」。
──王立学術院は、失われた魔法体系の復元に関する特別プロジェクトを発足する。貴殿の古文書修復技術は本プロジェクトに不可欠と判断し、客員研究員として王宮への出仕を要請する。
(……王宮)
その二文字が、喉に刺さった小骨のように引っかかった。
「俺が推薦した」
背後から声がした。振り返ると、カイルが作業室の入口に立っていた。いつもの外套。いつもの無表情。でも視線が、ほんの一瞬だけ窓の外に逸れた。
「……推薦?」
「お前の修繕メモの技術体系と、修復作業中に発見された魔法陣の断片。どちらも復元プロジェクトに必要だ。学術院にそう報告した」
短い。素っ気ない。いつも通り。
(技術を評価してくれたんだ)
胸の中で何かが軋んだ。嬉しさと、不安が、同じ重さでぶつかっている。
「カイルさん」
「ああ」
「……ありがとうございます。技術を認めてくださったこと」
カイルが黙った。視線が窓の外から戻ってきて、私を見た。銀色の目が何かを言いかけて、やめた──ように見えた。
「礼を言うのは早い」
それだけ言って、作業室を出て行った。
◇
三日後の朝。図書館の前に、小さな人だかりができていた。
「ノーラさん、王都に行くんだって?」
「すごいね、学術院からお呼びがかかるなんて」
「本、直しに行くのかい? なら安心だ」
八百屋のグレッグさん、肉屋のハンスさん、パン屋のおかみさん。いつもの顔ぶれだ。小さな荷物を一つ持って出てきた私を囲んで、口々に声をかけてくれる。
(……辺境の図書館が、いつの間にかこんなに)
五年前、ここに流れ着いた時は誰も私を知らなかった。知る必要もなかった。ただ毎日本を直して、棚を整えて、住民に貸し出して。それだけを繰り返した。
それだけで、ここは居場所になった。
「ノーラ」
マルタがカウンターの向こうから出てきた。エプロンで手を拭きながら。いつもと変わらない。
「行っておいで」
「……はい」
「でも、ここはいつでもお前の居場所だよ」
ずるい。
こういう言い方をされると、泣きそうになる。マルタはいつもそうだ。簡潔で、温かくて、核心を突く。
深く息を吸った。泣かない。図書館の前で司書が泣いたら、住民が心配する。
「行ってきます」
「おかえりの茶は用意しておくからね」
◇
馬車の中は狭かった。
二人がけの座席が向かい合わせに二つ。私とカイルが、それぞれ片側に座っている。学術院が手配した公用馬車で、装飾は質素だが乗り心地は悪くない。辺境から王都までは馬車で三日。急使なら二日だが、公用馬車はそこまで飛ばさない。
カイルは向かいの座席で腕を組み、目を閉じていた。眠っているわけではないと思う。この人は目を閉じていても周囲の気配を拾っている。図書館で修復作業をしている時に気づいた。私が椅子を引く音だけで、何をしようとしているか当てる人だ。
(……宮廷魔導師って、全員こうなのかな。それともこの人が特殊なのかな)
窓の外を見た。辺境の野原が流れていく。麦畑の緑が風に揺れて、遠くに丘陵が霞んでいる。
招聘状を受けると決めたのは、私だ。
帳簿のこともある。ルシアンが集めた断罪の不備書類もある。王都に行けば、何かが動くかもしれない。──動かなくても、王宮の書庫には三百年前の古文書がまだ眠っているはずだ。修復師として、それを見たい気持ちは嘘じゃない。
でも。
王宮。
あの場所に、戻る。
この体が断罪された場所に。
揺れる馬車の中で、いつの間にか意識が落ちた。
◇
目が覚めたら、肩に温もりがあった。
──外套。
黒っぽい厚手の布が、肩から膝にかけてかかっていた。カイルのものだ。この外套の匂い──古い紙とインクと、かすかに金属のような魔力の残り香。図書館で隣にいた時と同じ匂い。
カイルは窓の外を見ていた。
夕日が横顔を照らしている。高い鼻梁と、薄い唇の輪郭が、橙色の光に縁取られていた。銀色の目が窓の外に向けられていて、私の方を見ていない。
「……あの、すみません。寝てしまって」
「寝てろ」
声が柔らかかった。
この人の声は基本的に平坦で低い。感情が載らない。でも今の一言だけ、角が丸くなっていた。少しだけ。気のせいだと言われたらそうかもしれないくらい、少しだけ。
(……面倒見がいい人だ)
外套を返そうとしたら、カイルが「まだ冷える」と短く言った。
それ以上、何も言わなかった。
馬車が揺れる。窓の外が、野原から街道に変わりつつあった。建物がまばらに見え始める。
王都が近い。
「司書殿」
カイルの声の温度が変わった。さっきの柔らかさが消えて、冷たいわけではないが──硬い。仕事の声だ。
「王宮には、セドリック第二王子殿下がいる」
心臓が跳ねた。
セドリック。
五年前、この体の婚約者だった人。公開の場で婚約を破棄し、断罪を言い渡した人。公爵家の全てを奪った──少なくとも、この体の記憶ではそうだった。
手が震えた。膝の上の外套を掴んだ。布の温もりが掌に伝わる。
「……はい」
「学術院の招聘は学術院の管轄で、王族であっても直接の干渉はできない」
カイルが窓から視線を外し、初めて正面から私を見た。
「俺の管轄だ。手は出させない」
俺の管轄。
学術院の管轄、ではなく。
(……この人は、いつもこうだ。必要なことしか言わないのに、言葉の選び方が、時々──)
何だろう。よくわからない。でも、震えは止まった。
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「それでも」
カイルが黙った。銀色の目がまた窓の外に戻る。
馬車が丘を越えた。
夕焼けの向こうに、白い塔が見えた。王宮の尖塔だ。五年ぶりの──私の記憶ではない。この体の記憶。
肩にかかった外套の重みだけが、今の私を、この場所に繋ぎ止めていた。




