第4話 五年分の手土産
「姉さん、五年分の手土産がある」
図書館の入口に、背の高い青年が立っていた。
──誰、と思った。一瞬だけ。
でも、その茶色い髪と、少し吊り上がった緑の目。アッシェンバッハ家の血を引く者の特徴だと、この体の記憶が教えてくれる。
ルシアン。
弟だ。
五年前は十六歳だったはずの弟が、私より背が高くなって、図書館の扉の前に立っている。声が低くなっている。顎の線が鋭くなっている。でも、片方の眉だけ上げる癖は変わっていない。
「……ルシアン?」
「五年ぶりだね、姉さん。元気そうで何よりだ」
涙が出そうになるのを堪えた。今ここで泣いたらマルタに心配される。それに、弟の前で泣く姉でいたくない。前の魂のエレノーラの記憶の中で、この弟はいつも姉の後ろを歩いていた。
もう後ろにはいない。まっすぐ前を向いて、ここまで来た顔をしている。
「……入って。お茶を淹れます」
「ありがとう。でもお茶の前に、見てほしいものがある」
ルシアンが革鞄から取り出したのは、分厚い書類の束だった。
◇
応接室──と呼ぶには狭い、図書館の奥の小部屋。普段は修復待ちの本を仮置きしている場所だ。テーブルの上に書類が広げられた。
「王都で法律事務の書記官見習いをしている。三年前から──いや、実際には断罪の翌年から、ずっと調べていた」
ルシアンの声は落ち着いていた。感情的にならない。法と手続きで戦うと決めた人間の声だ。
「これが、五年前の断罪時の裁判記録の写し。正規の手続きでは、証人尋問の記録と魔法鑑定の結果が添付されなければならない」
書類を指でなぞる。
「証人尋問の記録は──リゼットの証言のみ。しかも尋問官の署名がない。立会いの貴族二名の確認印も不在」
「それは……」
「手続き不備だ。正式な貴族裁判であれば、最低二名の貴族の証言と王立学術院の魔法鑑定が必要だった。五年前の断罪では、どちらも省略されている」
省略。
言葉が乾いている。でもその乾き方に、五年分の怒りが圧縮されているのが私にはわかった。
(この子は──十六歳の時から、たった一人で、これを?)
「姉さん」
ルシアンが顔を上げた。緑の目に迷いはなかった。
「あの断罪は、手続きとして不完全だ。法的に覆せる余地がある」
言い切った。
二十一歳の弟が、五年間の蓄積を、短い言葉に込めて。
◇
午後。ルシアンに蔵書の整理を手伝ってもらっていた。
図書館の蔵書の多くは、没落した貴族家の寄贈品──というよりは、没収された資産が行き場を失って辺境に流れてきたものだ。元々はアッシェンバッハ公爵家の書庫にあった本たちが大半を占めている。
実家の、本。
五年間かけて、一冊ずつ状態を確認し、傷んだものは修復してきた。目録を整え、分類を直し、背表紙に番号を振った。
蔵書の奥、書架の最下段。ほとんど手をつけていなかった一角がある。農事記録や税務書類が無造作に押し込まれていて、本というよりは紙の束だった。修復の優先度が低いと判断して後回しにしていた場所。
「姉さん、これ」
ルシアンが一冊の綴じ帳を引き抜いた。表紙が革張りで、他の農事記録とは明らかに作りが違う。
開いた。
数字の羅列。日付と金額。資産の移転記録。
「……帳簿?」
ページをめくる。インクは古いが、状態は良い。誰かが丁寧に保管していたものが、蔵書に紛れ込んだ──いや、紛れ込ませた?
最後のページに、押印があった。
赤い印。
(これ──王室の印じゃないか)
王室の紋章が刻まれた印章の跡。そしてその横に、署名。流れるような筆跡。
──セドリック。
名前だけでは確定できない。同じ名前の人間はいるだろう。でもこの筆跡、王室印と並ぶこの署名は。
「ルシアン」
「……見た」
弟の声が低い。
「これが本物なら──五年前の断罪の裏に、公爵家の資産を狙った動きがあったことになる」
帳簿を持つ手が震えた。怒りか、恐怖か、自分でもわからない。
五年前。エレノーラは断罪された。爵位を剥奪され、家名を奪われ、両親は失意のうちに世を去った。
その裏で、誰かがこの家の資産を動かしていた?
(いや──まだ確定じゃない。署名が本物かどうかは、魔法鑑定をしなければわからない)
手を下ろした。深呼吸。修復作業と同じだ。焦れば紙を破る。
「……これは、預かっていいですか」
「姉さんのものだよ。元々、この家の帳簿なんだから」
◇
夕刻。図書館の前で、ルシアンがカイルと鉢合わせた。
カイルはいつも通りの時間に来た。外套にフード。無表情。修復作業の立ち合いのために。
ルシアンが一歩前に出た。
「あなたが、姉に近づいている宮廷魔導師か」
声が硬い。あの法的書類を淡々と読み上げていた弟と同じ声だけれど、温度が違う。冷たいのではない。熱い。抑えているだけだ。
「姉に何の用だ」
カイルが足を止めた。銀色の目がルシアンを見下ろす。背はカイルの方が高い。でもルシアンは一歩も引かなかった。
「……古文書の修復に立ち合っている」
「宮廷魔導師が辺境の図書館に? ずいぶん暇なんだな」
「ルシアン」
慌てて間に入ろうとした。でもルシアンは私の方を見ずに、カイルだけを見ていた。
「五年前、姉を断罪したのは王宮だ。その王宮の人間が、今さら姉に近づく理由は何だ」
正論。
ぐうの音も出ない正論だ。私だって最初はそう思った。宮廷魔導師=王宮の人間。警戒しない方がおかしい。
カイルが沈黙した。
長い、沈黙。
それから。
「俺は味方だ」
短い。素っ気ない。いつも通り。
でも──カイルの視線が一瞬、ほんの一瞬だけ、ルシアンから私に移った。そしてすぐにルシアンに戻った。
(……?)
何だったんだろう、今の。
「味方だと? 言葉だけなら誰でも言える」
「ああ」
「なら行動で証明しろ。宮廷魔導師」
ルシアンが顎を引いた。カイルが黙って頷いた。
それだけだった。握手もなく、笑顔もなく。でも何か──目に見えない契約のようなものが、二人の間に結ばれた気がした。
(律儀な人だ)
カイルに対する感想は、結局いつもそこに落ち着く。
◇
閉館後。
ルシアンは町の宿屋に泊まると言って去り、カイルも作業を終えて帰った。マルタは「今日は早く上がるよ」と言って先に出て行った。
一人になった作業室で、私は座っていた。
手元に、ルシアンが持ってきた書類と、書庫の奥から出てきた帳簿。
五年間。
弟は十六歳から、たった一人で法律の道に入り、書記官見習いとして働きながら、姉の冤罪を証明するための証拠を集めていた。
五年間。
私は──前の魂のエレノーラは、辺境で本を直していた。転生後の私は、それを引き継いで本を直していた。同じ五年間を、同じ場所で。
でもルシアンは、王都で戦っていた。
(一人じゃなかったんだ)
知らなかった。知る手段がなかった。手紙のやり取りすら途絶えていたのだから。
涙が落ちた。帳簿の表紙に一滴。慌てて袖で拭った。修復師失格だ、資料を濡らすなんて。
(泣くなら帳簿から手を離してからにしなさい、佐々木志保)
前世の名前で自分を叱って、帳簿をそっとテーブルの端に避けた。
それから、泣いた。
声は出さない。図書館だから──なんて理由じゃない。ただ、声にしたら壊れそうだった。五年分の安堵と、五年分の理不尽と、弟が一人で背負ってきた重さが、全部混ざって。
扉が軋んだ。
顔を上げると、マルタがいた。「早く上がる」と言って出て行ったはずのマルタが。
何も言わなかった。湯気の立つカップを二つ、テーブルに置いて、向かいの椅子に座った。
「……帰ったんじゃ」
「茶が残ってたの思い出して」
嘘だ。棚にはさっき新しく補充したばかりだ。
でも──それでいい。嘘でいい。
温かい茶を、向かい合って飲んだ。
窓の外はもう暗い。テーブルの上には帳簿と書類。その向こうにマルタの皺だらけの手がカップを包んでいる。
王室の印。セドリックの署名。五年前に何があったのか。
答えはまだ出ない。でも──手がかりは、もうここにある。




