第3話 王都の修復師を超えている
古い紙の匂いが好きだ。
カビと埃と、微かなインクの鉄の香り。手の中の羊皮紙は二百年以上前のもので、端が黄ばんで脆くなっている。でも繊維の奥には、書いた人間の息遣いがまだ残っている。
──前世でも同じことを思っていた。和紙でも洋紙でも、古い紙には「時間」が染みている。それを壊さずに次の百年へ渡すのが、修復の仕事だ。
あの人生で唯一、好きだと言い切れたもの。
この世界でも、それだけは変わらなかった。
「司書殿」
声が降ってきた。低い。近い。
顔を上げると、カイルが作業台の向かい側に座っていた。一週間前に宮廷魔導師だと判明してから、この人は毎日図書館に来るようになった。修繕メモの棚はとっくに全冊読破したらしく、今は古文書の修復作業を横で──というか、真正面で──見ている。
(……近くないですか)
思うけれど口には出さない。学術調査の一環だと言われれば、断る理由がない。宮廷魔導師には国の学術施設への立入調査権があるのだと、マルタが教えてくれた。
「オスカーという男が来る」
「はい?」
「王立学術院の巡回調査員。定期巡回で地方の文化施設を回っている。今日この図書館に来る予定だ」
淡々としている。いつも通り。
「……それは、事前に連絡があったんですか」
「学術院の通達が昨日届いた。マルタ殿が受け取っている」
マルタに確認すると、確かにカウンターの引き出しに通達書が入っていた。日付は五日前の消印。馬車便で辺境まで届くのにちょうどそのくらいかかる。
(定期巡回……ただの定期巡回。特別なことじゃない)
そう思い込もうとした。
◇
午前の鐘が三つ鳴った頃、図書館の扉が開いた。
「ごめんください。王立学術院巡回調査員、オスカー・ブラントです」
三十代半ばの男性だった。学術院の紋章が刺繍された外套を羽織り、鼻には丸い眼鏡。手には分厚い記録帳を抱えている。目の下の隈が濃い。全国の図書館を回って記録を取っている人間特有の疲れ方だ。
(わかる。出張続きの研究員の顔だ)
前世の大学図書館にもこういう人がいた。学術調査で各地を飛び回り、報告書に追われ、睡眠時間を削る。好きでなければやれない仕事。
「エレノーラです。当館の司書を務めています」
「ああ、よろしく。蔵書目録の確認と施設状態の記録が主な用件ですので、お手を煩わせないよう──」
オスカーの言葉が途切れた。
彼の目が、作業台の上に広げてあった修繕メモに止まっている。第三集。三十七ページが開いたまま置いてあった。カイルとの共同作業で使っていたものだ。
「……これは」
眼鏡を押し上げ、オスカーが身を乗り出した。
「この酸化抑制処理の手順──リン布紙の繊維劣化に対する予防的保存措置として、環境湿度を制御する? 自作の吸湿剤を用いて?」
「はい。木炭と乾燥ハーブの配合を季節ごとに変えて──」
「待ってください」
オスカーが記録帳を閉じた。定期巡回の顔ではなくなっている。学者の目だ。
「この技法、王都の修復工房では見たことがありません。保存環境の制御という発想自体が……いえ、これだけじゃない」
彼は棚に並んだ修繕メモを端から引き抜き始めた。第一集、第二集、第四集。ページを繰る手つきが、さっきまでの丁寧な巡回調査員のものではない。研究者が未知の論文を見つけた時の、あの飢えた動き。
「接着剤の配合比率、虫損補修の段階的手順、紙の経年劣化の予測モデル……体系が、根本的に異なる」
オスカーが顔を上げた。
「エレノーラ殿。これは──王都の修復師を超えています」
息が詰まった。
褒められたから、ではない。五年間、この小さな図書館で一人で書き続けたメモが、学術院の人間の目に触れた。前世で学んだ保存修復学を、この世界の素材に合わせて作り直した。うまくいかない夜もあった。リン布紙が裏打ちの途中で裂けて、三日分の作業がやり直しになったことも。
それでも書き続けた。
この仕事が好きだから。それだけを頼りに。
「……ありがとう、ございます」
声が少し震えた。司書スマイルは使えなかった。
◇
午後。オスカーは巡回報告の記録を続けていて、私はカイルと書庫にいた。
古文書の修復作業。今日は百五十年前の農事記録で、綴じ糸が完全に切れ、ページの順序がばらばらになっている。ページ番号から順序を推定し、新しい糸で綴じ直す。地味で、根気のいる仕事。
(でも、嫌いじゃない)
ばらばらのものを正しい順番に戻す。前世でもよくやった。書庫の奥で埃をかぶった未整理資料を、一枚ずつ年代順に並べ直す。誰にも気づかれないけれど、それが図書館を支えている。
糊を塗った刷毛を動かしていると、ふいに視界の端に影が差した。
「……動くな」
カイルの声。いつもより低い。そして、近い。
指先が──カイルの指先が、私の頬のすぐ横を通り過ぎた。
髪に触れた。いや、髪についた何かに触れて、そっと摘み取った。
「紙片がついていた」
カイルの手の中に、一センチほどの古い紙の欠片があった。修復中の農事記録から剥がれ落ちたものだろう。
「あ……すみません、作業中に」
「謝ることじゃない」
カイルはそう言って、紙片を作業台の端に置いた。
それだけだった。なのに頬が熱い。カイルの指先が通ったあたりが、変な感覚を残している。触れたのは髪であって肌ではないのに。
(いや違う、これは紙片を取ってもらっただけ。修復作業中の異物除去。それ以上でも以下でもない)
自分に言い聞かせて、刷毛を持ち直した。
集中。集中しろ。
──ほつれた綴じ穴に新しい糸を通そうとして、ページの隙間に何かが見えた。
本文の下、余白に。薄いインクで描かれた図形。円と直線の組み合わせ。
「これ……」
「魔法陣だ」
カイルが即座に答えた。彼は既に見えていたのだろう、私が気づくより先に。
「三百年前の記述様式。大魔法災害の前に使われていた上位魔法の一部だ」
失われた魔法体系。
カイルが修繕メモを読み込んでいた理由。宮廷魔導師が辺境の図書館に三ヶ月も通い詰めた理由。古文書の修復に立ち会い続けた理由。全部、これだったのだ。
修復しなければ読めない。修復して初めて、ページの奥に隠れていた魔法陣が姿を現す。
(この図書館の蔵書は、没落貴族の寄贈品がほとんどだ。元は──アッシェンバッハ公爵家の蔵書)
五年前に没収された、実家の本たち。
それがここに流れ着いて、私が五年かけて修復して、三百年前の魔法の痕跡が出てきた。
「……この蔵書の中に、まだあるかもしれませんね。こういう記述が」
「ああ」
カイルの銀色の目が、古文書の上の魔法陣を見つめている。学者の目だった。オスカーがさっき修繕メモを見た時と同じ種類の──でもそれより、ずっと深い集中。
「お前の修復技術が必要だ」
お前。司書殿、ではなく。
……まあ、この人は敬語を使わない人だった。そこに特別な意味はない。ない、はず。
◇
夕方。図書館の前で、オスカーが馬車便の御者に封書を手渡すのが窓から見えた。
報告書だろう。王立学術院宛ての。
「辺境に、異常な技術を持つ修復師がいる」──オスカーは図書館を出る前にそう言った。報告書にはそう書くと。
嬉しかった。本当に。前世で過労死するほど好きだった仕事が、異世界でも認められた。
でも。
(報告書が王都に届く。学術院の人間が読む。そこから先は──)
王都には「元悪役令嬢エレノーラ」を知っている人間がいる。辺境の司書の名前が学術院の書類に載れば、気づく者もいるだろう。
カイルは窓辺に立って、馬車便が去っていくのを見ていた。
特に驚いた様子はなかった。報告書が送られることも、その内容も、最初からわかっていたような顔。
「……カイルさん」
「ああ」
「あの報告書、学術院の中で処理される程度のものですよね」
カイルはしばらく窓の外を見ていた。
それから振り返って、短く答えた。
「さあな」
素っ気ない。いつも通り。
でもその銀色の目は、窓の外──馬車便が消えた道の先を、もう一度だけ見ていた。
王都へ続く、一本道を。




