第10話 返却期限は、ない
辺境の図書館の朝は、いつも紙とインクの匂いで始まる。
叙任式から二週間が経っていた。
王都から馬車で五日。乗り合いの荷馬車に揺られて、あの小さな町に帰ってきた。図書館の鍵を開けた時、埃と古紙の匂いが鼻をくすぐって──ああ帰ってきた、と思った。
日常が戻った。
朝六時に起きる。図書館を開ける。返却された本を棚に戻す。損傷した本を修繕する。閉館後に修繕メモを書く。寝る。
同じ毎日。王宮に行く前と、何も変わらない。
──何も変わらないはずだった。
(……静かすぎる)
修繕台に向かっていて、手が止まる。
王宮の書庫では、隣にいつも誰かがいた。魔法灯の角度を無言で変えてくれる人。作業台に茶を置いてくれる人。条文を暗唱して敵を黙らせる人。
(いない)
当たり前だ。ここは辺境の図書館で、ヴォルフはここにいない。王宮の宮廷魔導師が辺境の図書館にいるはずがない。
竹のヘラを取って、修繕作業に戻る。背表紙の糊が劣化した児童書。町の子供たちがよく借りる本だ。角が擦り切れて、表紙の絵が半分剥がれている。
丁寧に糊を剥がす。新しい和紙で補強する。指先は正確に動く。五年間──いや、もっと前から鍛えてきた技術は、場所が変わっても錆びない。
でも。
(隣に、いない)
しつこい。自分でも分かっている。でも思考が勝手にそこへ戻る。
◇
ユリウスから手紙が届いた。
ブレンターノ伯爵家の爵位復権が正式に承認されたこと。ユリウスが新当主として領地経営を引き継ぐこと。領地の返還手続きは現在の管理者との交渉が続いていること。
手紙の最後に、弟の字でこう書いてあった。
『姉さん。加害者たちのその後を、一応報告しておく。
マティルダは聖女称号を剥奪された後、辺境の神殿で奉仕活動に従事している。聖魔法の力は契約が公になったことで大幅に弱まったらしい。
ゲオルクは裁判で文書改竄の罪を認め、有罪。投獄された。
エーリヒ殿下は王位継承権の凍結と公式謝罪の後、王太子殿下の監督下で公務を続けている。公の場で姉さんの名前を口にすることは禁じられたそうだ。
全部、自業自得だと思う。
それから──宮廷魔導師殿のことなんだけど。俺が王都を発つ時、あの人に「姉に何か伝えることはありますか」と聞いたんだ。そうしたら「ない」と言われた。
でも姉さん、あの人の机の上に馬車の時刻表が広げてあったのを、俺は見た。辺境行きのやつ。
何もないなら、なぜ馬車の時刻表を調べているのか。俺にはよく分からない。
──嘘だ。分かってる。姉さんも分かってるだろ。
ユリウスより』
手紙を折り畳んで、胸の前で抱えた。
(馬車の時刻表。辺境行き)
期待してはいけない。期待して裏切られるのは、もう十分だ。五年前に全部経験した。
(でも)
でも。
ユリウスは嘘をつかない。あの子が「見た」と書いたなら、本当に見たのだ。
手紙を引き出しにしまって、修繕作業に戻った。手は動く。手だけは、いつも通りに動く。
◇
それから三日が経った。
閉館間際の夕方だった。秋の陽が低くなって、図書館の窓から橙色の光が差し込んでいる。
返却カウンターで帳簿をつけていた。今日の返却は四冊。貸出は二冊。辺境の小さな図書館としては、まあ普通の一日。
扉が開いた。
閉館の鐘まであと少し。駆け込みの利用者だろうか。顔を上げた。
──息が、止まった。
黒い外套。宮廷魔導師の紋章は外されていた。旅の埃にまみれた革の鞄を肩にかけて、灰色の瞳が図書館の中を見回している。
ヴォルフだった。
「……ヴォルフ、殿」
「遅くなった」
それだけ言って、カウンターに近づいてきた。
手に一冊の本を持っている。見覚えがあった。辺境の図書館の蔵書印が押された──私が修繕した本の一冊。
返却期限のスタンプを確認する。
(二ヶ月前……。王宮に来る前に借りていった本だ)
「返却期限を二ヶ月過ぎています」
自分でも驚くほど、いつもの声が出た。図書館司書の声。落ち着いた、業務的な声。
「ああ」
ヴォルフが本をカウンターに置いた。
何かが挟まっている。本の間から、紙片の端が覗いていた。
「……これは?」
「開け」
本を開いた。
紙片が一枚。
ヴォルフの字だった。あの、無駄のない細い筆跡。辺境の図書館に通い始めた頃、貸出カードに毎回几帳面に名前を書いていた──あの字。
一行だけ、書いてあった。
『返却期限は、ない』
文字が滲んだ。
──いや、滲んでいない。私の目が滲んでいるのだ。
「……これは」
「そのままの意味だ」
ヴォルフの声が、いつもより低い。半音ではない。もっと。喉の奥で押し殺したような、不器用な声。
「返す必要がない。期限がない。──俺は返さない」
顔を上げた。涙で視界がぼやけている。でも灰色の瞳だけは見えた。いつもの無表情の下で、何かが必死に形を保とうとしている。感情を論理で処理しようとして、失敗して、それでもここに立っている人の顔。
(この人は、二週間かけて答えを出しに来た。辺境まで。五日かけて。馬車の時刻表を調べて。──でも「伝えることはない」と弟に言った。言葉では伝えられないから。行動で来た。この人は、いつもそうだ。いつも行動で──)
涙が頬を伝った。止められなかった。止める気もなかった。
「……延滞料は頂きますから」
声が震えた。笑っているのか泣いているのか自分でも分からない。たぶん両方だ。
ヴォルフの唇の端が──ほんの少しだけ、緩んだ。
叙任式の夜に見た、あの一瞬の表情と同じ。氷が溶ける瞬間。でも今度は一瞬ではなかった。三秒。五秒。──もっと。
「……高いのか」
「ええ。とても」
「いくらだ」
「一生分です」
ヴォルフが黙った。
黙って、カウンター越しに手を伸ばして──本の上に置かれた私の手に、自分の手を重ねた。
大きな手だった。魔法の紋様が指先に薄く刻まれている。温かくて、少しだけ震えていた。
「……払う」
一言。
それだけで十分だった。
◇
閉館の鐘が鳴った。
夕陽が図書館の窓から差し込んで、カウンターの上の本を橙色に染めている。
返却された本を棚に戻す作業を、二人で──いや、ヴォルフは棚の場所が分からないから、私が指示して彼が本を運ぶ形で──やった。
(この人、背が高いから上の棚に手が届く。これは便利かもしれない)
そんなことを考えている自分がおかしくて、少し笑った。
「何がおかしい」
「いえ。……ヴォルフ殿は、辺境に来るつもりだったんですか。最初から」
「三日間考えた」
「叙任式の後の三日間じゃなくて?」
「あの三日間は、別のことを考えていた」
「……何を」
「お前が何者であっても、俺にとっての事実は変わらないと確認するのに三日かかった。時間がかかりすぎた。……すまない」
(この人、あの三日間ずっと自分の感情を論理的に検証していたの……?)
笑いたいような、泣きたいような、呆れたいような気持ちが全部まぜこぜになって、結局何も言えなかった。
「ヴォルフ殿」
「なんだ」
「この図書館、修繕が必要な本がまだたくさんあるんです」
「知っている」
「魔法灯の角度を変えてくれる人がいると、作業効率が上がります」
「効率の問題か」
「ええ。効率の問題です」
嘘だ。
効率なんかじゃない。でもこの人には、この言い方が一番伝わる。
ヴォルフが──笑った。
笑ったと言っても、口角がほんの数ミリ上がっただけだ。他の人が見たら気づかないかもしれない。でも私は見た。灰色の瞳に温度が宿った瞬間を、確かに見た。
「……なら、しばらくここにいる」
「返却期限は、ないんでしょう?」
「ああ。ない」
窓の外では、夕陽が辺境の町を赤く染めている。
修繕台に二脚の椅子を並べた。竹のヘラと、糊と、和紙と、魔法灯。
返す必要のない本と、返す必要のない日々が、ここにある。




