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断罪が五年前に終わっていたので今さら何をすればいいかわかりません  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第10話 返却期限は、ない


 辺境の図書館の朝は、いつも紙とインクの匂いで始まる。


 叙任式から二週間が経っていた。


 王都から馬車で五日。乗り合いの荷馬車に揺られて、あの小さな町に帰ってきた。図書館の鍵を開けた時、埃と古紙の匂いが鼻をくすぐって──ああ帰ってきた、と思った。


 日常が戻った。

 朝六時に起きる。図書館を開ける。返却された本を棚に戻す。損傷した本を修繕する。閉館後に修繕メモを書く。寝る。


 同じ毎日。王宮に行く前と、何も変わらない。


 ──何も変わらないはずだった。


(……静かすぎる)


 修繕台に向かっていて、手が止まる。


 王宮の書庫では、隣にいつも誰かがいた。魔法灯の角度を無言で変えてくれる人。作業台に茶を置いてくれる人。条文を暗唱して敵を黙らせる人。


(いない)


 当たり前だ。ここは辺境の図書館で、ヴォルフはここにいない。王宮の宮廷魔導師が辺境の図書館にいるはずがない。


 竹のヘラを取って、修繕作業に戻る。背表紙の糊が劣化した児童書。町の子供たちがよく借りる本だ。角が擦り切れて、表紙の絵が半分剥がれている。


 丁寧に糊を剥がす。新しい和紙で補強する。指先は正確に動く。五年間──いや、もっと前から鍛えてきた技術は、場所が変わっても錆びない。


 でも。


(隣に、いない)


 しつこい。自分でも分かっている。でも思考が勝手にそこへ戻る。



 ユリウスから手紙が届いた。


 ブレンターノ伯爵家の爵位復権が正式に承認されたこと。ユリウスが新当主として領地経営を引き継ぐこと。領地の返還手続きは現在の管理者との交渉が続いていること。


 手紙の最後に、弟の字でこう書いてあった。


『姉さん。加害者たちのその後を、一応報告しておく。


 マティルダは聖女称号を剥奪された後、辺境の神殿で奉仕活動に従事している。聖魔法の力は契約が公になったことで大幅に弱まったらしい。


 ゲオルクは裁判で文書改竄の罪を認め、有罪。投獄された。


 エーリヒ殿下は王位継承権の凍結と公式謝罪の後、王太子殿下の監督下で公務を続けている。公の場で姉さんの名前を口にすることは禁じられたそうだ。


 全部、自業自得だと思う。


 それから──宮廷魔導師殿のことなんだけど。俺が王都を発つ時、あの人に「姉に何か伝えることはありますか」と聞いたんだ。そうしたら「ない」と言われた。


 でも姉さん、あの人の机の上に馬車の時刻表が広げてあったのを、俺は見た。辺境行きのやつ。


 何もないなら、なぜ馬車の時刻表を調べているのか。俺にはよく分からない。


 ──嘘だ。分かってる。姉さんも分かってるだろ。


 ユリウスより』


 手紙を折り畳んで、胸の前で抱えた。


(馬車の時刻表。辺境行き)


 期待してはいけない。期待して裏切られるのは、もう十分だ。五年前に全部経験した。


(でも)


 でも。


 ユリウスは嘘をつかない。あの子が「見た」と書いたなら、本当に見たのだ。


 手紙を引き出しにしまって、修繕作業に戻った。手は動く。手だけは、いつも通りに動く。



 それから三日が経った。


 閉館間際の夕方だった。秋の陽が低くなって、図書館の窓から橙色の光が差し込んでいる。


 返却カウンターで帳簿をつけていた。今日の返却は四冊。貸出は二冊。辺境の小さな図書館としては、まあ普通の一日。


 扉が開いた。


 閉館の鐘まであと少し。駆け込みの利用者だろうか。顔を上げた。


 ──息が、止まった。


 黒い外套。宮廷魔導師の紋章は外されていた。旅の埃にまみれた革の鞄を肩にかけて、灰色の瞳が図書館の中を見回している。


 ヴォルフだった。


「……ヴォルフ、殿」


「遅くなった」


 それだけ言って、カウンターに近づいてきた。


 手に一冊の本を持っている。見覚えがあった。辺境の図書館の蔵書印が押された──私が修繕した本の一冊。


 返却期限のスタンプを確認する。


(二ヶ月前……。王宮に来る前に借りていった本だ)


「返却期限を二ヶ月過ぎています」


 自分でも驚くほど、いつもの声が出た。図書館司書の声。落ち着いた、業務的な声。


「ああ」


 ヴォルフが本をカウンターに置いた。


 何かが挟まっている。本の間から、紙片の端が覗いていた。


「……これは?」


「開け」


 本を開いた。

 紙片が一枚。


 ヴォルフの字だった。あの、無駄のない細い筆跡。辺境の図書館に通い始めた頃、貸出カードに毎回几帳面に名前を書いていた──あの字。


 一行だけ、書いてあった。


『返却期限は、ない』


 文字が滲んだ。

 ──いや、滲んでいない。私の目が滲んでいるのだ。


「……これは」


「そのままの意味だ」


 ヴォルフの声が、いつもより低い。半音ではない。もっと。喉の奥で押し殺したような、不器用な声。


「返す必要がない。期限がない。──俺は返さない」


 顔を上げた。涙で視界がぼやけている。でも灰色の瞳だけは見えた。いつもの無表情の下で、何かが必死に形を保とうとしている。感情を論理で処理しようとして、失敗して、それでもここに立っている人の顔。


(この人は、二週間かけて答えを出しに来た。辺境まで。五日かけて。馬車の時刻表を調べて。──でも「伝えることはない」と弟に言った。言葉では伝えられないから。行動で来た。この人は、いつもそうだ。いつも行動で──)


 涙が頬を伝った。止められなかった。止める気もなかった。


「……延滞料は頂きますから」


 声が震えた。笑っているのか泣いているのか自分でも分からない。たぶん両方だ。


 ヴォルフの唇の端が──ほんの少しだけ、緩んだ。


 叙任式の夜に見た、あの一瞬の表情と同じ。氷が溶ける瞬間。でも今度は一瞬ではなかった。三秒。五秒。──もっと。


「……高いのか」


「ええ。とても」


「いくらだ」


「一生分です」


 ヴォルフが黙った。


 黙って、カウンター越しに手を伸ばして──本の上に置かれた私の手に、自分の手を重ねた。


 大きな手だった。魔法の紋様が指先に薄く刻まれている。温かくて、少しだけ震えていた。


「……払う」


 一言。


 それだけで十分だった。



 閉館の鐘が鳴った。


 夕陽が図書館の窓から差し込んで、カウンターの上の本を橙色に染めている。


 返却された本を棚に戻す作業を、二人で──いや、ヴォルフは棚の場所が分からないから、私が指示して彼が本を運ぶ形で──やった。


(この人、背が高いから上の棚に手が届く。これは便利かもしれない)


 そんなことを考えている自分がおかしくて、少し笑った。


「何がおかしい」


「いえ。……ヴォルフ殿は、辺境に来るつもりだったんですか。最初から」


「三日間考えた」


「叙任式の後の三日間じゃなくて?」


「あの三日間は、別のことを考えていた」


「……何を」


「お前が何者であっても、俺にとっての事実は変わらないと確認するのに三日かかった。時間がかかりすぎた。……すまない」


(この人、あの三日間ずっと自分の感情を論理的に検証していたの……?)


 笑いたいような、泣きたいような、呆れたいような気持ちが全部まぜこぜになって、結局何も言えなかった。


「ヴォルフ殿」


「なんだ」


「この図書館、修繕が必要な本がまだたくさんあるんです」


「知っている」


「魔法灯の角度を変えてくれる人がいると、作業効率が上がります」


「効率の問題か」


「ええ。効率の問題です」


 嘘だ。

 効率なんかじゃない。でもこの人には、この言い方が一番伝わる。


 ヴォルフが──笑った。


 笑ったと言っても、口角がほんの数ミリ上がっただけだ。他の人が見たら気づかないかもしれない。でも私は見た。灰色の瞳に温度が宿った瞬間を、確かに見た。


「……なら、しばらくここにいる」


「返却期限は、ないんでしょう?」


「ああ。ない」


 窓の外では、夕陽が辺境の町を赤く染めている。


 修繕台に二脚の椅子を並べた。竹のヘラと、糊と、和紙と、魔法灯。


 返す必要のない本と、返す必要のない日々が、ここにある。

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― 新着の感想 ―
他の方も書いていらっしゃる様に、一部と二部は 似て非なる世界で別物なんですね。 あらすじに付記された方がよいかも… 一部と二部というより個人的には公爵令嬢バージョン、 伯爵令嬢バージョン、という感じで…
一章と二章、同じテーマ(断罪後、司書技術を持った転移者)で同じ章立てでオムニバスの別物(パラレル)であると理解するのに時間がかかりました。 文章復元技術という光の当たりにくいものにスポットをあてる着目…
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