第10話 返却期限は、ない
辺境の空気は、やっぱり紙とインクの匂いがする。
──ただいま。
馬車を降りた瞬間、肺の奥まで染み込んできたのは、古い本の匂いだった。王宮の書庫にもあった匂い。でも濃さが違う。ここのは埃っぽくて、少し湿気があって、カビの気配と、マルタが淹れるハーブ茶の香りが混じっている。
この匂いの中で五年間、暮らしていた。
◇
王宮を発つ前日。応接室で、王室の書記官から正式な書面を受け取った。
──アッシェンバッハ公爵家の名誉回復に伴い、爵位および資産の返還手続きを開始する。爵位の受諾について、ご本人の意思を確認したい。
書面を読んで、少し笑った。
五年前、この名前から全てが剥がされた。爵位、家名、婚約、両親、未来。何もかも。
今、それが戻ってくるという。
「……辞退します」
書記官が目を丸くした。
「私は図書館司書です。それが──私が自分で選んだ仕事ですから」
言葉にしたら、すとんと腑に落ちた。この体はエレノーラのもので、中身は佐々木志保で、でも辺境の図書館で五年間本を直してきたのは「私」だ。公爵令嬢でも、過労死した司書でもなく。ノーラという名前の、ただの司書。
それでいい。
「爵位は、弟に」
隣に座っていたルシアンが顔を上げた。
「姉さん」
「あなたが継いで。あなたが、五年間戦ったんだから」
ルシアンが口を開きかけて、閉じた。それからもう一度開いた。
「……わかった。受ける」
短い。でも、その二文字に五年分の覚悟が詰まっていた。弟は法と手続きで家名を守った。なら、家名を継ぐのはこの子がいい。
(前世では一人っ子だったから、弟がいるって……いいな)
そんなことを思いながら、書記官に辞退の署名をした。
◇
王宮を出る前、ルシアンから手紙を一通受け取った。
「王都の噂をまとめておいた。読みたくなければ読まなくていい」
読んだ。
──セドリック第二王子殿下。外交権限剥奪後、宮廷内での影響力は激減。外交交渉の席に座れなくなったことで、彼を支持していた貴族たちが離れ始めている。本人は「なぜあの時──」と悔やんでいるという噂があるが、資産流用の詳細調査が進行中であり、弁明の場はもうない。
──リゼット・エーデルシュタイン。聖女の称号は正式に剥奪。神殿からの庇護を失い、男爵家に戻された。セドリック殿下との関係は完全に破綻。社交界での居場所はない。
便箋を折り畳んだ。
(もう、関係のない人たちだ)
怒りはなかった。同情もなかった。ただ、関係がない。五年前にこの体から全てを奪った人たち。でも今の私には、あの人たちが与えようとしたものも、奪ったものも、必要ない。
私には図書館がある。修繕メモがある。修復を待っている本がある。
それで十分だ。
◇
辺境の町は、何も変わっていなかった。
麦畑の向こうに低い丘陵が続いている。石畳の通りに八百屋と肉屋とパン屋が並んでいる。図書館の前には相変わらず、グレッグさんが立っていた。
「ノーラさん! 帰ってきたのかい!」
「ただいま、グレッグさん」
「おかえり! おーい、ハンス、ノーラさんが帰ってきたぞ!」
人が集まってくる。いつもの顔ぶれ。小さな町の、小さな図書館を囲む人たち。
図書館の扉が開いた。
マルタが立っていた。エプロンで手を拭きながら。いつもと変わらない。
「ああ、やっと来たね」
やっと。
おかえり、ではなく「やっと」。何かを待っていたような言い方だった。
「……ただいま、マルタ」
「おかえり。茶が冷めるよ」
ずるい。
この人はいつもずるい。短い言葉で核心を突いて、泣かせにくる。
泣かなかった。笑った。笑って、図書館の中に入った。
古い本の匂い。埃と糊と、微かなインクの鉄の香り。五年間ずっと隣にあった匂い。そしてこれからも。
◇
閉館後。
蝋燭を灯した書庫で、修復待ちの本を棚から出していた。留守の間にマルタが仕分けてくれたらしい。几帳面な字で「優先度高」「優先度中」の付箋が貼ってある。
(マルタ……全部やってくれてたんだ)
ありがたい。明日から、また一冊ずつ直していこう。
扉が開いた。
古紙の匂いと、微かな金属のような魔力の残り香。
振り返る前に、わかった。
「……カイルさん?」
「ああ」
カイルが書庫の入口に立っていた。外套を羽織って。いつもの無表情で。辺境の図書館の扉をくぐる姿は、三ヶ月前──いや、もっと前。最初にこの図書館に来た時と同じだった。
「なぜ、ここに」
「学術院に異動願いを出した」
「異動……?」
「辺境の研究拠点への配属。公爵家の蔵書と、失われた魔法体系の地方調査。名目はいくらでもつく」
短い。素っ気ない。いつも通り。
でも──「異動願い」。宮廷魔導師が辺境に来る。国家最高位の魔導師が、王宮を離れて、この小さな図書館に。
「カイルさん、それは──宮廷魔導師の地位を」
「捨てたわけじゃない。研究拠点が変わるだけだ」
理屈は通る。通るけれど。
カイルが一歩、近づいた。
「ここがいい」
声が変わった。平坦ではなかった。低くて、少しだけ不器用で。あの書庫で「お前が誰であっても」と言った時の声に似ていた。
「お前のいる場所が」
呼吸が止まった。
カイルの右手が動いた。外套のポケットから、小さなものを取り出す。
本ではなかった。
銀色の細い環。飾りは控えめで、表面に微かな魔力の文様が刻まれている。宮廷魔導師が作った指輪だとわかった。魔力の残り香が、カイル自身の匂いと同じだったから。
「返却期限は、ない」
──返却期限。
二週間遅れの本を抱えてやってきた常連客。「善処する」と言って結局いつも遅れた男。修繕メモを五年間読み続けた人。外套をかけてくれた人。「俺の管轄だ」と言ってくれた人。隣に立ってくれた人。名前を呼んでくれた人。手を包んでくれた人。
全部。全部が、ここに繋がっていた。
「……ずるい」
声が震えた。今度は笑えなかった。
「そんな言い方、卑怯です」
「卑怯で構わない」
「返却期限がないなら……ずっと、貸し出し中ってことですか」
「そうだ」
カイルの口元が動いた。笑った。王宮の書庫で見た時よりはっきりと。あの無表情の奥に、こんな顔が隠れていた。目尻の皺。唇の端が上がる角度。それだけで、別の人間みたいに見えた。
(──ああ、だめだ。好きだ。この人のこと、好きだ)
受け取った。
指輪を。カイルの手から。銀色の環は手のひらの中で冷たくて、でもすぐに体温に馴染んだ。
「……サイズ、合ってます」
「採寸はした」
「いつ」
「書庫で寝ていた時に」
(寝てる間に指のサイズ測ったの!? この人!?)
笑いが込み上げてきた。泣きながら笑う。修復師失格だ。涙で資料を濡らす前科がまた増える。
◇
数日後。
図書館に荷物が届いた。学術院の紋章が押された木箱。
開けると、一冊の本が入っていた。
革張りの表紙。しっかりした製本。背表紙に金の箔押しで、二つの名前。
「エレノーラ・フォン・アッシェンバッハ カイル・ヴェーバー」
共同研究ノート。王宮の書庫で二人で書き溜めた、失われた魔法体系の修復記録。学術院が正式に製本したものだ。
最後のページを開いた。
カイルの字。角ばった、無骨な筆跡。修繕メモの感想を一言添える時と同じ字。
──続きは、ここで書く。
窓の外に、辺境の夕焼けが広がっている。麦畑の向こうに沈む太陽。古い紙の匂い。蝋燭ではなく、夕日の橙色が書架の背表紙を照らしている。
カウンターの向こうでマルタが茶を淹れる音がする。入口の扉がきしんで、聞き慣れた足音が近づいてくる。返却期限を守る気のない常連の足音。
本を閉じた。
──ただいま。おかえり。それだけでいい。
ここが、私の図書館だ。




