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断罪が五年前に終わっていたので今さら何をすればいいかわかりません  作者: 秋月 もみじ


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第10話 返却期限は、ない


 辺境の空気は、やっぱり紙とインクの匂いがする。


 ──ただいま。


 馬車を降りた瞬間、肺の奥まで染み込んできたのは、古い本の匂いだった。王宮の書庫にもあった匂い。でも濃さが違う。ここのは埃っぽくて、少し湿気があって、カビの気配と、マルタが淹れるハーブ茶の香りが混じっている。


 この匂いの中で五年間、暮らしていた。



 王宮を発つ前日。応接室で、王室の書記官から正式な書面を受け取った。


 ──アッシェンバッハ公爵家の名誉回復に伴い、爵位および資産の返還手続きを開始する。爵位の受諾について、ご本人の意思を確認したい。


 書面を読んで、少し笑った。


 五年前、この名前から全てが剥がされた。爵位、家名、婚約、両親、未来。何もかも。


 今、それが戻ってくるという。


 「……辞退します」


 書記官が目を丸くした。


 「私は図書館司書です。それが──私が自分で選んだ仕事ですから」


 言葉にしたら、すとんと腑に落ちた。この体はエレノーラのもので、中身は佐々木志保で、でも辺境の図書館で五年間本を直してきたのは「私」だ。公爵令嬢でも、過労死した司書でもなく。ノーラという名前の、ただの司書。


 それでいい。


 「爵位は、弟に」


 隣に座っていたルシアンが顔を上げた。


 「姉さん」


 「あなたが継いで。あなたが、五年間戦ったんだから」


 ルシアンが口を開きかけて、閉じた。それからもう一度開いた。


 「……わかった。受ける」


 短い。でも、その二文字に五年分の覚悟が詰まっていた。弟は法と手続きで家名を守った。なら、家名を継ぐのはこの子がいい。


 (前世では一人っ子だったから、弟がいるって……いいな)


 そんなことを思いながら、書記官に辞退の署名をした。



 王宮を出る前、ルシアンから手紙を一通受け取った。


 「王都の噂をまとめておいた。読みたくなければ読まなくていい」


 読んだ。


 ──セドリック第二王子殿下。外交権限剥奪後、宮廷内での影響力は激減。外交交渉の席に座れなくなったことで、彼を支持していた貴族たちが離れ始めている。本人は「なぜあの時──」と悔やんでいるという噂があるが、資産流用の詳細調査が進行中であり、弁明の場はもうない。


 ──リゼット・エーデルシュタイン。聖女の称号は正式に剥奪。神殿からの庇護を失い、男爵家に戻された。セドリック殿下との関係は完全に破綻。社交界での居場所はない。


 便箋を折り畳んだ。


 (もう、関係のない人たちだ)


 怒りはなかった。同情もなかった。ただ、関係がない。五年前にこの体から全てを奪った人たち。でも今の私には、あの人たちが与えようとしたものも、奪ったものも、必要ない。


 私には図書館がある。修繕メモがある。修復を待っている本がある。


 それで十分だ。



 辺境の町は、何も変わっていなかった。


 麦畑の向こうに低い丘陵が続いている。石畳の通りに八百屋と肉屋とパン屋が並んでいる。図書館の前には相変わらず、グレッグさんが立っていた。


 「ノーラさん! 帰ってきたのかい!」


 「ただいま、グレッグさん」


 「おかえり! おーい、ハンス、ノーラさんが帰ってきたぞ!」


 人が集まってくる。いつもの顔ぶれ。小さな町の、小さな図書館を囲む人たち。


 図書館の扉が開いた。


 マルタが立っていた。エプロンで手を拭きながら。いつもと変わらない。


 「ああ、やっと来たね」


 やっと。


 おかえり、ではなく「やっと」。何かを待っていたような言い方だった。


 「……ただいま、マルタ」


 「おかえり。茶が冷めるよ」


 ずるい。


 この人はいつもずるい。短い言葉で核心を突いて、泣かせにくる。


 泣かなかった。笑った。笑って、図書館の中に入った。


 古い本の匂い。埃と糊と、微かなインクの鉄の香り。五年間ずっと隣にあった匂い。そしてこれからも。



 閉館後。


 蝋燭を灯した書庫で、修復待ちの本を棚から出していた。留守の間にマルタが仕分けてくれたらしい。几帳面な字で「優先度高」「優先度中」の付箋が貼ってある。


 (マルタ……全部やってくれてたんだ)


 ありがたい。明日から、また一冊ずつ直していこう。


 扉が開いた。


 古紙の匂いと、微かな金属のような魔力の残り香。


 振り返る前に、わかった。


 「……カイルさん?」


 「ああ」


 カイルが書庫の入口に立っていた。外套を羽織って。いつもの無表情で。辺境の図書館の扉をくぐる姿は、三ヶ月前──いや、もっと前。最初にこの図書館に来た時と同じだった。


 「なぜ、ここに」


 「学術院に異動願いを出した」


 「異動……?」


 「辺境の研究拠点への配属。公爵家の蔵書と、失われた魔法体系の地方調査。名目はいくらでもつく」


 短い。素っ気ない。いつも通り。


 でも──「異動願い」。宮廷魔導師が辺境に来る。国家最高位の魔導師が、王宮を離れて、この小さな図書館に。


 「カイルさん、それは──宮廷魔導師の地位を」


 「捨てたわけじゃない。研究拠点が変わるだけだ」


 理屈は通る。通るけれど。


 カイルが一歩、近づいた。


 「ここがいい」


 声が変わった。平坦ではなかった。低くて、少しだけ不器用で。あの書庫で「お前が誰であっても」と言った時の声に似ていた。


 「お前のいる場所が」


 呼吸が止まった。


 カイルの右手が動いた。外套のポケットから、小さなものを取り出す。


 本ではなかった。


 銀色の細い環。飾りは控えめで、表面に微かな魔力の文様が刻まれている。宮廷魔導師が作った指輪だとわかった。魔力の残り香が、カイル自身の匂いと同じだったから。


 「返却期限は、ない」


 ──返却期限。


 二週間遅れの本を抱えてやってきた常連客。「善処する」と言って結局いつも遅れた男。修繕メモを五年間読み続けた人。外套をかけてくれた人。「俺の管轄だ」と言ってくれた人。隣に立ってくれた人。名前を呼んでくれた人。手を包んでくれた人。


 全部。全部が、ここに繋がっていた。


 「……ずるい」


 声が震えた。今度は笑えなかった。


 「そんな言い方、卑怯です」


 「卑怯で構わない」


 「返却期限がないなら……ずっと、貸し出し中ってことですか」


 「そうだ」


 カイルの口元が動いた。笑った。王宮の書庫で見た時よりはっきりと。あの無表情の奥に、こんな顔が隠れていた。目尻の皺。唇の端が上がる角度。それだけで、別の人間みたいに見えた。


 (──ああ、だめだ。好きだ。この人のこと、好きだ)


 受け取った。


 指輪を。カイルの手から。銀色の環は手のひらの中で冷たくて、でもすぐに体温に馴染んだ。


 「……サイズ、合ってます」


 「採寸はした」


 「いつ」


 「書庫で寝ていた時に」


 (寝てる間に指のサイズ測ったの!? この人!?)


 笑いが込み上げてきた。泣きながら笑う。修復師失格だ。涙で資料を濡らす前科がまた増える。



 数日後。


 図書館に荷物が届いた。学術院の紋章が押された木箱。


 開けると、一冊の本が入っていた。


 革張りの表紙。しっかりした製本。背表紙に金の箔押しで、二つの名前。


 「エレノーラ・フォン・アッシェンバッハ カイル・ヴェーバー」


 共同研究ノート。王宮の書庫で二人で書き溜めた、失われた魔法体系の修復記録。学術院が正式に製本したものだ。


 最後のページを開いた。


 カイルの字。角ばった、無骨な筆跡。修繕メモの感想を一言添える時と同じ字。


 ──続きは、ここで書く。


 窓の外に、辺境の夕焼けが広がっている。麦畑の向こうに沈む太陽。古い紙の匂い。蝋燭ではなく、夕日の橙色が書架の背表紙を照らしている。


 カウンターの向こうでマルタが茶を淹れる音がする。入口の扉がきしんで、聞き慣れた足音が近づいてくる。返却期限を守る気のない常連の足音。


 本を閉じた。


 ──ただいま。おかえり。それだけでいい。


 ここが、私の図書館だ。

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― 新着の感想 ―
>短い。でも、その二文字に五年分の覚悟が詰まっていた。 この二文字ってのがどの台詞のことなのか分からない 直前の「わかった。受ける」だとしても「わかった(四文字)。受ける(三文字)」になるんだけど
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