第1話 返却期限を二週間過ぎた本
返却期限を二週間過ぎた本が、今日も返ってこない。
──いや、それどころではないのだけれど。
修復用の刷毛を持つ指先が、かすかに震えていた。目の前にあるのは百年以上前の地誌書で、背表紙の糸がほつれ、表紙の革は乾ききってひび割れている。いつもなら慣れた作業だ。和紙──ではなく、この世界ではリン布紙と呼ぶ薄い繊維紙を、でんぷん糊で裏打ちして補強する。手順は体が覚えている。五年間、毎日やってきた。
なのに。
頭の中が、二重写しになっている。
佐々木志保。二十八歳。国立大学の附属図書館に勤める司書。保存修復学が専門で、和本も洋装本も扱った。残業が月に百時間を超えた冬の夜、帰り道で意識が遠くなって──
そこから先は、ない。
(死んだんだ、私)
刷毛の穂先がリン布紙の縁をなぞる。震えは止まった。手が、勝手に動く。修復の手順は前世でも今世でも同じだ。素材が変わっても、紙を壊さない力加減は一つしかない。
だから手は止めない。止める理由がない。
記憶が洪水のように流れ込んできたのは、三日前の朝だった。目が覚めた瞬間に「あ、ここ、ゲームの世界だ」と理解して、同時に「でも全部終わってる」と気づいた。
乙女ゲーム『星降る聖域のフィアンセ』。
悪役令嬢エレノーラ・フォン・アッシェンバッハ。公爵家の令嬢として王子と婚約し、聖女をいじめた罪で断罪され、爵位を剥奪された。
──五年前に。
攻略対象はとっくに聖女と結ばれ、ゲームのエンディングはとっくに流れ、スタッフロールはとっくに終わっている。
(今さら何をすればいいかわかりません)
その感想しか出てこない自分に、少しだけ笑えた。
◇
作業室を出ると、カウンターの向こうにマルタがいた。
「ノーラ、お昼まだでしょう。パンが硬くなるよ」
「……すみません、もう少しだけ」
「『もう少し』が三時間になるのは知ってるからね」
マルタは五十がらみの大柄な女性で、この辺境の町立図書館を二十年切り盛りしている。私がここに来た五年前──ボロボロの、何も持たない元公爵令嬢を、「司書が足りないんだよ」の一言で雇ってくれた人だ。
前の魂のエレノーラが、どれだけ救われたか。記憶の底にその感謝がまだ温かく残っている。
「パン、いただきます」
「よし。食べたら午後の返却処理お願いね」
カウンターに座って黒パンをかじっていると、窓の外を通りかかったおじさんが手を振った。八百屋のグレッグさんだ。
「ノーラさん、この前直してもらった本、孫が喜んでたよ!」
「それはよかったです。背表紙が割れていただけなので、また傷んだらいつでも」
「いやあ、あんたが来てからうちの図書館は本が長持ちするって評判でさ」
笑って手を振り返す。
五年。
公爵家は他人の手に渡り、両親はもういない。王都の社交界では「悪役令嬢エレノーラ」の名前は侮蔑の代名詞らしい。
でもこの辺境の小さな町では、誰も私をそんなふうに呼ばない。「ノーラさん」か、「うちの司書さん」。それだけだ。
(……悪くない)
黒パンは少し硬かったけれど、噛めば甘い。
◇
閉館まであと半刻。
カウンターの奥で返却本の仕分けをしていると、入口の扉がきしんだ。
「……すみません、まだ終わってなくて」
来た。
返却期限を二週間過ぎた本を抱えた、背の高い男。
黒っぽい外套に身を包んで、フードの影から覗く目は灰色──というより、薄い銀に近い。無精髭こそないが、全体的に「人と関わることに興味がない」という空気を纏っている。愛想がない。口数も少ない。
三ヶ月前からこの図書館に通い始めた常連客。名前はカイル。それ以外のことは、ほとんど知らない。
「二週間遅れです」
「……ああ」
反省の色、なし。
まあいい。辺境の町立図書館に延滞金の制度はない。マルタが「本は読みたい時に読むもんだ、罰金なんてつけたら誰も借りに来なくなる」と言って撤廃したらしい。おおらかにもほどがある。
「次はこれを」
カイルがカウンターに三冊積んだ。私が手を伸ばし、一番上の本を受け取る。
指先が触れた。
彼の指が──一瞬だけ、止まった。ような気がした。
(……気のせいか)
分厚い蔵書目録を返却棚に分類する要領で、三冊を手際よく処理する。貸出票に日付を書き込み、押印して返す。
「二週間後が期限です。今度は守ってくださいね」
「……善処する」
善処。
(それ、守る気ないやつだ)
苦笑が漏れそうになるのを堪えた。
カイルが本を受け取りながら、ぽつりと言った。
「前に借りた『ガルシュタイン地方の鉱物染料誌』──あの修繕痕、見事だった。二百年前の原本紙と補修紙の境目がほぼわからない」
「……ありがとうございます」
思わず目を丸くした。修繕痕を見る人なんて、まずいない。本の中身ではなく、修理した跡を褒められたのは──少なくともこの五年間では初めてだった。
カイルは返事を待たず、もう背を向けていた。外套の裾が揺れて、扉の向こうに消える。
律儀な人だ。
そう思いながら、扉が閉まったあとの静寂に、すこしだけ胸が温かかった。
◇
閉館。
マルタが帰り、図書館は私一人になった。
窓の外はもう暗い。蝋燭の灯りの中で、今日の貸出記録を整理する。前世の癖で、目録管理だけはどうしても丁寧にやってしまう。司書の職業病だ。
カイルの貸出リストをめくった。
三ヶ月分の記録。ざっと三十冊。
──おかしい。
指が止まった。
借りている本が、全部同じ棚だった。
「蔵書修繕記録棚」。
図書館の奥にある小さな棚で、私が五年かけて書き溜めた修繕メモを並べている場所だ。和紙の──いや、リン布紙の裏打ち技法、酸化抑制のための環境管理、接着剤の配合比率、虫損補修の手順書。全部、私が前世の知識と異世界の素材を突き合わせて、試行錯誤しながら記録したもの。
つまり、ただの作業日誌だ。
読んで面白いものではない。専門家でもなければ何が書いてあるのかすらわからないだろう。
(なんで、こればかり?)
蝋燭の炎が揺れる。
古い紙の匂いが鼻をくすぐった。カビと埃と、微かなインクの鉄の香り。この世界に来てから五年間、ずっと隣にあった匂い。
あの常連客が、三ヶ月間通い詰めて読んでいたのは──
私の、修繕メモ。
返却期限すら守れない男が、なぜこんなものを読んでいるのだろう。
答えは出ないまま、蝋燭が一つ、ぱちりと音を立てて揺れた。




