水面に映る夏
蝉が煩い夏真っ只中。空は突き抜けるような青一色に、堂々たる佇まいの入道雲が浮かぶ。
都会の喧騒から遠く離れた此処は、電車は1日2本。バスはあるけど、止まるバス停は田んぼの真ん中。。。
>>終点です。
終点で降りるのは自分だけ。大きめキャリーケースとリュックを背負った場違いな装いで、ぎこちなく小銭を集金ケースに入れて、軽く車掌さんに会釈する。
バスを降りると炎天下の洗礼。何もないアスファルトの道を暫く歩くと、徐々に民家が減る。キャリーケースのサイズを後悔しながら細く長い坂を登り、小高い丘の上に建つ古い平屋の一軒家に辿り着いた。
「はぁ、はぁ、はぁ。。着いたぁ〜!」
背負ったリュックから鍵を探し出す。
カラカラッと音を立て、玄関の引き戸を開ける。古く埃っぽい匂いと、木の匂いが混ざった独特の臭いが鼻をくすぐる。湿った空気が充満して部屋の中でも暑い。
「換気しないと⋯」
靴を脱ぎ、キャリーケースを玄関の土間から引き上げるだけにして、取り敢えずそのまま居間に向かった。
雨戸も閉まり薄暗い部屋の中、庭に繋がる障子を開ければ、細い縁側にガラス戸が並ぶ。
ガラス戸にふらりと何かが映った。「うわぁ!」思わず声を上げてしまったが、「なんだ、自分か。。」無駄に汗が出た。一つ溜息をつき、冷静さを取り戻す。
ガタガタと慣れない手つきでガラス戸と雨戸を開けると、強い日差しと共にすーっと風が抜ける。
「涼し…」
そう思ったのも束の間、蝉の声に夏を呼び戻され、じっとり汗が出る。
「全部屋開けるか…。」
「最っ⋯後!!」
漸く全ての窓を開けきると、深呼吸をするように爽やかな空気が通る。
ひと息つきたいところだけど、喉が渇いた⋯。
「水道通ってるって言ってたけど、、」
低い流し台の蛇口を捻るが、水は出ない。あれ?おかしいな⋯。持ってきたペットボトルも飲み切ったし、どうしよう…。
ふと庭に目をやると、植木に隠れているが井戸があることに気づいた。近づくと、木の蓋が蔦で覆われており、長い年月使われていなかったらしい。蔦と木の葉を除けて蓋を開ければ、吸い込まれそうな暗く深い穴。
「枯れてる?水⋯あるかな…。」
近くに置いてあった、紐が付いた桶を試しに井戸に放り入れる。
パチャンッ
良かった!枯れてない!そのまま少し水を汲み上げる。澄んだ水が太陽に照らされ、キラキラと反射する。そっと手を漬ければ、キーンと冷たい。両手でひと掬い。ゴクリと飲めば、喉から胃の中まで冷たさが通り抜けるのが分かる。パシャ!パシャ!と顔を洗い、汗を流す。
「気持ちいぃ〜!!」
もう一度汲み上げようと桶を手に取った所で、玄関から訛った声がした。
「ごめんくださいな。町内会のぉー⋯」
「はーい!」
庭から玄関に向かうと、麦わら帽子を被ったおばちゃんが、何やら重そうなビニール袋を手に立っていた。⋯第一村人発見。
「ああ、庭にいたんけ。暑かったねぇ?遠い所ご苦労ねぇ。これ、家で採った野菜と、ちぃさいけど、スイカ。持ってきたで食べ?」
「あ、ありがとうございます。」
ビニール紐の網に入った艷やかなスイカと、たっぷりの野菜を素直に受け取った。
「今到着したばかりで、、、」
「そうなの。ちょっと来んのが早かったかねぇ。長いこと空き家になっちょったから、埃っぽいでしょう?お掃除手伝おうか?」
「大丈夫です。ゆっくり片付けていきます。お気遣いありがとうございます。」
「んな遠慮せんでん、何でも言ってなぁ!こん田舎に若い子が来てくれて、村の年寄は皆嬉しいんよ。わん家は、そこ下った道の左に曲がった所だけん、何時でも頼ってなぁ?」
「はい。」
「それと、庭にある井戸だけんど、触らん方がいいからねぇ?まぁ、枯れ井戸だから水は無いんだけど、落ちると危ないでな。」
「エッ?」
枯れ井戸⋯?さっき、水、あった⋯よ?
⋯⋯怖いんですけど!!
「えっと、さっき井戸の水あったんですけど⋯?」
「んなこと無いが〜!!1年や2年の話やなくて、少なくても80年位前には枯れてた筈だけんねぇ。見てみよかぁ?」
そう言うと庭へ行くので、後ろをついて行き2人で井戸の蓋を開けた。
「やっぱり無いよ〜!ほれ。」
覗くと枯れ草が近くに見えて、太陽が真上に来たことで、底の土が見えている…。
「本当…ですね。」
「暑くて幻でも見たんやなぁ!!ほれ、顔が真っ赤っか!休みぃ!座って座って!」
火照った顔をぺしっと掌で触られて、縁側に座らされた。
「ちょっと上がらせてもらうよ〜!」
「⋯はい…。」
気付けば返事も譫言のように、頭の中で鈍く聞こえる。フワフワとしたこの感じ、多分熱中症だろう。
縁側からおばちゃんはキッチンへ向い、自分の肩に掛けていたタオルを水道水で濡らす。
「これ頭に当てて。横になって。⋯扇風機あったはず。」
「ありがとうございます。。。」
何処から出してきたのか、古い扇風機を回してくれた。畳に大の字で寝転び、額に乗せられたタオルがひんやり気持ちいい。外の暑さが分からなくなるくらいに、家の中では涼を感じる。
「ご飯食べてないでしょう?ちょっと待っててな、何か食べれそうなもの持ってくるから。⋯素麺ならあったかな?」
そう言うと、こちらの返事も聞かずに出て行ってしまった。
蝉のけたたましい鳴き声の中、乱雑な風を浴びて、ぼーっとした頭で考える。
何故、井戸の水が無かったんだろう。さっきは出なかった水道が、何故出たんだろう。はぁ…やっぱり熱のせいで見えた幻なのか。そうなんだろうな…きっと。
ーーーピチャンッッッ。
どれだけの時間が経ったのか?気が付くと、おばちゃんが隣に座り、団扇で扇いでいてくれた。
「気が付いたかね?お水だよ。飲みな?」
「あ、、、」
喉がカラカラで声が出なかった。むくりと起き上がり、渡されたコップに入った水を一気に飲み干した。
「っぷはぁっ!ありがとうございます。」
「寝ちゃってたから、無理には起こさなかったんよ。ご飯食べれるかい?」
横に目を遣ると、隣の部屋にちゃぶ台が用意され、冷涼な器に素麺が氷の欠片と共に盛り付けられている。つゆ、薬味、お漬物、おにぎりとスイカまで準備されている。
「こんなに⋯。」
「さぁさ、どうぞ。」
「いただきます。」
他人に用意された御飯なんて、久し振りだな。ちゅるりとした喉越しが、熱い体をすり抜ける。優しさを頂いてるこの感じ。申し訳なさと嬉しい気持ちが交互に来る。
「良いんだよ?何も考えず、今はただ体を休めて、たーんと召し上がれ?」
ドキッとした。心を読まれているような、、。
「ありがとうございます。」
まぁ、好意なんだから素直に受け取ろう。
何だか外が騒がしい気がしたかと思えば、おばちゃん、おじちゃん5、6人が玄関に集まっていた。
「よっちゃん!!来たよ!」
「どないしたね!?倒れたって聞いたけんど!?」
「暑いから手伝いに来たよ!ばっちゃも連れてきた〜」
「病院行ったかね〜?茂さんから聞いたけど!?」
「大丈夫かね!?」
なんだか大事になったようだ。素麺のおばちゃんが近所に話したらしい。心配して来てくれたのに追い返すことなどできず、いや、、勢いに押されて家の中に入れてしまった。
「よっちゃんが居てくれて良かったねぇ!!」
「この辺も、昔に比べて暑くなったねぇ。」
「そうよ〜?畑も大変ね。」
「皆でスイカ食べるか?」
「塩持ってくるわ。」
全員ちゃぶ台を囲み、急に始まった“集まり”に圧倒される。田舎ってこれが普通なのか⋯?
ーーーピチャンッッッ。
今、雨音みたいな音が聞こえた…?雨漏りかな?古いし仕方無い。10年間誰も住んでなかったんだから。
「ほれ、立ってないで座り?スイカ食べるでしょう?」
「ありがとうございます。」
三角錐にカットされた鮮やかな赤いスイカ。一口齧れば瑞々しい果汁が口いっぱいに広がる。
「甘いかぁ?ウチでなったスイカなんよ?」
「はい。めちゃくちゃ甘いです。」
「都会のより美味いぞぉ~?」
「まーたそんな事言って。茂さんそれ、ナントカっていうんよ?田舎もんが意地はるっちゃないね〜!」
「知らんが。ナントカってなん?」
多分、マウント……。
言う間もなく、話題は畑の野菜の話になり置いていかれる。すると、スマホが鳴った。
「ちょっと電話を…。」
誰も聞いてない一言を言い、その場を離れ電話に出た。
「もしもし。」
『おっ!着いたか〜?』
「うん。すぐ連絡できなくてごめん。」
『無事着いたなら良いよ。迷わなかったか?』
「大丈夫。書いてもらった地図があったから。」
『そうか。ん?後ろ騒がしいけど、何かあったのか?』
「ん?あぁ〜、ちょっと熱中症みたいになっちゃって、、」
『エッ!体大丈夫か?』
「心配いらないよ。たまたま訪ねて来た人が助けてくれたんだ。そしたら近所の人達が集まって来ちゃって。」
『そうだったのか。まぁ、田舎は若者が来てくれるのを喜ぶって言うしな。物珍しいのもあるんだろうよ。』
「そうなんだね。ちょっと圧倒されちゃって。」
『ははははっ!びっくりするよな!田舎なんてそんなもんだろ。好意だろうから、気にすんな!!俺も、小さい時の2回位しか行ってないからなぁ。そうそう、家はどうだ?家具とか物がそのままだろう?』
「うん。まだ全部の部屋見に行ってはないけど。」
『好きに使ってくれていいからな!空き家になるよりマシだ。いつまででも居てくれて良いぞ〜!』
「いや、仕事探さないと。」
『田舎は畑仕事があるぞ!!』
「そういうことじゃない!!」
『ま、焦っても仕方ないさ。ゆっくり心と身体を休めてくれ。そこは、そういう所だ。』
「うん。ありがとう。」
『じゃ、困ったら連絡してこいよ!!またな。』
この家は叔父さんが紹介してくれた、祖父母の家。祖父母が亡くなってから叔父さんが相続していたけど、途中から空き家のまま10年。丁度3ヶ月前、仕事で死にかけていた時に電話をくれた叔父さんは、話を聞いてくれた。
一人暮らしの新生活、新社会人。不安と期待で胸が一杯だった。崩れ始めたのは何時からだろう…。上司の圧力、同期に先を越される不安。身に覚えの無いミス。仕事と家事が両立出来ない苛立ち。上手く立ち回れない自分のせいだと思い込み、必要な人にならなくちゃと精一杯努力した。けど、
眠れない、動けない、、眠れない⋯眠れない……。そんな時、掛かってきた電話だった。
『そうか。。。一つ、頼まれてくれないか?』
退職⋯口に出したら、あっという間だった。こんな簡単なことだったのかと、呆れる程に。こうして遺品整理という名の休暇を取ることになった。
「酒、飲めるか?」
電話を終え、声を掛けられた。茂さんって呼ばれてた人だ。
「はい。少し⋯なら。」
「よし決まりだ!!みっちゃん!酒〜」
「まーた呑むの!?夕飯まで駄目だよ〜!」
「いい~じゃないか!秀さんも一緒に。ねぇ!!」
「ワシも入れてもらおぅかねぇ!!」
「ケイちゃんまで!もう!まあ⋯皆で呑むかねぇ!?」
「引っ越し祝いじゃ!」
「住むとは言ってないんですが⋯」
こうして酒盛りが始まった。
日が落ち始め、一旦帰ったおばちゃん達は再び集まった。
持ち寄ったお酒のアテは、定番の枝豆から煮物まで種類豊富なおばちゃん達の手料理で、小さなちゃぶ台は一杯になった。
「じゃ、カンパーイ!!」
【カンパーイ!!】
既に出来上がってる茂さんが音頭を取った。おじちゃん3人は、邪魔だと言わんばかりに家に置いて行かれ、先に呑み始めていたから既にベロンベロンだ。
「沢山食べてな。こん煮物、口に合うか分からんっちゃけど。」
「いただきます。」
ふっくらと煮込まれた南瓜は、醤油が染み込みホクホク。意外にも濃い目の味付けだ。
「美味しいです。」
「やろう?さっちゃんの煮物は濃い目だから、美味い!」
「悪かったわねぇ!薄味で。」
「ううん!味濃くして、早死にさせるんやで。」
「んなぁ〜!?」
ガハハハッッッと笑い合うお年寄り達は、ブラックジョークが冴え渡っていた。
「悪かったねぇ、押しかけて呑んだくれちゃって。さっ帰るよぉ!!」
「まだ、、、んぉ~」
「いえ、こちらこそご馳走様でした。お気を付けて。」
「ありがとうねぇ。はいはい!!しっかりしぃ!!」
おばちゃん達は千鳥足のおじちゃん達を支えながら、帰っていった。
「疲れた⋯」
誰もいなくなった静かな畳に、ペタリとうつ伏せる。蝉の声も、いつの間にか聞こえなくなり、藺草は長い年月をかけて家に馴染んだようだ。
重い体をもたげ片付けようと、立ち上がる。
ちゃぶ台に残ったのは、人数分のコップや箸。低い流し台で、キュルッと音を立て蛇口を捻る。沢山の食器を洗うなんて、何だか厨房の洗い場のようでちょっと楽しかった。
食器から水滴が滴り、静けさを感じる。
そのままにしていたキャリーケースを開き、風呂セットを取り出す。
タオルやジャージを持って、風呂場へ向かう。少し足がふらつくのは、お酒が強かったのかそれとも、長距離移動で疲労したのか?何方にしろ、今までに感じたことのない充足感だった。
ーーーピチャンッッッ。
食器から水が垂れたにしては、大きく響いたように感じた。そう言えば、昼間にも聞こえた様な…。雨漏りしてるのか。何処だろう?取り敢えず、この部屋は水が垂れてない…。風呂場に行きながら探そう。
風呂場を開けて声が出た。
「マジかぁ…」五右衛門風呂だった。
やったこと無い⋯出来る気がしない…。さっきのおばちゃんに使い方を聞こうにも、日は落ちきって真っ暗。御飯までご馳走になったのに、訪ねて行くのも悪いしな…。
そっと扉を閉めて、今日は諦めることにした。
何処も雨漏りはしていない。廊下を歩くと軋む床、低い天井から吊られたぼんやりと光る蛍光灯。古いとはいえ、綺麗に片付きまるで誰かが住んでいたような⋯。勝手に背筋がゾクリとする。
誰も居ないと思えば思う程、子供のように恐怖を感じてしまう。
濡らしたタオルで体を拭き、着替えだけ済ませた。キャリーケースを開け寝袋を取り出す。
「使うことになるとは…。」
コレは、一時誰かに聞いた“安眠出来る”と言われ買ってみた寝袋。思った効果は得られずだった。此処の布団を出してそのまま寝られる程、自分は野生的ではないのでコレを使うことにした。
電気を消し、寝袋に入ったは良いが⋯暑い!!仕方なく寝袋から這い出て、障子を開ける。少しガラス戸も開けて外の空気を入れた。
隙間に浮かぶ月が、一筋の光を何処までも伸ばす。寝袋をペタンコにして、上に寝そべる。昼間の暑さは何処に行ったのだろう?目を閉じ、肌で感じる湿度は高く無くさらりとした風が頬を撫でる。
ーーーピチャンッッッ。
雨音が響いた。パッと開けた目に映ったのは、輝きながら揺らめく水面を見上げているよう。
「エッ!ゴボォッッ○。゜」
水の中だ!!急いで見上げる水面に顔を出す。
「ッップファァア!!死ぬかと思った……。此処⋯何処⋯?」
辺りを木々に囲まれた湖のようだった。湖の水位は膝丈位。そして異様なのは、半分以上沈んだ鳥居が湖の中央にあること。
ーーーピチャンッッッ。
再び水音が響き渡ると湖に波紋が広がる。
「君は何故、此処に居るの?」
声の主は鳥居の上だ。着物を着た少女。
「此処は何処?貴方は誰?」
「此処は夢を貯めておく所だよ。ほら、また。」
ーーーピチャンッッッ。
音がすれば波紋が広がるのに、水粒は見えない。
「私の役目は此処を見守ること。」
「それだけ⋯?」
「そう。それだけ。」
「一杯になったら、どうするの⋯?」
「一杯になったら、此処は消えてしまう。」
「どういう事?」
「時間は無い。君は彼処から出られなくなる⋯」
ーーーピチャンッッッ。
瞬きをした瞬間、そこはあの家。足元にズレた寝袋、背中には汗をびっしょりとかいていた。朝日が昇り開けたガラス戸から、熱風が入り込む。
「ゆ⋯め⋯?」
何を思ったか、井戸を覗きに行った。何となく、ただ、なんとなく桶を放り入れてみる。
パチャンッ
「やっぱり、水がある。」
再び掬い上げた水は透明で冷たく、あの夢で見た湖の様に輝いていた。
顔を洗い身支度をしてから、一応遺品整理と掃除を始めた。
すると、タンスから一冊のアルバムが出てきた。
「白黒だ……あっ!じいちゃんと、ばあちゃん若いな…。あれ?この人達⋯」
一緒に写るおじちゃんとおばちゃん達に見覚えがあった。昨日酒盛りしてた、茂さん、秀さん、さっちゃんと呼ばれていた人も皆揃っている。
「コレは、どういう…?」
混乱する。昨日話した人達は生きてる人?いや、写真に写る姿は昨日の姿と同じ…。鳥肌が立つ。ここに居たら行けない気がした。夢での少女の言葉が蘇る。
【君は彼処から出られなくなる】
持って来た荷物を急ぎキャリーケースに詰めた。何もかもそのままに、靴を履き外に出た所で、あの音が響く。
ーーーピチャンッッッ。
瞬きをした次にはまた、あの湖。以前より水位が上がっている。腰まで浸かっている。
「駄目だ!嫌だ!帰りたい!!夢なら覚めろ!」
「何故?君に帰るところはあるの?蔑み疎まれ、辛い、哀しい、そんなの誰も聞いてはくれないよ。君の生きる意味はあるの?」
そうだ。誰も必要としてくれない人生だった。いつも、声を上げることすら出来なくて…。
「此処にならあるよ。君が欲する優しさも、癒やしも全部。君の思う通りになる。此処にずっといれば良い。夢を貯めて永遠に。」
「永遠⋯。」
「そう。水面に映し出す夢。あの人達と同じ様に、ずっと。」
少女が指差す先に映る水面下に、茂さん達が居た。
「一緒に居れば、苦しく逝く事も無かったのに。あゝ、君のお爺さんとお婆さんも此処に来たんだよ?」
「じいちゃんとばあちゃんも⋯?」
「でも、嫌がって帰ってしまった。永遠よりも、有限が良いと。丁度、君が生まれると聞いた時だったかな?」
「エッ。」
じいちゃんとばあちゃんは、自分が産まれてすぐ亡くなったと聞いた。だから会ったことはなくて、赤子の自分を抱いてる写真だけ見た。目を赤らめて笑いかける姿は、とても優しく慈愛に満ちていた。ばあちゃんは気管支の病を患い、じいちゃんも末期癌だったが、自分が産まれるのを見届けたかのように、亡くなったらしい。
「傷も痛みも無いのに、どうしてだろうか。君は無限が良い?有限が良い?」
「有限でいい。」
「“で良い”かぁ。そこまで君には希望が無いんだね?だったら、無理に帰る必要は無いよ。」
ーーーピチャンッッッ。
今度は強い光に包まれ思わず目を瞑った。
そっと目を開けると、また、あの家の中で畳に座っていた。
どうしよう。どうしたらここから出られる?いや、帰りたいか?自分の言葉が(有限)だった事に迷いは無かった。でも、咄嗟に“で良い”と言った。そこに願望が無かった事は確かだ。
「どうしたら良い〜!?」
「何か困ったかねぇ?話してみぃ?」
「あ、いえ、その…。」
さっちゃんと呼べれていた人が、縁側に座っていた。
話していいのか?この人達は無限を選んだ人。その人達に今のフワッとした気持ちを、自分の事を、聞いてもらっても良いのか?
「迷っとるんかぁね?井戸水あったって言った時から、彼処に行ったっちゃないかぁ思ったけど。」
ドキッとした。やっぱり生きた人達とは何か違うのだろうか?
「死んでるんはそうやけど、それだけじゃない。年の功もあるし、何よりもあんたの話を聞こうとしとるっちゃ。汲み取ろうって。あんたが他人のことを気にして、自分の気持ちを曖昧にしてきちゃったんやなか?だから、今迷っとるんじゃねぇ。」
「⋯⋯はい…。」
ぽろりと涙が伝う。確かに汲み取ろうとするばっかりだった。今怒っているか、相手がどう思っているか。先に感じ取り、勝手に強張って、相手に合わせて自分の意見は無い。図星だった。
「帰りたい…。けど、また“で良い”と言ってしまって。」
「そうけぇ。しょうが無いねぇ。それも優しさじゃ。あんたの良いとこよ?だけど、染み付いて取れんのねぇ。なら、帰ってやりたい事は無いの?」
「やりたい事…。」
「あんたの先は長い。ワシらとは違う。未来はだーれも分からん。自分も変われるんじゃなか?」
「はい。」
「なぁ〜に!皆ここにおって楽しいんじゃ!おまえさんも、おったらええ!」
秀さんがポンと肩を叩く。何時から居たのか皆揃って座っている。
「いえ、帰ります。自分が変わる為に。でも、帰り方が分からなくて。」
「そうか。残念やなぁ。ほんなら、あの井戸に入ると彼処に行けるけ。行っておいで。」
「そうなんですか?」
「それは!!⋯」
「そうよぉ。前も行った人おったけ。安心しぃ?」
さっちゃんは何か言いかけた。だが遮られ口を噤んだ。
「分かりました。では、行ってきます。」
「頑張りぃ!!」
井戸に足をかけ縁に立つ。真っ暗で足がすくむ。怖い。行け!帰りたい!!帰るんだ!!!
意を決して飛び込んだ。
ザァボンッッッッ!!と水に包まれる。
深い!足はつかない。重く、暗い。まるで深海の様に何も無い。見上げると一筋の光が見えた。光に向かって必死に藻掻くが、息が続かない!もうダメ⋯⋯
ーーーピチャンッッッ。
「⋯⋯丈夫⋯大丈夫?」
「ゲェ゙ホッ!ゲホッゲホッ!!⋯此処⋯」
澄んだ湖、鮮やかな深緑、大きな鳥居。少女の居たアノ場所だ。水位が急激に上がっている。足がつかないから、小舟に乗せられたようだ。
「君はあの人達を信じたんだね。私はもう長く持たない。さすれば、この永遠の夢も潰える。だから私の代わりをと思ったのでしょう。あの人達は永遠の夢がなくならないよう、君を身代わりによこしたんだ。分かる?」
「それは、騙されたって事⋯?」
「そう。」
「そんなっ!もう、帰れない!?」
「君はそこが大事なのかい?騙されたんだよ?あの人達を恨めしいとは思わないの?」
「重要じゃない。騙されるのは慣れてる。」
「不思議な人。やりたいことも無いのに帰りたがるし、裏切りに慣れてるから恨まない。馬鹿なの?」
「馬鹿だよ。ずっと馬鹿だった!やりたいことなんて分からないし、人の気持ちを汲み取るなんて最初から出来っ来ないんだ。自分の気持ちもハッキリ言えない奴に、誰の気持ちも分かりっこない!!その為に自分を変える!今度はハッキリ言う!帰りたい!!有限“が良い”!!帰る方法を教えてくれ!」
「⋯ふふふっ!分かったよ。私はここにいるよ。永遠に。」
そうっと小舟が動き出し鳥居の下に停まった。
「私も君のように変わろうとしたら、此処から出られたかもね。」
「えっ?」
「じゃあね。」
少女が舟の先に立つと、宙を浮き鳥居の上に上がった。同時に水位がどんどん下がり、鳥居が徐々に本来の姿を取り戻す。
見上げる鳥居は空へと吸い込まれていき、小舟は地上へと降り立つ。
煌々と輝きを放つ世界に目を伏せたーー。
薄く目を開ける。
「気が付いたのねっ!!良かった。良かったっっ!」
ベッドに寝そべる自分の横には、母と医者。点滴に繋がれた腕は細く、見る影も無い。
「もう大丈夫でしょう。後は経過を見てリハビリをしていきましょう。」
「ありがとうございますっ!ありがとうございますっ!」
後に聞いた話では、海に飛び込み自殺を図った自分を、見知らぬお爺さんが船に乗っていて助けてくれたらしい。そのお爺さんには一人娘がいて、昔同じく入水自殺を図り帰らぬ人となったとか。
夏の終わり、ヒグラシが窓の外から聞こえる。
消毒の香りに包まれ、歩行訓練をする。3カ月寝たきりだった為に取り戻すのは簡単では無い。だが、諦めない。今度は変わる為に努力していく。汲み取る訳でも、他人の為でもなく、自分の言いたいことを言えるように。伝える事を諦めないように。救ってくれたお爺さんに恥じぬ様、少女に出来なかったことを。生きていける未来があるんだからーーー。