夜
時刻は二十三時半を過ぎていた。明日からのことを考えて眠ろうとするけれど、鼓動は速く、呼吸は荒い。まるでこの世界からドロップアウトしたくなるような、そんな日々が続いている。
仕方なくスマホを開くと、そこには充実した生活を送る人たちや、明るい未来を掴んでいるような人たちの姿ばかりが並んでいた。まるで「お前にはこの場所は似合わない」と、ネットの世界そのものに突き放されているようだった。
私は、夜の東京が好きだ。眠ることのない街、明るく灯るLEDの光、肌に触れるほどよく冷たい風、居酒屋から聞こえる歌声。東京の夜はいつでも起きていて、風や光が「独りじゃないよ」と語りかけてくれているように感じられる。
けれど、それは東京だけの話じゃなかった。私が住むこの街にも、似たような何かがあることに気づいた。ゴールデンウィーク最終日の夜、いつものように、ふと寂しさに襲われた。久しぶりに窓を開けると、東京を思わせる風が震えた肌に優しく触れた。
「これだ」と思った。これこそ私の好きな風だ。
その風に触れた瞬間、身体全体が歓迎しはじめた。鼻は「ようこそ」と言うように空気を吸い込み、目は「はじめまして」と言うように涙を流す。私が思うよりもずっと、身体は喜んでいた。
「元気にならなきゃ」「明るく振る舞わなきゃ」――そんなことは、もう十分すぎるほど分かっている。それでも、風は私のそんな気持ちを、そっと抱えてどこかへ吹き飛ばしてくれるようだった。
ありがとう。
窓を閉めて、私は元の場所、つまり自分の部屋へと戻る。風では流れきらない想いたち――辛かったこと、寂しかったことを胸に抱えながら、「仕方なく」明日のために眠ろうとする。ふらふらとした身体に重心を預け、安定剤を飲むために一階へ降りた。階段の木が軋む音を、できるだけ立てないようにそっと。
けれど、飲んでも何も変わらなかった。
この、どこか寂しくて、ふわふわした感じ。胸の奥のもやもや。それは、私を苦しめる天才だった。
何をしても良くならない夜は、最終手段に頼るしかない。やってはいけないことだと分かっている。でも、やらなければ私は壊れてしまう。もやもやに押しつぶされて、自分が自分じゃなくなってしまう。
そんなことを思いながら、そっと文具置き場へ手を伸ばす。青いプラスチックの軸に包まれた、先の尖ったもの。それを二の腕に優しく当て、横に引く。何度も、何度も。
やがて、腕には赤い直線が浮かび上がる。定規で引いたようにまっすぐな線。それが、私をこのもやもやから引き離してくれる、たったひとつの方法になってしまっている。
分かってる。分かってるよ。でも、それでも。
部屋に戻ると、窓の外から雨の音が聞こえてきた。私だけが泣いているんじゃない。空も泣いているんだ、と教えてくれるように。
空も泣く。辛いときは、泣く。
それはなぜなんだろう。そんなことを考えながら、今、私はこの文を書いている。