第54話 待雪草は紅く舞う
地獄のような場所から見るそのキラキラとした景色はまるで手の届かない理想郷のように感じた。
その場所から風が届けてくれる小さな小さな音は、ほんの少し凛桜の気持ちを和らげてあげようとするかのように耳から全身へと広がっていく。
だが完全に心が折れてしまっている凛桜はそれを聞いても幸せな光景を見せつけられているという風に感じてしまうだけで、嫉妬の気持ちの方が湧き上がってくるようだった。
ただ、頭の片隅である人の顔が思い浮かぶ。
(奏…あそこで頑張ってるのかな…。できたら最後に会いたかったな…。)
ツツーと一粒の涙が凛桜の右目から零れ落ちる。
そしてその涙が顔から流れ落ちる時、鬼山の無慈悲な腕が凛桜の息の根を止めようとゆっくりと近付いてくる。
「芸術的と思ってまうくらい最高の表情やな。やっぱりお前を最高の状態で喰うために葛西の誘いに乗ったり、色々泳がせてここまでして良かったわ。どうや?ええ夢見れたやろ?」
鬼山はそう言うと、全く抵抗をしない凛桜の首根っこを掴むために喜びで震える右手を伸ばしていく。
そして凛桜は諦めて目を瞑る。
いや、全て投げ出し逃げてしまうために鬼山という仇敵の手に縋ろうとしているのだ。最も恥ずべき選択だと心の奥底では凛桜も分かっているが、もうそこ迄考えている余裕も余力も凛桜には残されていなかった。
(なんだか…分かんないけど…ゴメンナサイ……。)
死を受け入れて目を瞑ったその暗闇から、突然『バキッ!』という音が聞こえる。
凛桜がゆっくりと目を開けると自分を守るかのように両手を広げる雪の背中が見えた。
バキッという音は鬼山の右手を雪が蹴り上げた音だったのだ。
「ほん…まに……お前はぁぁぁ!!!何回俺にやられに来るんや!!!お前にはもう興味ないって言うたやろうが!!!」
「何回って?殺すまで。」
雪が2度も完膚なきまでに倒された相手に気丈に立ち向かうのには計り知れない程の勇気が必要だっただろう。
急いでやって来た雪の身体には雑に巻かれた包帯で止血がされているが、どの箇所も血が滲んでいて目に見えて限界を超えているのが分かる。
そんな雪の姿を見た凛桜は余計に自責の念に押し潰されそうになる。
「雪さん…もういいんだよ…。私が死ねば全部終わるんだよ…。だからもうそんな傷だらけになってまで戦わないで!」
「お嬢うるさい!!もうそこで黙って座って待ってて!!そしたら奇跡が起きるかもしれないから!!」
「奇跡…?そんなのもう…起きるわけないよ…。」
地面にへたり込んだ凛桜は下を向いて静かに涙をポタポタと落とす。
そんな予想より遥かに闇に飲み込まれている凛桜を見た雪は『チッ!』と舌打ちをしてナイフを構えて鬼山の方へと意識を向ける。
「あーあ…こんなに頑張るなんて…。雪も変わったな…。今度はお嬢が変わる番だよ…。」
雪はそう呟くと、奇跡が起きる事を信じてまた月明かりに照らされながら鬼山という怪物に立ち向かうのだった。
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時間は少し遡って、三嶋が雪の伝言をマリアに伝えた所に戻る。
マリアはしばらくスマホを見つめたまま固まっていたが、突然何もしないままスマホをポケットの中に戻した。
それを見た三嶋は思わずマリアの両肩を掴んで激しく揺らしながら問いただす。
「おい!何をしているんだ!奏さんに連絡を取らないといけないんだぞ!」
「分かってるわ!けど奏はあかんねん…。これ以上巻き込んだらあかん…。ここからこの状況を巻き返したらええんやろ!?やったるわ!!」
そしてマリアはそのまま『うぉぉぉ!!!』と劣勢の乱戦の中に飛び込んでいった。
三嶋の『ちょっと待て!!』という制止の言葉も聞こえないふりをしてマリアは人ごみの中に消えていく。
そんな自暴自棄な行動をしたマリアに三嶋まで絶望の波が押し寄せてきて心が折れそうになる。
「三嶋さん。私達は私達の出来ることを最後までします。ですから三嶋さんだけでも隙をついて逃げて下さい。」
アマネは三嶋にいつもの優しい笑顔と共にそう告げるとマリアの後を追っていった。
2人の背中を見送ることしかできなかった三嶋は自分への怒りで地面をドンドンッと何度も殴った。
そして怒りは悔しさに、最後は不甲斐なさに変わってそれが大量の涙となり溢れ出す。
「くそっ!くそっ!くそっ!雪さんすまない…。奏さんは来ない…。もうどうにもできない…!」
こうして雪の願い信じた奇跡は、人々の複雑な想いや感情によって失敗に終わってしまった。
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そして奇跡への道筋が潰えてから30分後の倉庫の屋上では、未だにその事を知らない雪が鬼山に対して奮闘していた。
まさに命を擦り減らすような雪の猛攻にあの鬼山ですら手を焼くほどであった。
「なんやねんお前は…さっき下では全然弱かったくせに今はあの男よりも強く感じるぞ…。」
「なに?雪ちゃんに…ビビってんの…?」
そしてまた空中を自由に飛び上がって舞うように雪は鬼山を攻める。
そんな雪の身体からは、血が真っ赤な花びらのように散っていく。
その儚くも美しい雪の姿を見た鬼山は思わず『おぉ…』と感嘆の声を上げてしまった。
だが、とっくに雪の動きを見切っていた鬼山は、近くに落ちていた拳の大きさ程のコンクリートを拾い上げると、それで襲いかかる雪のナイフを受け止めてその刃を折ってしまった。
雪は折られたナイフの柄の部分をすぐに捨てて、少し先に落ちたナイフの刃の部分を急いで取りに行こうとするが、そんな隙を見逃さなかった鬼山に腹を蹴られて阻止されてしまう。
強烈な蹴りを食らった雪は『ガハッ!!』と言いながら、ずっとへたり込んだままの凛桜の近くまで吹き飛ばされた。
「おっ!丁度ええやんけ。そのまま2人で寄り添っとけや。まとめて殺したるからな。」
(ま…まだあいつは来ないの…。もう十分時間は稼いだはずなのに…。まさか…『連れて』これなかった!?失敗した!?)
鬼山の強烈な蹴りのダメージのせいで呼吸が乱れた雪は、その苦しい中でもまた両手を広げて凛桜を守ろうとする。
「雪さん…もういいよ!もういいから逃げて!もう誰も私の前で死なないで!!」
凛桜がそう言いながら背中に抱きついてくるが雪はそちらを一切見ないで言葉も掛けない。
雪が見ているのは外階段から続く屋上の入り口だった。
「いやいや、まさか死にかけてたお前が最後にこんなに楽しませてくれるとは思わんかったわ。雪…やったな。覚えといたるわ。」
鬼山が雪にそう語りかけると殺意と悪意が混じり合ったあの凶悪な拳を大きくを振りかざす。
凛桜はまた自分の大切な人を奪われる恐怖と絶望にまた雪に大声でお願いをする。
「雪さん!!!お願いだからもう逃げて!!!私はどうなってもいいから!!!」
しかし時はすでに遅く、鬼山の拳が雪の顔面を捉えて振り下ろされる。
そんな最悪な状況の中、何故か雪は嬉しそうに『キャハ…』といつも通り笑うと凛桜にやっと返事を返してきた。
「お嬢。雪は逃げないよ。だって…奇跡は起きたから。」
その雪の変化に気付いた鬼山は振り下ろす拳を止めて、後ろを振り返る。
するとそこに見えたのは、棒崎が持っていたスタンガンを鬼山目掛けて放とうとしている奏の姿だった。
「サンダーーーー!!アターーーーック!!!」
そんな子供でも恥ずかしくて言えないようなダサい技名を叫びながら奏はスタンガンのスイッチを押す。
そして高速で放たれたスタンガンの先端が鬼山に刺さると、鬼山は激しい電撃によりまた膝をついて沈黙させられてしまう。
その隙に奏は凛桜達の元へ急ぎ、2人に肩を貸しながら鬼山から大きく距離を取る。
未だに状況が飲み込めていない凛桜はキョトンとした顔でジッと奏の顔を見つめる。それはまるで月明かりが作り出した幻を見るような目だった。
それに気付いた奏は座り込んだままの凛桜の頭にポンッと手を置く。
そして、凛桜の大好きなあの明るくて自信に溢れた笑顔でこう言うのだ。
「助けに来たよ!」
奏のその一言を聞いた雪は確信する。
奇跡は必ず起きると。




