二度目の人生、運命の相手はすぐそばに
夢を見た。息のできない水の中で、もがき苦しむ夢。周りには人がいるのに、誰も手を差し伸べてはくれない。前の人生でも度々見ていた夢だ。
二度目の人生。平穏な毎日を過ごしているはずなのに、私の心はどこか落ち着かない。前世での記憶が、時折胸に重くのしかかるのだ。他人の顔色をうかがう癖は、あの時から変わっていない。
前の人生と違うところといえば、貴族令嬢として生まれたがために、お世話の従者がいるということくらい。
――
目が覚めると、ひどく汗をかいていた。着替えを済まし鏡を見る。くっきりと整った顔立ちに、きれいな金色の長い髪の毛。透き通るように白い肌。この世界での私リリアナ・ブラウンはブラウン男爵家の一人娘。前世と比べると容姿は抜群に良い。でも、鏡に映らない私の内面は……。
「失礼します。 お嬢様お目覚めですか。」
「ええ。 起きているわ。 入って頂戴。」
ノックの音に返事をすると、従者のリヒトが入ってきた。
私が幼い頃から仕えてくれる従者のリヒトは私の7つ上で24歳。彼は私の顔を見ると少し驚いたように尋ねた。
「お嬢様。 今日は何かお悩みがお有りですか? 少し顔色がすぐれないように見えます。」
「いえ、リヒト。 私は大丈夫よ。 少し嫌な夢を見ただけ。 今日の予定は変わりないかしら。」
「朝食の後、旦那様がお呼びです。」
「そう…… 何のお話かしら。」
リヒトの言葉に少しだけ心がざわつく。こうして父が私を呼ぶ時は、いつも何か大事な話がある。いったい何の話だろうか……。重く感じる足取りのまま、私は食堂に向かった。
朝食を終え、父が居る書斎に入ると、表情はいつも通り穏やかだった。しかし、その穏やかさが逆に私を不安にさせる。
「リリアナ、話がある。セルリアン子爵家のアベル様と正式に婚約をすることになった。」
ああもうなのか、と心の中で呟いた。前世では結婚とは無縁の生活を送っていた私にとって、この話は喜ぶべきことなのだろうか。嬉しいような、寂しいような……複雑な感情が胸に渦巻いている。
「婚約……そうですか。」
かろうじて声を絞り出したが、心の中は混乱していた。
私は現在17歳、学園では最高学年の3年生で、あと数ヶ月で卒業することになっている。前世は男女関係なく働きに出る世の中であったが、この世界の貴族は違う。女性は子を生む性別として学園を卒業したらほとんどが嫁に出される。
「次の休みには顔合わせ会があるから準備しておくように。 下がっていいぞ。」
「失礼します。」
モヤモヤを抱えながら、私は自室へと戻った。
――
扉を開けると、爽やかな香りがした。
「お嬢様。 お茶の用意ができています。」
「ありがとう。 リヒト。 私婚約するらしいわ。」
「それは、おめでたいですね。 お相手は?」
その声は穏やかだったが、どこか感情を押し殺したように聞こえた。
「セルリアン子爵家のアベル様よ。商人から身を起こして子爵になられた方らしいわ。きっと血筋目当てなんでしょうね。私の家も最近財政が厳しいし、お父様にとっては苦渋の決断だったのだと思う。」
リヒトはわずかに眉をひそめたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「そうですか……私はお嬢様の幸せを願っています。」
彼はティーカップを私に差し出しながら続けた。
「実感が無いのよ。 私はまだ17歳よ。」
私はそっとカップの縁をなぞった。
「もしかしたら、貴族にしては遅いほうかもしれません。 生まれたときから結婚相手が決まってるということもあるのですよ。」
リヒトは優しく微笑んで言った。その目の奥に隠された何かを私は読み取れずにいた。
彼が淹れてくれたお茶を一口飲む。いつもながら、彼の淹れるお茶はどこか落ち着く味だ。
「リヒトが淹れてくれるお茶は本当に不思議ね。心がホッとするわ。」
「お嬢様のお好みに合わせておりますので。」
リヒトはいつも通りの微笑みを浮かべてそう言ったが、その何気ない言葉に、なぜだか私の心が少しざわつく。
――
婚約者のアベル様との顔合わせ会当日。私は窓の外をぼんやりと見つめながら、胸の奥で重く響く緊張を感じていた。家中が慌ただしく動き回り、準備が進められている。
「お嬢様、お支度の準備が整いました。」
リヒトの穏やかな声に現実へと引き戻される。いつもと変わらない落ち着いた態度の彼を見て、少しだけ気が楽になる。
「ありがとう、リヒト。今日は少し緊張しているわ。」
「大丈夫ですよお嬢様。あなたらしく、自然に振る舞えばいいのです。」
彼の言葉は優しいが、今日はその優しささえもどこか遠く感じてしまう。これから待っている新しい未来への一歩を、私はまだ覚悟しきれていないのだろうか。
ブラウン男爵家の大広間は、美しい花々で飾られていた。
「到着されたようです。間もなくいらっしゃるかと。」
「ありがとう。」
――
「失礼いたします。」
扉が開き、セルリアン子爵とその息子アベルが現れた。アベルは上品で洗練された身のこなしで、大広間に足を踏み入れる。青い瞳が笑顔と共に輝き、穏やかで誰にでも好感を持たせるような振る舞いを見せている。
「ブラウン男爵、大変温かい歓迎痛み入ります。 このような機会を設けていただき大変光栄です。 こちらが息子のアベルです。」
肥えた体に贅沢な衣服をまとったセルリアン子爵は手入れの行き届いたヒゲを撫でながら舐め回すような視線で大広間を見渡していた。
「こちらこそ、セルリアン子爵。我が家にお越しいただき光栄です。アベル様、リリアナもお会いするのを楽しみにしておりました。」
「男爵、そしてリリアナ様、初めまして。セルリアン子爵家のアベル・セルリアンです。お目にかかれて光栄です。」
彼は完璧な礼儀作法で挨拶をする。彼の物腰の柔らかさに、私はほんの少しだけ緊張が和らぐのを感じた。
「私こそ、お目にかかれて光栄です、アベル様。」
そんな私の返事に、彼は柔らかく微笑んで頷く。
「リリアナ様のお噂はよく耳にしております。非常にご聡明で、美しいお方だと伺っていましたが、まさにその通りでございますね。」
アベルは褒め言葉を並べ立て、周囲に気を配る。彼の話し方は洗練されていて、誰もが彼を称賛するだろう。
「リリアナ、今はバラが見頃だろう。 アベル様を庭に案内してあげなさい。」
「はい、お父様。 それではアベル様、こちらへ。」
「ありがとうございます。 リリアナ様。」
アベルは礼儀正しい笑顔を見せ、私のあとに続く。
バラの香りが風に乗って二人を包む。
「こちらがブラウン家自慢の庭園になります。今の時期ですと、あちらの白バラが見頃となっております。」
小さな頃から思い出の場所だった庭園を婚約者となるアベルに知ってもらいたい、理解してもらいたいと、紹介した。
しかし、アベルの反応は私の予測していたものとは異なっていた。
「見事なものですね。特に白バラは育成が難しく、貴族の間では高値で取引されています。 もう少し生産量が増えたならば、ぜひ私の商会で取り扱わせてください。」
「私にはこの庭園に咲く限りで十分です。これ以上広げるつもりは……」
私は言葉を切り、視線を白バラに向けた。その一輪一輪は、幼い頃から彼女が眺め、育て、癒されてきた思い出の象徴だ。ここに咲くバラが、単なる商材として語られることに、胸の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。
「それは勿体ないですね。」
アベルは軽く肩をすくめながら言葉を続けた。
「貴族社会では、こうした価値ある資源をどう活かすかが重要です。無駄にするのは賢明とは言えませんよ。」
その一言に、私は心の中で静かにため息をついた。この人は、私の大切なものを理解しようとはしていない。すべてを損得で測っている。
「アベル様にとってはそうかもしれませんね。でも、私にとってこの庭は、数字では表せない大切な場所なのです。」
私の言葉に、アベルは訝しげな顔をしたが、すぐにまたいつもの笑顔を浮かべた。
「なるほど。それが貴女の価値観なのですね。感心しました。」
私はアベルの心の中にある優越感を敏感に感じ取った。彼には私の価値観など幼稚なものに映っているのだろう。
バラの香りが風に乗り、二人の間を通り抜ける。しかしその心地よささえ、今のリリアナには重苦しく感じられた。
――
「お疲れ様でした、お嬢様。」
「ええ。」
アベルが帰宅してようやく一息つくことができる。
私はドレスの締め紐を少し緩めながら窓の外を見つめた。
「お父様たちはどんな話をしてました?」
「セルリアン子爵は貴族とのつながりを強めたいという思惑を隠そうともしていませんでしたね。このブラウン男爵家は財政面で不安があるため、そこをつかれるとこの婚約を断ることは難しいのだと思います。アベル様の印象はどうでしたか。噂に聞く好青年でしたね。」
リリアナは窓の外に目をやりながら、今日の出来事を思い返した。
「ええ、確かに礼儀正しくて、誰にでも好かれる方だと思うわ。でも……」
言葉を詰まらせたリリアナに、リヒトは穏やかな声で促した。
「でも、何か引っかかることがありましたか?」
リリアナは深呼吸をして、自分の胸の内を打ち明ける決心をした。
「彼は私の話を聞いているようで、本当は自分の利益しか考えていないように感じたの。庭の白バラの話をしたときも、商売のことばかりで……私にとって大切な場所なのに。」
「お嬢様が小さな頃から、よくあの白バラの前で本を読まれていた姿を覚えています。そのときの表情は、とても穏やかで……私も癒されていました。」
リリアナの胸に暖かい感情が広がった。
「そう……あなたはずっと見ていてくれたのね。」
「はい。お嬢様がどんなときに笑い、どんなときに悲しまれるのか、そばで見守ってきましたから。」
私はリヒトの言葉に心が揺れ動くのを感じた。彼は自分を理解してくれている――その事実が、私にとって何よりも嬉しかった。
「リヒト……」
彼の名前を呼ぶ声が自然と柔らかくなる。リヒトもまた、私の変化に気づいたのか、少しだけ驚いた表情を見せた。
「どうなさいましたか、お嬢様?」
「いえ、なんでもないわ。」
窓の外には、美しい夕焼けが広がっていた。二人の間に流れる静かな時間が、私の心を穏やかにしていく。リヒトと過ごすこの時間がずっと続けばいいのに……。
――
そうして慌ただしく日々が過ぎ、ブラウン男爵家とセルリアン子爵家の両家から正式に婚約が発表され、学園では友人たちが祝いの言葉をかけてくれるようになった。私は笑顔を浮かべ、感謝の気持ちを答えていたが、私の心にはモヤがかかっている気がした。
季節が進み、学園の卒業式の日が近づく頃には、屋敷の空気も少しずつ慌ただしさを増していた。
「明日はいよいよ。卒業式ですね。」
リヒトがいつも通り温かい紅茶を入れてくれる。寒さのピークが過ぎたこの季節であっても、リヒトのいれてくれる紅茶は私の心を落ち着かせてくれる。
「たくさんのことを学べた学園生活だったわ。卒業後は家の手伝いをしながら嫁ぐ準備をしなくてはいけないわね。そろそろ腹をくくらないと……。」
「お嬢様の力はどこへ行っても重宝されます。」
「貴女は私の専属執事なんだから、当然ついてきてくれるわよね。」
リヒトは少しうつむき、バツの悪そうに答えた。
「ブラウン男爵様には伝えてあるのですが、お嬢様が嫁ぐ先には私は行かないつもりです。」
「嘘。どうして。」
リヒトの突然の告白に驚きあまり言葉が出てこなかった。
「私はお嬢様の幸せを第一に考えております。男の私が既婚のお嬢様に仕えるとあらぬ疑いをかけられることもあります。」
「私、あなたの淹れてくれる紅茶が好きなの。考え直してはくれない?」
私がそう言うと、リヒトは一瞬目を伏せた。そして、少しの沈黙の後で、穏やかな声で答えた。
「お嬢様、ありがたいお言葉ですが、どうかご理解いただきたいのです。」
「……なぜ?」
私の声には少しの苛立ちが混じっていた。
リヒトは一度深く息を吐き、まるで自分に言い聞かせるように言葉を選んだ。
「既婚のお嬢様に私のような男が仕えるのは、周囲から不適切に見られる場合があります。そして何より……」
そこで言葉を切った彼の瞳には、わずかな揺らぎが見えた。
「私はお嬢様が真に幸せな日々を送れることを望んでいます。そのためには、私は距離を置くべきだと考えました。」
「幸せ?」
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
「あなたがそばにいてくれることが、私にとっての幸せかもしれないのに……」
思わず漏れた言葉に、リヒトの表情が一瞬固まる。だが、すぐに彼は微笑みを浮かべた。その微笑みはどこか儚げで、私にはその意味を掴むことができなかった。
「お嬢様、そのお言葉で私は大変光栄です。」
「じゃあ、なんで……」
「ですが、私が望むのは、お嬢様の未来を縛らないことです。」
そう言った彼の目は真剣だった。その瞳の奥にある何かを探ろうとしたけれど、彼はそれ以上何も言わなかった。
私の中で湧き上がる感情をどう整理すればいいのか分からなかった。ただ、1つだけ分かるのは、私がこれ以上この話を続けるべきではないということだった。
「……分かったわ。」
精一杯冷静を装ってそう返すと、リヒトは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。どうか本日はゆっくりお休みください。朝早くから準備がありますので。」
「では、失礼します。おやすみなさいお嬢様。」
リヒトが部屋を出て行った後、私は力なく椅子にもたれかかる。
「……どうしてよ。」
声に出してみても、答えは返ってこない。彼の紅茶がすっかり冷めているのに、私は一口も口にできていなかった。
(卒業して、大人になる。それが私の役目だって分かってる。でも……私はどうしたらいいの?)
カップの縁にそっと指を触れながら、私はそっと目を閉じる。紅茶の香りが、胸の奥を締めつけるようだった。
――
翌朝、目覚めはあまり良くなかった。
窓から差し込む朝の光が眩しくて、目を細めながら起き上がる。頭がぼんやりして、昨夜のリヒトとのやり取りがふと胸をよぎった。
(卒業式……そうだ、今日は卒業式の日。)
朝食をとって自室に戻った後、身支度を整えようとしたところで、ノックの音が聞こえる。
「お嬢様、お時間が迫っております。支度をお手伝いいたします。」
リヒトの声だ。昨夜と同じ、落ち着いた響き。それが、かえって胸を締めつけた。
「ええ、ありがとう。」
私の返事に、リヒトは扉を開けて入ってきた。けれど、私と目が合ったのはほんの一瞬で、すぐに準備の手配に目を落とす。
「こちらが卒業式でお召しになるお洋服です。お母様より、こちらの髪飾りをお使いになるよう仰せつかっています。」
「わかったわ。」
淡々とした会話が続く。私の胸には何かを言いたい気持ちが渦巻いていたけれど、結局その言葉を飲み込んでしまう。
(きっと、言っても何も変わらない。)
リヒトもまた、無駄な会話を避けているかのように、手際よく支度を進めていく。
「お嬢様、ご卒業おめでとうございます。」
「ありがとう。」
一言だけを残し、リヒトは深々と頭を下げて部屋を出て行った。その背中が扉の向こうに消えていくのを見送りながら、私は溜息をついた。
(どうして、こんなにも遠く感じるの?)
屋敷の中は卒業式に向けて慌ただしい気配が漂っている。大勢の使用人たちが行き交い、両親も準備に追われていた。私はそんな雰囲気に飲み込まれるように、気持ちを押し隠してドレスの裾を整える。
――
「それでは、行ってきますお父様。」
「ああ。リリアナ綺麗だ。気をつけて行ってきなさい。私達も後から向かうから。」
「ありがとうございます。」
リヒトの手を借り、馬車へ乗り込む。私に続いてリヒトも馬車へ乗り、私の向かいの席へ座る。
学園までの時間が非常に長く感じられる。
「ねえ、リヒト。昨日の話なんだけど……」
勇気を振り絞って声をかけたものの、リヒトはわずかに眉を動かしただけで、穏やかな表情を崩さなかった。
「……何でしょうか。」
その声の響きがあまりにも平静すぎて、私の胸にわだかまっていた言葉は再び飲み込まれそうになる。
「……やっぱり、いいわ。」
窓の外に視線を移すと、馬車の揺れに合わせて木々が静かに流れていく。
「卒業式は、きっと賑やかになりますね。」
リヒトが話題を切り替えるように口を開いた。
「ええ、そうね……きっとみんな笑顔で溢れてると思う。」
私自身、そう答えながらも心はどこか浮ついていた。卒業という大きな節目に向かうというのに、心の中ではリヒトの言葉が重くのしかかっていたからだ。
(本当に、このまま終わってしまうの?)
馬車は静かに揺れ続け、二人の間にはそれ以上会話が続かなかった。
卒業式が終わり、私は両親や友人たちと笑顔で会話を交わしながら、学園生活最後の日を終えた。
その後、すぐに舞踏会が開かれる会場へ向かうため、再び馬車に乗り込む。リヒトは式場での私の様子を静かに見守っていたが、今はどこにも姿が見えない。
「ブラウン男爵家ご令嬢様ですね、どうぞこちらへ。」
使用人に案内され、私は会場の華やかな雰囲気の中に足を踏み入れた。
きらびやかなシャンデリア、色とりどりのドレスをまとった人々、心地よい音楽が流れる空間。そのすべてが私を歓迎しているはずなのに、胸の奥の重みは消えることがなかった。
(リヒト……今、どこにいるの?)
思わず辺りを見回すが、彼の姿は見当たらない。その代わりに、目の前には優雅な微笑みを浮かべたアベル様の姿があった。
「リリアナ様、お美しいですね。皆が羨む目を向けていますよ。」
アベル様は優雅に私の手を取ると、軽く口づけを落とした。
「ありがとうございます、アベル様。」
形式的な会話が続く中、アベルが私を値踏みするような視線を向けているのに気づく。
「素敵なドレスですね。素朴な貴女にとてもお似合いです。」
「ありがとうございます。アベル様もとてもお似合いです。」
学園でお世話になった先生や友人に挨拶をしていると、アベルにも友人がやってきた。彼は少し外すと告げ、そのまま姿を消してしまった。一人になると、心にぽっかりと空いたような寂しさを覚える一方、どこか安心した気持ちも湧いてくる。
給仕に声をかけ、冷たい飲み物を受け取る。喧騒から少し離れたくなり、新鮮な空気を吸うために中庭へ足を向けた。
「リヒトとは結局あまり話せなかったわね。アベル様もどこかへ行ってしまったし……。」
学園の中庭には色とりどりの花々が咲き誇っている。卒業生たちの寄付によって丹念に手入れされており、その美しさは在学中も私のお気に入りだった。友人たちと昼食を取ったり、静かに本を読んだり、思い出の多い場所だ。
しかし、今は会場の明るさと対照的に、中庭はどこか薄暗く感じる。月明かりが揺れる庭の奥は、人目を避けるには絶好の場所だろう。
「まるで男女の密会にぴったりの雰囲気ね。ほら、あそこみたいに……。」
ふと視線の先に、茂みに囲まれたベンチで談笑する男女の姿を見つけた。軽い気持ちで視線を向けたが、次の瞬間、心臓が跳ね上がる。そこにいた男性は――アベルだった。
女性の方は遠目では顔が分からなかったが、親しげに笑い合う様子がどうにも気になる。とっさに身を低くし、茂みの陰に隠れた。近くにいるせいで、二人の会話が自然と耳に入ってくる。
「こんな静かな場所で、アベル様とお話しできるなんて贅沢ですね。リリアナ様が探していらっしゃるかもしれませんよ?」
「彼女は平気だよ。僕のために人前で堂々としてもらわないと困るからね。ああいう役割は彼女に任せるべきだろう?」
「……ふふっ、なるほど。リリアナ様なら完璧にこなしてくださるでしょうね。でも……本当にそれだけでいいんですか?」
「それで十分だよ。僕にとって彼女は――必要な相手であって、それ以上の関係を望む必要はない。君とこうして話している方が、よほど僕には心地いい。」
「……そんなことをおっしゃると、私、本気にしちゃいますよ?」
「本気にしていいよ。君といると、余計な気を使わなくて済むからね。それに、君の笑顔は僕にとって価値があるんだ。そうだ、君に似合う髪飾りを見つけたんだ。今度プレゼントしよう。きっと似合うはずだ。」
「アベル様……。ありがとうございます。」
――
アベルと女性は、笑みを交わしながら庭園の奥へ消えていった。二人が見えなくなった後も、私は茂みから動けなかった。足元に崩れ落ちるように座り込み、胸に広がる苦しさをどうすることもできない。
「生まれ変わったって私は一人ぼっちね……」
涙がぽたぽたと流れる。ここから逃げ出したい。やっぱり私はこうなる運命なのね。思い出すのは前世の記憶。貼り付けられた笑顔で愛想をまく日々。私の本当の気持ち、声は誰にも届かなかった。
「とにかくここから離れなくちゃ。」
涙を拭って私は会場を後にした。一心不乱に走った、アベルが私を1つの装飾品とでも見ているかのようなあの視線が頭をよぎる。だけど、一緒に呼び起こされるのは温かなあの人の目。
「リヒトを置いてきてしまったわ。今ごろ心配してくれてるのかな。」
無我夢中に走り、たどり着いたのは学園の裏山だった。
「私いつの間にこんなところまで……」
足からは出血し、ドレスは泥で汚れていた。
私は木の根元に座り込んだ。風が木々を揺らし、葉のささやきが静寂を包む。
「でも、私のことをちゃんと見てくれていた人がいた……。リヒト、どうして私の元を離れようとするの?」
胸の奥から込み上げる想いに気づく。彼の優しさ、微笑み、そしていつもそばで支えてくれた日々。
「私、リヒトと一緒になりたい……!」
涙が頬を伝い、静かに地面に落ちる。そのとき、背後から足音が近づいてくるのに気づいた。
「お嬢様、こんなところで何をしていらっしゃるのですか。」
振り返ると、リヒトが心配そうな表情で立っていた。
「リヒト……」
「お召し物が泥だらけではありませんか。怪我もされているようですし、男爵様になんて説明すればいいのか。」
彼はいつものように穏やかな声で注意し、ハンカチを取り出して私の傷を拭ってくれる。その優しさに、私は心が安らぐのを感じた。
「リヒト、聞いて欲しいことがあるの。」
「はい、お嬢様。」
私は深呼吸をして、心の中の想いを伝える決意をした。
「実は、アベル様が他の女性と親しくしているのを見てしまったの。私のことをただの飾りだと思っているみたいで……。でも、それで気づいたの。私にとって本当に大切な人が誰なのか。」
リヒトの表情が一瞬硬くなり、静かに目を閉じた。
「そうでしたか……。お辛かったでしょう。」
「でも、もう大丈夫よ。リヒト、私、あなたのことが好き。ずっとそばにいて欲しいの。」
私の言葉に、リヒトは驚いたように目を見開いた。
「お嬢様……それは……」
「ごめんなさい、急にこんなこと。でも、もう自分の気持ちに嘘はつきたくないの。」
リヒトはしばらく沈黙した後、深く息を吐いた。
「お嬢様、私も……あなたをお慕い申し上げております。ですが、私はただの従者。あなたの幸せを第一に考えるべき立場です。」
「私の幸せは、リヒト、あなたと一緒にいることよ。」
彼の手をとり軽く握ると、彼は困ったように微笑んだ。
「本当にわがままなお嬢様ですね。」
「ええ、そうかもしれないわ。でも、これが私の本当の気持ちなの。」
力強く握り返してくれた手は暖かかった。
「お嬢様、本当に私でよろしいのでしょうか。」
「もちろんよ。」
彼の瞳に映る自分の姿が、少しずつ笑顔を取り戻していくのがわかった。
「これからどうしましょうか。父や母にどう伝えればいいのかしら。アベル様との婚約を破棄すると家の財政問題は解決できないし。」
「お嬢様のご決意が固いのであれば、私も覚悟を決めます。一緒に乗り越えていきましょう。」
「ありがとう、リヒト。」
しかし、胸の内にもう1つ伝えなければならないことがある。ずっと隠してきた秘密――前世の記憶を持っていること。年下だと思っていた相手が人生二周目だと知ったら、リヒトはどう思うだろう。騙されていたと感じられたら嫌だ。でも、彼にはすべてを知っていてほしい。
「それと、私、言っておかなくちゃいけないことがあるの。」
リヒトは首を傾げ、優しく促した。
「何でしょうか、お嬢様。」
私は深呼吸をして、意を決した。
「私、前世の記憶を持っているの。こことは違う世界で生まれてから死ぬまでの記憶を。」
一瞬、リヒトの瞳が驚きに見開かれた。しかし、次の瞬間、彼は大きな声で笑い始めた。彼が声を出して笑う姿を見るのは初めてで、その無邪気な表情に戸惑う。
「お嬢様。まさか、こんなときに冗談をおっしゃるとは。」
「もう、笑わないでよ! 本当なんだから。信じてくれないのね!」
私が頬を膨らませると、リヒトは笑みを収めて真剣な表情に戻った。
「申し訳ありません。しかし、信じますよ。実は、私も同じなんです。前世の記憶を持っています。同じくこことは違う世界での。」
「えっ……?」
思わず息を呑む。まさか、リヒトも前世の記憶を――。
「お嬢様が幼い頃から、時折見せる大人びた表情や言動に、もしかしたらと感じていました。でも、確信が持てずにいましたが、今こうしてお話しできて本当に嬉しいです。」
「リヒト……私たち、同じだったのね。」
胸の奥が暖かくなり、涙が溢れそうになる。ずっと一人だと思っていた。この世界で前世の記憶を持つのは自分だけだと。しかし、隣にいる彼も同じ孤独を抱えていたなんて。
「お嬢様、これからも私がお傍でお支えいたします。二人でなら、きっと未来を切り拓いていけるでしょう。」
リヒトは優しく微笑み、私の手をしっかりと握った。その手の温もりが、心の不安を溶かしていく。
「本当にそうね。リヒトと一緒なら怖くないわ。」
私たちは互いの手をしっかりと握り合い、新たな未来へと歩み出す決意を固めた。
◆◇◆◇
「そういえば、リヒトは合わせて何歳なの?」
「私はあまり長生きできなかったので……、お嬢様こそ合わせて何歳ですか。」
「リヒトが先に言ってよ、私のほうが年上だったら嫌!」
私はリヒトの言葉を慌てて止めた。
「いえ、お嬢様が先におっしゃってください。」
「もう、そうだけど!じゃあ、せーのっで言いましょう。」
「わかりました。『せーのっ』」
しかし、私達は同時に口をつぐんだ。どうやらお互いに相手にだけ言わせようとしていたみたいだ。目が合うと思わず吹き出してしまった。
「この話題はやめましょうか。」
「ええ、そうね。わたしたちは今を生きているんだからね。それで十分よ。」
私が微笑むと、リヒトも優しい笑みを浮かべた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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