久能鷹一は他人に興味がない(1)
高校生活というのは案外普通なものである、というのは久能鷹一が一年間を通して気付いたことである。
高校に入ったからといって妙な部活がある訳ではないし、生徒会が学校を牛耳っている訳でもないし、ましてや不思議な現象に悩む女の子が目の前に現れる訳でもない。
特別な事は何もなく、ただ平凡な一年を送ってきた。
だから今年も同じように、特別記憶に残らない一年を送るのだろう。そう思っていた。
「思ってたのになあ……」
はあ、と溜息を零す。数列の机を挟んだ先の窓を見やると、薄く色付いた桜が五月雨のように校庭に降り注ぐのが目に入った。吉祥寺で割と有名な武蔵野市にあるこの高校は、校舎のすぐ隣に大きな都立公園がある。休日になれば親子やカップルが多く遊びに来る場所であり、平日の朝である今でさえも小さな子どもを連れた親が数組程いる。春を称するのに相応しい景色も、今の鷹一の心情からは対極にあるような光景だった。
「随分と湿気た面してんな、鷹一。梅雨にはまだ早いんじゃねえの?」
椅子を引く音と共に視線が遮られる。代わりに視界を埋めるのは、筋肉質なガタイとパーマが波打つ眩しい程の金髪。春を通り越して最早夏のような男だ、と鷹一は考える。クラスの女子が騒ぐ好青年は、どうやら使う言葉も文学的らしい。
「秀……嫌味なら他所に行けよ」
「俺の席ここだし。それにもう五年目になる仲じゃんか」
「ただの腐れ縁だけどな」
朝練終わりかと尋ねる鷹一に胸元を仰いで首肯した。制汗剤の香りが春に混じる。
名前は月不見秀。陸上部所属。確か専門は短距離。中学一年から高校二年の現在に至るまで、一度たりとも違うクラスになっていない。友達が少ない鷹一にとってクラスが変わっても知り合いがいるのはありがたいが、ここまで来ると腐れ縁というよりある種の呪いのようである。
いつまでもこの男を視界に収めているのは目に毒だと思い、鷹一はスマホを取り出す。画面に表示された時刻は八時十五分。少しずつ席が埋まってくる時間帯だ。
そのままSNSのアイコンをタップする。指を上から下に滑らせながら、フォローしているアカウント、おすすめで表示されたアカウントの呟きを流し見していく。途中で、猫がくしゃみをしている十秒ほどの動画が表示された。無音のままだが、思わず頬が緩む。鷹一は迷わずいいねを押した。
視界の端で秀がスポーツバックからコーラを取り出すのが映る。キャップを回すと、プシッとくしゃみのような音と共に炭酸が弾けた。喉を鳴らしてそれを飲み、四分の一程無くなったところでボトルを机に置く。心なしか秀の表情は苦笑いしているようにも見えた。
「ま、溜息吐きたくなる気持ちも分かるけどな。何せ……おっと」
何かを言いかけ、慌てた様子で軽い口を噤む。その理由は、秀の目線を追わずとも理解できただろう。だというのに、鷹一の視線は教室の前方に向けられた。
果たして、一人の女子生徒が教室に入ってきたところであった。鷹一がまだ名前すら覚えていない友人と話しながら、軽やかに笑い合う。心臓が妙に早く脈を打ち、顔に熱が集まっていくのを感じた。
意識を逸らそうと視線を落とし、スマホの上部に目を向ける。八時十六分。先程から一分しか経っていなかった。スマホを見ても指はピタリと動かず、何故か頭は視界の端に映る少女を映していた。
腰辺りまで伸びた亜麻色の髪が、笑う度に小さく揺れる。高校のブレザーもスカートも、他の女子生徒と同じように着こなしているはずなのに、その姿を見慣れないせいで違和感の方が先に来る。
秀同様に中学が同じで、秀以上によく見知った少女。他の誰よりも知らない女子生徒。
雅楽代真白。彼女は中学時代に交際していた、所謂『元カノ』というやつだった。
「雅楽代さんと付き合ってたのって中一の時だっけ?」
少しばかり声を潜めて尋ねられる。会話の合間に飲んでいるコーラは、先程空けたばかりなのにもう半分くらいになっていた。
「中一の秋」
「んで、振られたのが?」
「中三の夏」
一問一答形式でぶっきらぼうに答える。余計なことまで話す気にはなれなかった。真白とクラスが同じだったのは一年生までで、二年生からは鷹一、秀と別のクラスだった。
「そっからクラス一緒になるまで一回も話してないんだもんなあ。そりゃそんな顔にもなるわ」
「どんな顔だよ」
「猫が靴下嗅いだ時みたいな顔」
「フレーメン反応じゃねえか」
顔を顰める鷹一に「ほらまた」と笑う。表情一つひとつに茶々を入れられるのではどんな顔をして良いのか分からず、鷹一は誤魔化すようにスマホの画面をスワイプする。テーブルの上に乗った猫がコーヒーの匂いを嗅ぎ、すぐに口をあんぐりと開ける動画が流れた。まさかこんな顔はしていないだろうが、何だか秀の言葉がむかつき、そのまま画面を上に流した。
「で、未練たらたらな鷹一君は二年ぶりの再会にどうしていいのか分からず居心地が悪いって訳だ」
「別に未練はねえよ」
強がっている訳ではなかった。無論別れた直後はしばらく落ち込んでいたし、もう一度チャンスが無いかとも考えていた。何なら高校に入学してもしばらく引きずっていた。
それでも二年近く経ってしまえば、彼の心を落ち着かせるのに十分だった。真白との時間を忘れるまでには至らなくとも、「いい思い出だった」と自分を納得させられるくらいには落ち着いていたのだ。そしてそれは今も変わってはいない。
ただ「居心地が悪い」というのは、あながち鷹一の心境を外してはいなかった。もっと端的に、それでいて正確に表すのであれば。
「気まずいってだけ」
「ま、そうだろうな」
鷹一の言葉に秀は静かに首肯する。無理やり気持ちを整理することが出来たとして、こればかりは慣れの問題である。二年近くの間交際し、別れてから一度も会っていない中での唐突な再会。しかも人生初めての彼女だった。どう接して良いのか分からずに戸惑うのは仕方のない事だろうと、自分を納得させていた。
だから時間をかけて慣れていけばいいと思っていた。極力波風を立てず、積極的に関わりを持つ事もせず。たまに授業のグループワークなんかで一緒になったりしてお互い気まずくなる事はあっても、同じクラスで過ごしている中で友達とまではいかなくとも『他人』くらいの関係には戻れるのではないか。そう思っていたのだ。
だがその計画は、今日ももう一人の当事者によって真正面からぶち壊される。
「おはよう、月不見君。久能君もおはよう」
自分の席に荷物を置いた真白が後ろを振り向く。さすがに名指しで呼ばれては知らんぷりも出来ず、重い首を上げる。真白はこちらに向かってにこやかに笑っていた。あくびを隠すように紺のブレザーから伸びた手を口元にやれば、胸元の赤いリボンが小さく踊る。涙が浮かんだ瞳は記憶よりもぱっちりとしていて、薄くメイクをしていることが分かった。一緒に登校していたお友達は自分の席に向かったのか別のクラスなのか、少なくともそこにはいなかった。
「……はよ」
先程まで秀と会話していたのが嘘のように声が掠れて、「おはよう」の四文字が半分になった。正面に立つ真白に懸命に目を合わせようとするが、時々視界が左右に揺れるのが自分でも分かる。ご年配の方がこの光景を見たら、「挨拶の一つすらろくに出来ないのか」とお叱りを受けてしまうだろう。
秀は鷹一の方をちらりと見てから正面を向いた。
「おはよ、雅楽代さん。寝不足?」
「ちょっとね。昨日遅くまで勉強してたから」
「頑張るねえ。試験はまだ先でしょ」
「学校のはそうだけど、昨日予備校で模試があったからその復習だよ。月不見君とは頭の出来が違うもので」
不満げに目を細めて秀の方を見る。真白の成績は分からないが、秀に関していえば全科目成績優秀で、去年の試験でも年間を通して常に学年五位以内にはいたように記憶している。これでいて部活にも手を抜いていないのだから、正に文武両道の優等生といえるだろう。無論、このチャラそうな見た目を除けばであるが。
「まあね。でも寝不足には気を付けなよ。夜更かしは乙女の敵だぜ?」
「はいはいどうも」
謙遜もしない秀の助言を真白は軽く受け流す。いつも通りの見慣れた、それでいてどこか懐かしさも感じる光景。そういえば中学時代にも似たようなやり取りを見たのだったと、鷹一は思い出した。
二人で会話が進むのであれば自分に話題が振られることはないだろうと、再びスマホに目を落とそうとした時、真白がこちらに顔を向けた。
「でも久能君も眠そうじゃない? そっちも寝不足?」
一瞬、言葉に詰まる。まるで首を絞められたように閉じた喉を無理やりこじ開ける。
「……別に、いつも通りだよ」
「そうそう、こいつが眠そうなのはいつものことだって」
ケラケラと笑いながら鷹一の背中を平手で叩く秀に「ほっとけ」と返す。そのまま彼の机にあるペットボトルに手を伸ばした。
「一口貰うぞ」
「あっおいこら!」
慌てた様子で手を伸ばす秀に背を向け、コーラに口を付ける。この一瞬で喉が渇いて仕方なかった。炭酸が喉を刺激し幾分心地が良くなった。
ふうと一息ついてキャップを締める。既に秀がだいぶ飲んでいた事もあり、コーラは僅かしか残っていなかった。
「サンキュ」
「お前……今度ブラックサンダー奢りな」
「いやそんな飲んでねえだろ」
「いーや飲んだね」
蓋の部分を摘まんだ秀がペットボトルを左右に揺らす。茶色く透き通ったコーラは力なくボトルの中を泳いでいた。確かに三十円分くらいは飲んでしまったかもしれない。覚えていたら今度買ってやろうと決めた。覚えていたら、であるが。
あーあ、と肩を落とす秀。その様子を見て、真白から笑いが零れる。
「ほんと仲いいね、二人」
「これのどこが仲いいんだよ……」
最後の一口を飲み干し、秀は教室後方のゴミ箱目掛けて空のボトルを投げ入れる。鷹一は振り向かなかったが、真白が小さく拍手しているところを見るとシュートは見事決まったのだろうと伺えた。
鷹一は再び視線をスマホに落とした。時刻は八時二十五分。そろそろ良い時間帯だ。
「雅楽代、じきにホームルーム始まるぞ」
スマホに目を向けたまま呟く。真白は振り返ると「あ、ほんとだ」と言ってパタパタと自分の席に着いた。
正面に向き直った秀が小さく溜息を零した。
「まだホームルームには早いだろ」
鷹一は少しだけ視線を上げ、教室を軽く見渡す。既にほとんどの生徒が席に着いているが、確かにまだ他の生徒の席の近くで話をしている生徒も何人かいた。そもそもまだ担任の姿すら見えていない。
鷹一は視線を元に戻した。
「誤差だ」
「誤差ねえ」
そう言って、秀はもう一度溜息を零した。どうやら彼には、真白との会話が気まずくて逃げた事などお見通しのようだった。
「気にしてるの、お前だけみたいだぞ」
「……うっせ」
小さく悪態を吐く。指を画面の下から上に滑らせると、先程のコーヒーを嗅ぐ猫が再び表示された。少しだけ迷ってからいいねをタップし、電源を切った。真っ黒な画面に反射する鷹一の表情は決して可愛い訳ではないものの、心なしか先程の猫を思わせた。
程なくして担任が教室に入る。それぞれが足早に自分の席に戻っていき、それが終わるのとほぼ同時にチャイムが鳴った。担任のありがたいお話を頬杖を付きながら聞き流す。
新学期が始まって一週間。雅楽代真白が久能鷹一を気にした様子は、一度たりともなかった。