七月二十三日(1)
「別れよっか、私達」
これは夢だとすぐに理解した。これが夢なら良かったのにと、鷹一はすぐに思った。
風が強く吹き、公園の木々を揺らす。枝の先から緑の葉が一枚零れるのが遠くに見えた。この公園では今は桜が咲いている時期のはずだった。多少緑が混じっているにしても、ここまで茂っている訳はない。
夢だとわかっても安心することはできなかった。早鐘を打つ心臓が、胸の奥の冷たさが、妙にリアルに彼を襲っていた。
真白がこちらを向いて、眉を曲げて笑っていた。どこかで池に石でも投げたのか、水が重く沈み込む音が耳に響く。蝉の声が耳に障るのに、彼女の声だけはしつこく耳にへばりついた。
どうして、と口が動くが、声は出ない。真白がそう告げた理由も、何となく理解していたのだ。そしてこれ以上恋人という関係を続けるのが今の二人には無理だということも。
「……もう、無理なんだな」
理解しているはずなのに、鷹一の口は自分勝手に言葉を紡いでしまう。当時もそんなことを宣って悪足掻きをしたなと、今更ながら思い出す。夢の外では一度だって忘れられたことはないのに不思議なものだと、どこか他人事のように考えた。一人称視点の映画でも見ている気分だった。
「付き合うっていうのは多分無理なんじゃないかな。もうお互いに限界なんだよ」
当時の鷹一でもわかっていたことを、変わらない表情のまま告げられる。そういえば、こうやって笑う真白を見たのは当時にしても随分久しいことだった。ならばそれまでどんな顔をしていたのかと考えても、今度は綺麗に忘れてしまったかのように思い出すことができなかった。
「……せめて理由だけ聞いてもいいか」
この後に及んでまだ醜く悪足掻きをするのかと、今真白と対面している男に嫌悪にも似た怒りさえ覚えた。そんなことわからないはずはなかったのに。自分がどれだけ真白を苦しめていたのか、十分に自覚していたはずなのに。
過去の醜態から目を背けたいのに夢の中では自由がきかず、せめて意識だけでも頭上に向けた。クヌギの葉が風に吹かれて一人でに枝先からこぼれ落ちる。こちらの心境も知らずに呑気に踊っているように見えた。
葉が土の上に落ちるのを見届けた頃、ようやく真白は口を開いた。
「多分、私は鷹一君に釣り合ってないんだよ。私より相応しい人がいると思うんだ」
分かりきった嘘だと、鷹一は思った。確か当時の彼にもそれは理解できた。釣り合っていないのはむしろ鷹一の方だというのに、こんな時にも真白は優しいのだ。
そんな優しい嘘を正面から糾弾するほどこの男は愚かではなかったようで、そうか、と口の中で言葉を転がした。
「じゃあ、これで終わりだな」
「そうだね」
短く言葉を交わす。この時ばかりは真白の表情にも陰りが見えた。すぐにそれを自覚したのか、ああでも、と取り繕うように笑顔を作る。
「鷹一君のことを嫌いになったわけじゃないからね。だからこれからも、友達として仲良くしてもらえると嬉しいな」
「まあ……善処はするよ」
鷹一は無理やり口端を釣り上げた。最後まで彼女は優しいのだなと、そう思いながら。
静かに目を開けると、視界に広がるのは見慣れた天井だった。あんなところに染みなんてあっただろうかと、夢のことを忘れるために現実逃避をしていた。
重たい体を無理やり起こす。頭に鈍い痛みが走った。ベッドから降りると足がもつれて思わずよろけてしまい、顔を顰めて一度座り直す。
酷い夢を見た。まだはっきりと頭に残っている。あの公園の匂いも、首筋を撫でる風の感覚も、ありありと思い出すことが出来る。
あるいは、それは夢としての記憶ではないのかもしれなかった。もっと昔の、鷹一にとっては二、三日くらいしか経っていないような気がする、実際にあったことの記憶。それだけその感覚は鮮明に肌に纏わり付いたままだった。
突然盛大な音楽が流れて方がびくりと跳ねる。ベッドの脇に置かれたスマホから流れたアラームの音だった。どうやら目覚ましが鳴る前に起きてしまっていたらしい。
アラームを止めて顔を上げる。古くなった学習机に目をやると、昔飼っていた猫の写真が入った写真立てが目に入る。鷹一はようやく立ち上がった。
制服に着替えてから、また足をもつれさせて転ばないようゆっくりと階段を降りる。電気のスイッチを押すのも億劫で、薄暗い中キッチンに向かう。冷蔵庫にもたれながら食パンを咥え、スマホを眺めた。どうやら今日は穏やかな気温が続くらしい。少し前まで満開だった桜ももう散り始めているのだとか。
水分を吸われた不快感を牛乳で流し込んでから、鷹一は鞄を持って玄関に行く。扉に手をかける直前、思い出したように振り向き、自室がある方向を見上げた。
「行ってきます」
無人の家に溢された言葉は空気に溶けてすぐに消えた。それでも十分そうにして、今度こそ鷹一は玄関を出る。
ニュースサイトでは穏やかな陽気だと言っていたのに、夢の中よりも幾許か肌寒く感じた。