前編
ダンスホールへと続く大きな扉の前へゆっくりと歩みを進める一組の男女。
男はこの国の第一王子であるイクセル・レーンクヴィスト。
イクセルにエスコートされる女の名は、ティルダ・オーストレーム。
二人は幼い頃より婚約関係にあり、今夜はイクセルの姉、エルヴィーラの降嫁先であるバーリエル公爵主催の夜会へパートナーとして出席する事となっている。
「ティルダ、今夜君に大事な話がある」
二人が扉の前まで来ると、イクセルが真っ直ぐ前を見据えたままティルダに告げた。
ティルダもそんなイクセルの方を見る事なく、一言だけ「はい」と返事をした。
扉が開かれ二人の登場を知らせる声が高らかに響き渡ると、夜会会場を埋め尽くす人々の視線が一斉に会場の入り口に集まった。
煌びやかなシャンデリアの光を浴び、キラキラと煌めく銀の髪を後ろへ撫でつけ、切れ長の目に空の様に澄んだ青い瞳が印象的なイクセル。
はちみつを溶かしたような金の長い髪がゆるゆると波打つ、深い海色の瞳のティルダ。
二人とも整った顔立ちをしており、絵に描いたように似合いの二人だった。
会場からは羨望の眼差しと、ティルダに対する嫉妬の様な視線も向けられた。
二人が主催者である公爵夫妻に挨拶をしていると、後方からこの場には不相応な足音が近づいてきた。
カツカツと走り寄る足音を聞き二人が振り返ると、そこには水色の髪にオレンジ色の瞳という、なんともファンシーな少女がドレスの裾を摘まみながら駆け寄ってきている姿があった。
「イクセル様!お待ちしていましたわ」
少女はイクセルの片手を両手で掴むと、満面の笑みを浮かべた。
「聖女様、イクセル殿下の御身に勝手に触ることも、話しかけることも不敬に当たると、以前私が言いましたが、もうお忘れですか?」
彼女はこの国に数十年に一度現れるとされる聖女で、名をソフィアと言う。
彼女には未来視の力があり、半年前に川の氾濫を予知した事をきっかけに、神殿が聖女として認めたのだ。
「そんな事ばかり言っていると、ティルダ様には罰が下りますよ。私も前に言いましたよね。そんな傲慢な態度のままでは1年以内にティルダ様はこの国から追放されると」
ソフィアはティルダを睨みつけると、イクセルの腕にしがみつき猫なで声をだした。
「イクセル様、私とダンスを踊りましょうよ。ね!」
半ば強引なソフィアの態度に、それを見ていたイクセルの姉のエルヴィーラは眉根を寄せ扇で口元を隠した。
「あら、いやだわ。野良猫が迷い込んだ様ね。すぐに摘まみだして貰わないと」
ソフィアはそんなエルヴィーラの言葉を聞いて、今度はイクセルに抱きついた。
「きゃ。野良猫!?どこどこ?私猫って苦手なの」
周りの呆れる顔を他所に、ソフィアはキャッキャとはしゃいでいた。
そんなソフィアに対しイクセルは微笑みながらそっと体を離すと、優しくソフィアを諭すように言葉を掛けた。
「ソフィア、すまない。私も君と踊りたい気持ちはあるけれど、ファーストダンスは婚約者と踊らなければならないのだよ。だから、まずはティルダと踊ってから次にソフィアと踊るよ」
「…わかりました。絶対約束ですからね」
イクセルの言葉に不満げな顔をしながらも、仕方なく了承するソフィアはティルダを睨むと、わざとティルダの肩にぶつかるようにして去って行った。
その後ろ姿を目で追っていると、ティルダの目の前に手が差し出された。
その手の先を目線で追えば、笑顔のイクセルが当たり前のようにダンスに誘っていた。
その手を素直に取れないティルダは、暫く差し出された手をじっと見つめていた。
「…ティルダ、手を取ってくれないと…周りの視線が痛いのだけど…」
しびれを切らしたイクセルが小声で言うと、ティルダは無言のままその手を取った。
ダンスが始まり、二人は息の合ったステップで会場中を優雅に踊り回る。
「ティルダ、俺が送った指輪は着けている?」
「…ええ」
「そう。ならこの夜会が終わるまで大事に付けていて」
「…わかったわ」
終始浮かない顔のティルダとイクセルがダンスを終えると、すかさずソフィアがやってきた。
「イクセル様、次は私と踊ってください」
弾かれるようにダンスの輪の中から出されたティルダは歓談スペースへと移動し、給仕から飲み物を受け取ると大きなため息を吐いた。
すると見知った顔の三人組に声を掛けられた。
「ティルダ、散々だったわね」
楽しそうにティルダの肩を叩くのは、カミラ・エクブラード。彼女の隣でニコニコと笑っているのはカミラの婚約者のハンス・ヴォルゴード。
ハンスの隣に立つ男はマティアス・ヴァリーン。
三人は同じ学園に通う友人同士で、イクセルも含め同じクラスである。
「あの聖女様、お父様があまり近付くなって言っていたわ。ティルダも気を付けた方が良いかもね」
「…そうね」
そう言って二人が踊る方をチラリと見れば、楽しそうなソフィアとその姿を優しい笑顔で見つめるイクセルの姿が目に入った。
慌てて目を逸らすと、それに気づいたマティアスが壁になるようにティルダの横に立った。
「ありがとう」
お礼を言うティルダに笑顔で答えるマティアス。
するとおもむろにマティアスの手がティルダの髪に触れた。
「え?」
驚くティルダにマティアスは何かを摘まんだ指先を見せてきた。
「っ!?苺のヘタ!?やだ。どうしてそんなものが!?」
苺のヘタが髪に付いていたことに恥ずかしくなって、顔を赤らめた。
いつから付いていたのか、イクセルは気づいていたのか、そんな事が頭を巡りティルダは火照った頬を両手で抑えた。
四人は暫く歓談を楽しんでいたが、カミラとハンスが知り合いを見つけ場を離れてから、マティアスとティルダは二人でビュッフェコーナーへと向かった。
「ティルダ、そんな食べて平気なの?」
小さなお皿いっぱいに数種類の料理を載せたティルダのお皿を見て、呆れたように言うマティアスにティルダは、足りないくらいだと笑って答えた。
二人が食事を楽しんでいると、近くにいた人の声が耳に入ってきた。
「見て。あそこにいるの、イクセル殿下と聖女様じゃない?」
「あら、本当だわ。なんだか良い雰囲気ではなくて?」
「本当。噂では、ティルダ様との婚約を破棄して聖女様と婚約を結び直すなんて言う話も聞いたわ」
「私はティルダ様を正妃に据えて、聖女様は側室に据え、真実の愛を貫くと聞いたわ」
「まあ、どちらにしてもイクセル殿下のお心は聖女様にあるって事かしら」
そんな女性たちの話を聞いていたマティアスがわざとらしく大きな声を出した。
「ティルダ嬢、そっちのお肉もおいしそうだ」
その声にハッとした令嬢たちが振り返り、ティルダの顔を見た瞬間顔を青くした。
各々言い訳を口にしながら慌ててその場を去って行ったが、残されたティルダは彼女たちの見ていたテラスに目をやった。
そこには楽しそうに笑いあうイクセルとソフィアの姿があり、ティルダは鼻の奥がつんとするのを感じ、誤魔化すようにお皿の上のトマトを口に放り込んだ。
「ティルダ、無理するな。顔色が悪い。公爵夫妻と殿下には俺から話しておくからもう帰った方がいい」
限界だったのか、マティアスの優しさに涙が込み上げてきたティルダは、マティアスの言う通り、その日は早めに帰宅した。
***
家に帰ったティルダは翌日、高熱を出し寝込んでいた。
「では、お嬢様。何かありましたらすぐにお呼びください」
侍女が退室し、一人きりになったティルダはぼんやりと天井を見ていた。
熱で心の弱ったティルダは、右手を上げ小指に嵌められた小さなオパールの付いた指輪を見つめた。
「もう、外さなければいけないのよね」
そう呟くと胸がツキリと痛み顔を歪めた。
二人の婚約が結ばれたのは3歳の時。
政略により結ばれた二人だが、互いが思い合い良好な関係を築いていた。
その関係が崩れたのは、ソフィアが二人の通う学園に編入してきて2か月程経った頃だった。
彼女は元々労働階級の家庭で育ち、17歳になったある日突然力に目覚めた。
その後、神殿で正式に聖女と認められ、神官長を後見人として学園へと編入してきたのだが、直後から学園内ではおかしな事が起こり始めたのだ。
彼女は自由と平等を掲げ、階級社会の廃止を訴えていた。
皆が平等であるべきだと、貴族の子息令嬢が多く通う学園で自らの主張を堂々と発言した。
貴族ならば眉を顰める様な内容にもかかわらず、その思想に賛同する生徒が現れた。
その多くは貴族令息であり、その数は日増しに増えていった。
そして彼らは何よりもソフィアを優先するようになり、ついには学園中で婚約破棄やソフィアを巡る争いがおこるようになっていた。
その問題を重く見たイクセルがソフィアの取り巻きの男性に注意を促したのをきっかけに、ソフィアとイクセルの関係もまた急激に距離を縮めていった。
最初こそティルダを気遣っていたイクセルだが、次第にソフィアを優先するようになっていった。
しかし、2月程前に突然オーストレーム家を訪れたイクセルが指輪をプレゼントして来たのだ。
肌身離さず身に着けるようにと、その時のイクセルはなぜか切羽詰まったようだった。
それから彼は「すぐに終わらせる。信じていて欲しい」と言って帰って行った。
そんなイクセルの様子を不思議に思いながらも、ティルダは小さなオパールのついた指輪を右手の小指に嵌めて、嬉しそうに微笑んだ。
しかし、それからも相変わらずイクセルはソフィアにベッタリだった。
前はティルダにだけ向けていた優しい微笑みも、優しい言葉も全部ソフィアに注がれた。
そんなティルダとイクセルの関係を周りは面白おかしく噂して、同情するふりをして傷を抉る言葉をティルダに投げかける。
そんな生活が約二月、ずっと気を張っていたティルダだが昨夜の夜会で限界を迎えてしまったのだ。
ティルダはこれからどうするべきか考える為に目を閉じた。
その時、ドアをノックする音が聞こえ、返事をする。
開いたドアから入って来たのは、先ほど退室した侍女だった。
「お休みのところ大変失礼致します。イクセル第一王子殿下がお越しになっており、お嬢様にお会いしたいと申されております。只今旦那様と奥様が対応されていますが、いかがなさいますか?」
侍女が申し訳なさそうにティルダを見ている。
ティルダは暫く考えた後、まだイクセルに会うのが怖いと断ることにした。
「申し訳ないけれど、熱もあるし万が一殿下にうつってしまったら困るわ。今日の所は帰って頂いて」
ティルダがそう言うと、侍女は頭を下げて再び部屋を出て行った。
ティルダはふうっと息を吐くと、頭まですっぽりと布団をかぶりぎゅっと目をつむった。
***
結局ティルダはその後3日間熱が下がらず、学園も休んでいた。
その間、イクセルからは毎日お見舞いの花と、体を気遣う言葉が書かれたメッセージカードが届いていた。
しかし、そのカードを見る度にティルダは心が締め付けられるような痛みを感じていた。
ティルダの熱が下がってすっかり元気になった頃、カミラが侯爵家へとやって来た。
「すっかり元気そうね。はい、これ。休んでいた分の課題」
そう言ってカミラは数枚の紙をティルダに渡した。
「ありがとう」
「ハンスとマティスが心配していたわよ。来週からは学校に来られるでしょう?」
「ええ。いつまでも休んでいたら卒業試験に受からないもの」
そう言ったティルダに、カミラはお茶菓子のクッキーを食べながら訪ねた。
「ティルダ、本当に来月卒業試験を受ける気なの?」
「カミラ、お行儀が悪いわ」
そう言ってティルダがカミラに向かって注意をすると、カミラはクッキーを口に放り込みお茶で一気に流し込んだ。
貴族令嬢とは思えない程ガサツなカミラの行動に、呆れた顔をしながらも楽しそうなティルダに続けて尋ねる。
「予定より半年も早く卒業してどうするの?まさか本当に国外へ行く気じゃないわよね?」
ティルダ達の通う学園は、学業と言うよりは貴族として必要な知識やマナーを身に付ける為の学び舎で、明確な就業期間は定められていない。
その為、1年で結婚や家督を継ぐなどの理由で学園を去る者も少なくない。
卒業試験というのは形ばかりのもので、要は学園を去る際にどこまで課程を修了しているかの証明の様ものなのだが、試験がクリア出来なければ卒業生としては認められない。
つまり中途退学扱いとなり、今後王宮の官吏などを目指す者にとっては痛手となる。
「まだ何も考えていないの。だけど、この国でイクセル様と聖女様が仲睦まじくしているのを見ているのは耐えられそうにないの」
「またそんな事を言って。半年後には殿下は立太子されて、その半年後には貴女は王太子妃になるのよ。いずれはこの国の国母になるの。変な考えは持たない事よ」
腕を組んで怒ったふりをするカミラに、ティルダは両手をぎゅっと握ると意を決したように話し始めた。
「バーリエル公爵家での夜会の日にイクセル様に言われたの。大事な話があるって。多分それは聖女様の事だと思うの。私たちの婚約破棄か、聖女様を側室にと言う話だと思うの」
「…それはティルダの憶測でしょう?私には殿下がそんな事言うとは思えないけれど」
「…婚約破棄なら、私は快諾しようと思うの。けど、聖女様を側室にと言う話なら…私はどんな手を使ってでもイクセル様との婚約を破棄しようと思っているの」
ティルダの言葉を聞いたカミラは困った様に笑う。
「とにかく、きちんと二人で話をしない事には始まらないわ。私はティルダの味方だから、貴女がどんな結論を出そうと応援するわ。万が一婚約破棄となれば、いい男も紹介してあげるし」
カミラがウィンクをしながら言うので、ティルダは思わず声を出して笑ってしまった。
「だけど、必ずしっかりと考えてから答えを出してね。後悔だけはしないように」
急に真剣な顔をしたカミラは、ティルダの目をしっかりと見据えた。
「それから、これまでの殿下の事を思い出してみて。今の貴女には辛い事かもしれないけれど、少しでいいから殿下を信じてあげて欲しいの」
その言葉にティルダは思わず泣き出した。
ティルダにもわかっていた。
あれほど優しくて誠実だったイクセルが急に態度を変え、危険な思想の持ち主である聖女様に懸想するなんて何かあるに違いないと。
けれど目の前でイクセルがソフィアに優しい眼差しを向けるのを見ると、何とも言えない気持ちが込み上げ、醜い気持ちが胸を占める。
そんな自分が怖くなって、逃げる事しか出来なくなった。
「私…い、やだ。イクセルさ、ま。イクセルさまが、す、きなの」
嗚咽交じりに気持ちを吐き出せば、いつの間にか隣に来ていたカミラが、ティルダの身体を強く抱きしめた。
「大丈夫。信じましょう」
カミラの手がティルダの背中を優しくなでる。
そのままティルダの気持ちが落ち着くまでカミラは彼女を抱きしめていた。
涙が止まるとようやくティルダは顔を上げた。
「ごめんなさい。服が汚れてしまったわ」
鼻をすすりながら、ティルダはカミラのドレスに付いた自身の涙と鼻水を拭きとる。
「大丈夫よ。こんなの気にしないで。普段泥だらけのドレスの洗濯をしているうちのメイドは腕がいいのよ」
そんなカミラの言葉に、ティルダの侍女がカミラの侍女に同情の眼差しを向ける。
「じゃ、私はそろそろ失礼するわ。今日はこれからハンスと剣術の稽古なの」
「怪我をしないように気を付けて」
エントランスまでカミラの見送りに出たティルダの目は腫れ、鼻は赤くなりとても人前には出られる顔ではなかった。
「ここまでで大丈夫よ。早くその目を冷やさないと不細工よ」
カミラが揶揄う様に笑う。
「カミラ、今日はありがとう」
ティルダの言葉にカミラは片腕を曲げ、力こぶを作って見せた。
「もし殿下がティルダを傷つけたら、私が殿下をボコボコにしてやるわ」
「ダメよ。それではカミラが処刑されてしまうわ」
カミラはティルダの答えに思わず吹き出す。
「ふふ。相変わらずティルダは真面目なのだから。いい?もう一度言うわよ」
そう言うと、カミラはティルダに一歩近づいた。
「私とハンスとマティアスは、何があっても貴女の味方よ。貴女の為なら、例え相手が王族でも戦うわ。忘れないで」
その言葉に、ティルダの瞳に再び涙が込み上げる。
ティルダは声にならない声でありがとうと伝えると、カミラと再び抱き合った。
***
「久しぶりだな、ティルダ」
一周間ぶりに学園へ来たティルダに最初に話しかけたのはマティアスだった。
「おはよう。マティアスにも心配かけたわね」
「まあ、元気になったんならよかった」
他の女生徒の前では不愛想なマティアスは、ティルダとカミラの前では普通の明るい青年。
そんなマティアスは、長身で細身の体付に整った顔立ちをしている為、女生徒からの人気が非常に高い。
しかしマティアス自身そう言ったものに興味がないのか、婚約者も恋人も一切作ろうとしない。
ティルダはそんなマティアスの事をよく心配しているのだが、マティアス自身は飄々としている。
「マティアスは卒業後、すぐに家の手伝いをするの?」
「まあ、そのつもり。一応長男だし」
軽い調子で答えるマティアスだが、彼の家はこの国でも有数な侯爵家。
嫡男のマティアスは次期当主なのだ。
「それなら早く婚約者を探した方が良いのではないの?素敵な女性は早くしないと誰かに取られてしまうわ」
「…素敵な女性ねぇ。そうだね。誰かのものなら奪っちゃうのもいいかもね」
そんなマティアスにティルダは眉根を寄せる。
「マティアス、貴方ねえ…」
そう言いかけると、言葉を遮られた。
「マティアス様おはようございます」
その声を聞いたとたん、マティアスの顔がすっと無表情になる。
「あ、ティルダ様もいたんですね。気づかなくてすみません」
あからさまな嫌味を言うのは聖女ソフィア。
ソフィアの隣には当然のようにイクセルがぴったりと寄り添っている。
さらにその後ろには、十数人の男子生徒が親衛隊の様に付き従っていた。
「おはようございます。イクセル殿下、聖女様」
ティルダが学園内での簡単な挨拶をすると、イクセルも挨拶を返す。
「おはよう。ティルダ、マティアス。相変わらず仲がいいね」
その言葉に苛立ちを覚えたのはティルダだけではなく、マティアスもこれ見よがしに反撃した。
「いえ、私めが殿下の婚約者様と仲が良いなどと、烏滸がましい事です」
マティアスはそこまで言うと、チラリとソフィアがしな垂れかかったイクセルの腕を見た。
「仲が良いと言うのは殿下と聖女様の様な事を言うのではありませんか?実に羨ましい事です。私など恋人の一人もいないと言うのに」
そこまで言うとマティアスがティルダの方へと向き合った。
「しかし、オーストレーム嬢には良くしてもらっていますので、是非お礼がしたいと考えています。もしよければ今度食事でもご一緒しませんか」
普段とは違う言葉遣いに戸惑いつつも、ティルダは素直な気持ちで答えた。
「あら、マティアス様。お世話になっているのは私の方よ。私の方こそご馳走させて頂戴。そうだ、今度あの二人も誘って四人でピクニックなんてどう?丘の雪は溶けたかしら」
状況を理解していないティルダが楽しそうに話す純粋な姿を見て、マティアスは顔を背けて笑いを堪える。
その様子をティルダは不思議そうに見上げ、尚もピクニックに思いを馳せる。
「そうだわ。ピクニックに持っていくサンドイッチは私が作るわ。カミラが大好きなベーコンを沢山入れてあげるの」
それを聞いたマティアスがニッと口端を上げティルダに提案する。
「それなら俺の好きなタマゴサンドも作って欲しいな」
「いいわ。それならハンスの好物も…」
「ティルダ」
ピクニックの話しで盛り上がる二人に割って入ったのはイクセルだった。
ティルダがハッとしてイクセルを見れば、引きつった笑顔の彼がソフィアの手を引き剥がし、近付いて来ていた。
本能的に危険を察知したティルダがマティアスの背中に隠れると、イクセルの顔が更に引きつった様に見えた。
「殿下…」
二人の近くまで来たイクセルに、マティアスがそっと何かを耳打ちする。
すると、イクセルは不満げな表情を浮かべながらもそれ以上ティルダに近付く事はしなかった。
「ティルダ。丘はまだ雪が残っていて危険だ。それから、いくらただの友人とは言え、他の男性と出かけるのは外聞が悪い」
ティルダはイクセルの最後の言葉に少し苛立ちを感じ、少しだけ意趣返しをしたくなった。
「確かにそうですわね。婚約者の方以外の男性との距離感は間違えないようにしませんといけませんね」
マティアスは再び顔を背け、肩を震わせた。
「マティアス。行きましょう」
すっかり普段通りに戻ったティルダ達はその場を後にした。
去り際にマティアスがイクセルに対し、口端を上げ勝ち誇った顔をしたのにはティルダは気づかなかった。
***
ティルダが邸へ帰り部屋でくつろいでいると、部屋へ執事がやって来た。
「ティルダ様、旦那様がお呼びです。至急書斎へ来るようにとの事です」
普段帰りの遅い父親が夕刻に帰宅し、急ぎティルダを呼びに寄越す理由をティルダは容易に予想できた。
父親の書斎の前へ来ると、ティルダは一つ息を吐く。
ノックをして入室すると、疲れ切った父親がソファに項垂れるように座っていた。
「お父様、大丈夫ですか?」
「ティルダ~!」
父親はティルダの顔見るなり涙目でティルダに縋りついてきた。
「お父様、落ち着いてください」
「ティルダ、ごめん。ごめんよ~」
取り乱した様子の父親にティルダは何度も落ち着くように言うが、父親は謝るばかりだった。
暫くしてようやく落ち着いた父親は、何があったのか話し始めた。
「今日神殿からの使いが王宮にやって来て、聖女様が未来を予知したと言ってきた」
「未来を?しかし聖女様はあの川の氾濫を予知して以来、一度も力を使っていないと聞きましたが」
「ああ。聖女様の力は自らの意思で使う事は出来ないのだよ。突然頭に浮かんだり、夢に見たりするそうで、その内容は些細な事が殆どで、公表はしてないんだ」
「そうだったのですね」
過去に現れた聖女様たちもそれぞれ違った能力を持ち、その力の大きさは大小様々だったと言うから不思議ではない。
「それで、聖女様の予知とはどういった内容だったのですか?」
「…それが…」
父親はとても言い辛そうに俯きながら口を開いた。
「ティルダが王妃になった未来に、大規模なクーデターが起きると…」
「クーデター…?」
「そう。その原因がティルダだと…」
「なぜ?」
「王妃となったティルダは贅沢三昧に暮らし、民衆の反感を買うのだとか…」
その答えにティルダははぁと深いため息を吐く。
「それで、陛下はなんと?」
「それが…それを聞いた一部の貴族たちがティルダと殿下の結婚に反対しだした。あいつらは自分の娘を妃に据えるチャンスだと思って…これまで散々神殿の連中を馬鹿にしていたくせに!」
「そう。それで陛下はすぐには答えを出せなかったのね」
悔しそうに拳を握りしめる父親を、諭すようにティルダは言った。
「お父様、とにかく陛下の決断を待ちましょう。私は陛下に従います…例えそれがどんな答えでも」
ティルダの言葉に父親は、更に拳を強く握りしめ頷くことしか出来なかった。
***
「ティルダ、少しだけ時間いい?」
学園の昼休み、ティルダが一人になるとすぐにイクセルに声を掛けられた。
「イクセル様、どうなさいました?聖女様は一緒ではないのですか?」
ティルダが嫌味を込めて、いつもソフィアが張り付いているイクセルの左側を見る。
「…すまない。あまり時間がないんだ」
ティルダの言葉に困った様に眉を下げながらも、イクセルは人目に付かない空き教室へティルダを誘導した。
「今はまだ何も話せないが、すぐに終わらせる。だから待っていてくれないか?」
「話せないって?何を終わらせるの?私たちの関係?待つって?」
ティルダは散々ソフィアとの仲を見せつけられ、何も話してくれないイクセルに対し、自分でも驚くほどの怒りがこみ上げてくるのが分かった。
「ティルダ、俺は…」
「私は陛下の答えに従うわ。貴方との婚約が破棄になれば私はこの国を出るわ」
「国を出る!?」
「来月には卒業試験を受けることになっているの。試験に合格すれば国外での家庭教師の斡旋をしてくれると言う人がいるの」
「そんな話聞いていない。それに君は俺の妃になるんだ。そんな事許されるはずないだろう」
どんな時でも取り乱すことのないイクセルが、焦ったように大きな声を出す。
「そうね、イクセル様には話していなかったわね。そもそもイクセル様は聖女様と一緒におられて、私のお話を聞く時間などなかったではありませんか。それから私はお飾りの妃なんてごめんです。そんなものになるくらいなら、その辺で野垂れ死んだ方がよっぽどましだわ」
一息に言い切ると、ティルダは息を切らしながらキッとイクセルを睨んだ。
そんなティルダに対し、イクセルが何か言おうと口を開いた直後、聞きなれた甲高い声が響いた。
「イクセル様。探しましたわ」
二人がいる空き教室の窓からソフィアがにゅっと顔を覗かせた。
途端、イクセルがティルダの身体を押しのけソフィアの近くまで駆け寄る。
「すまない、ソフィア。少し彼女と話があったのだけど、もう済んだから行こう」
そう言って、イクセルはソフィアと一緒に空き教室から離れていった。
残されたティルダは、未だ収まらない怒りで肩を震わせていた。
その放課後、ティルダがカミラとハンス、マティアスと一緒に教室に残り話をしていると、教室にソフィアがやって来た。
珍しくイクセルと一緒ではないソフィアは数人の男子生徒を従え、四人の元へやって来た。
「ティルダ様、少しお時間よろしいでしょうか」
ソフィアの言葉に一瞬戸惑いを見せたティルダだが、ソフィアと話をしてみたいと考えたティルダは頷いて見せた。
「ティルダ、駄目よ。せめて殿下がいる時でないと…」
「そうだ。すまないが聖女様、またの機会にしてもうらおうか」
カミラとマティアスが必死で止めようとするが、ティルダは二人に向き合うと、心配ないと目で合図した。
「三人は先に帰っていて。護衛もいるし、ここは学園よ。危険な事なんて何もないわ」
ティルダは三人にそう言うと、ソフィアの方へ歩き出した。
「せめて俺も一緒に行かせてくれ」
マティアスが声を上げると、意外にもソフィアが賛成をした。
「いいですよ。私マティアス様の事が気になっていたんです。ふふ。この機会に二人に私の話を聞いてもらおうかしら」
ふふん。と鼻歌交じりでご機嫌なソフィアは、二人を中庭へと連れて行った。
お読み頂きありがとうございます。