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ふらりふらりとヨルは行くあてもなく彷徨っていた。初めはマンションの中で落ち着くことなく移動していたが時間が経つにつれてマンションの屋上まで範囲が広がった。ヨルのうろつく範囲は限度なく広がり、沢渡高校まで足を伸ばしていた。
学校にはいつもの活気がない。響司が夏休み中は学校にあまり行かないし人がいないと教えてくれたが、ヨルの想定していたよりもはるかに少なかった。欲望のまま鳴る魂の音がぶつかり合わないのが物悲しくなる。人間にとっては雑音のように聴こえる魂鳴りの衝突でも音の悪魔にヨルにとっては心地良かった。
校庭でサッカーをしている少年たちをヨルは欠伸をしながら観察していた。
「音は鳴れど刺激は足りぬな」
響司の行動を観察するのは最高の暇をつぶしだった。『欲無し』であり異物に対して心で接する人間の子供。それ故に何をしでかすかわからないビックリ箱である。刺激がないはずがない。しかしエルドランドが共に行動しているとなると観察する気にはならなかった。
「エルドランドとの話をキョウジに聞かれて拙い欲を刺激されて魂が離れられては困るしのう」
無限に続くエルドランドの自己満足旅行に付き合うつもりは毛頭ない。ただ『ヨルと一緒にいたい』という歪な欲を持つキョウジには間違っても聞かせてはいけない。ただの面白ビックリ箱であればいい。パンドラの箱になられては面白くない。
――ピッ-! ピッ-!
ホイッスルが鳴った。サッカーの試合が終了していた。ホイッスルに混じっていた犬笛のような音でヨルは背筋を伸ばした。
「黒紐がワシを呼んでおる……? 妙だな。エルドランドの爺がいるにも関わらず鳴るものか?」
鳴りやまない緊急連絡音。聞き間違えではないようだった。
ヨルは音の鳴る西へ向かい、身体の黒い靄を飛行機雲のようにして空を飛ぶ。
「爺より強い悪魔が現れたか? 人の魂を喰っていればワシの耳が逃すはずがない。同族喰らいか? 否。爺より強い同族喰らいなぞいてたまるか」
頭の中を口に出して整理するヨル。同時に思い出すのは前の契約者であるライゼンの死だった。置いてけぼりにされ、勝手に敵地に乗り込み死んでいった。強い人間だからと思って互いに自由を謳歌していた。今度はそうならないようにとキョウジに呪いをかけた。契約者を守るための呪い。害なす者を退ける呪い。
ふとエルドランドの言っていた『忌み名狩り』が頭に浮かぶ。
「爺がいるならキョウジは無事なはずだ。無事であれ」
犬笛の音の方角が急に変わる。人間にはありえない速度で南に移動している。エルドランドが響司を抱えて移動しているのか、響司が悪魔に捕まって移動しているのかのどちらかだ。
「まだ足りぬのか! 足りぬのか!!」
ヨルの慟哭を聴く者はいなかった。
黒紐の鳴らす音が止み、音の無くなった場所に辿り着いた。それはエルドランドと再会した神社である。
「やぁ、ヨル坊。元気かい?」
使う必要のない杖を突きながら歩く老人は笑みを浮かべた。
ヨルは四本爪の左腕を黒い靄の身体から出した。
「エルドランド、何のつもりだ」
背後には結界。結界の中に閉じ込められているのは人の世にあってはならない大木。葉は濃い紫。花はなく、実であるかのように大量になる骸。異形の大木の幹の中心に響司の顔だけが外に放り出されていた。意識がないのか目を閉じたまま動いていない。黒紐が音が止まったのも幹に固定されてしまったからだろうとヨルは予想した。
「手は出さぬと言っていたではないか。それなりに信用していたのだがのう。のう」
「そうだったのかい? 意外なこともあるものだ。嫌われているものだとばかり思っていたけど思い過ごしだったのか」
いつもの調子で話すエルドランドにヨルは爪で切り裂こうとする。だがエルドランドは笑みを浮かべたまま細い木の杖一本で爪を弾いた。
「そう怒らないでくれ。ボウヤには手を出していないよ。ただ交渉をしたいだけなんだよ」
「交渉だと? 脅しの間違いではないかのう。のう!」
「ヨル坊が一緒に着いてくると言えばこの子は返すよ。ただそれだけのことじゃないか」
簡単だろう、とエルドランドの細い目は言っていた。
「知らない間に外道になったかエルドランド。ワシの契約者に手を出したのだ。無傷でいられると思うなよ」
「言うようになったじゃないか『夜兎』。勝負になるといいね」
ヨルは爪の先から黒い糸を出した。対してエルドランドは垂れさがっていた蔓を動かす。二人の構えは鏡に映したように左右反転していた。