7
「ここがグラムがいた病院です」
人の出入りがいつもよりの少ない沢渡大学病院の前で響司は歩みを止めた。昼間に見る病院だけであればよかったのだが、黒い影が病院の上空に浮かんでいた。悪魔が前よりもいるように見えた。悪魔のせいか空気が人を拒絶するように重い。
エルドランドは病院の敷地にどんどん入っていく。エルドランドも病院の白い壁の染みに見える黒いに視線を合わせているのか、顔を常に上に向けていた。
「忌み名持ちたちの戦闘があった後だというのに悪魔が出入りしているようだね。でも生きている人間を無理やり狩っている様子もないし大きな問題はないかな」
エルドランドの診断に待ったを言いたくなったが、響司が悪魔を見えるようになる前からそうだったのだろう、と言葉を飲み込んだ。
「問題があるのはやはり土地の方か」
突然、エルドランドは病院のエントランスから早足で駐車場に向かっていった。しかも駐車場の付近に植えられた木の樹皮を撫でている。
「申し訳ないねぇ。ワタシの同胞が土地を荒らしてしまった」
本当に申し訳なさそうに木に話しかけるエルドランド。エルドランドの言葉に応じるように風もないのに木が揺れた。
「わかっているとも。私がどうにかしよう」
始めてエルドランドと会ったとき、神社の御神木に対して話しかけていたように見えたが、本当に話していたのではないか、と響司は思い返す。
(音の悪魔であるヨルが魂の音を聴けるなら『鎮樹』って呼ばれるエルドランドさんは木の声を聞くことが出来るのかな)
勝手に予想をしているとエルドランドは響司の手を引っ張って木の樹皮に触れさせた。
温もりの奥の奥。冷たい空間が歪みを作っていた。歪みは蟻地獄の巣のように広がり、魂と悪魔を吸い寄せている。蟻地獄の中心は病院である。
「今のは?」
「感じたかい? あれは土地は歪みだ。攻撃的な悪魔の力を浴び過ぎた土地の証であり傷痕だよ」
響司の手を放したエルドランドは残念そうな顔で土を一つまみした。
「邪な感情を高ぶらせたり死者を無作為に引き寄せてしまうようになってしまうんだ。悪魔たちの餌場の始まりとでも言えばいいのかな。そうなった土地を人間は無意識に避けるようになる。人間が寄り付かなくなったらゆっくりと時間をかけて悪魔たちが集まり、餌場となる。ここは怪我人たちが世話になる病院だ。ただでさえ悪魔が寄り付きやすい場所なのに餌場なったら手が付けられなくなる」
空気が重く感じたのは土地が歪んだせいか、と響司は納得した。
「だからまだ餌場になっていないうちに直しに来たんだよ」
「悪魔の力で歪んだ場所を悪魔が直せるんですか?」
「まぁ、見てなさい」
エルドランドは自信ありげな顔でスーツのポケットから濃い緑色の布袋を出した。それは悪魔を葬った種が入っている袋である。袋にしわだらけの手を入れた。手を器代わりにして、種を掬い、地面にばらまいた。
妙に強い存在感を放つ種が地面にぶつかると、芽吹くわけでもなく地面に溶けていく。溶けた後、青い匂いの爆弾が爆発した。爽快感すらある匂いは頭を冴えさせるハーブのようだった。
「匂いが、変わった?」
次の瞬間、響司の身体を冷たい何かが通り抜けた。初めて幽霊を触ったときのような肌寒さ。身体の内側から生気をすべて吸われていく。
視界が反転し、色がなくなった。退屈で死ぬときに近い。しかし、死ぬことが直前にわかるのに分からなかった。急激な変化で自分が生きているのか死んでいるのかもわからない。
暗い暗い闇の中へ意識を丸々吹き飛ばされてしまったらしい。
「ゆっくり飲み込みなさい。ゆっくりでいい」
エルドランドの声だけが頭に響く。
何かが口の中に転がってきた。固くて舌の上で転がすとザラザラと細かい凹凸がある。飲み込めと言われたので響司は喉仏を鳴らして飲み込んだ。
目の前が明るくなった。エルドランドが響司の顔を覗き込むようにしていた。どういう経緯か分からないが、響司はさっきまで立っていた場所で倒れてしまったようだった。
「よかったよかった。ヨル坊に怒られるところだったよ」
「僕、もしかして死んでました?」
「死んでいたというよりも毒に当てられて意識を失ったという方が正しいかな」
エルドランドは響司の隣に腰をゆっくりと下ろした。そして響司の胸を指差した。
「歪みを矯正した後、汚染していた力が一気に外へ出るんだ。人間にとっては毒だ。その一部を浴びてしまったんだ。ボウヤは負の力に敏感なようだね。普通の人間は力を浴びても寒気がするぐらいで倒れたりはしない。応急処置として私の種を飲ませたから前よりも元気なはずだよ」
「僕の身体の中から木が生えたりしません?」
「大丈夫さ。力は使いよう。悪魔を倒すような使い方もあれば、土地や人間を癒す使い方もある。ご所望なら種をもう一個飲むかい?」
響司は高速で首を左右に振った。エルドランドはそうだろう、そうだろう、と言って口を大きく開けて笑った。
ひとしきり笑ったエルドランドは不意に囁いた。
「ヨルをワタシにくれたら、負の力に敏感な身体をどうにかしてあげよう」
突然の申し出に響司は後退りして、エルドランドから距離をとった。
「キミが本当に人間に戻りたいというならワタシが叶えよう。だから代わりにヨルをワタシにくれないかい?」
エルドランドの目に嘘はない。そもそも悪魔対人間だ。嘘をつく必要なんてない。同じぐらい尋ねる必要もないのに尋ねてきた。
奇妙な行いに響司は警戒心が跳ねあがる。
「嫌です」
「ボウヤには何のデメリットもないはずだよ。拒否する理由なんてないだろう」
「また空っぽの家に帰るのは嫌だから」
「ヨルがいなくなった後、ペットでも飼ったらいいんじゃないかな。そうすれば丸く収まる」
収まってたまるか、と響司は大声を出しそうになる。誰かが誰かの代わりになるはずがないことを響司は知っている。母親の死後、父親が母親として振舞おうとお弁当を作ってくれたことがあった。しかしそこに母親のお弁当なら入っているべき甘い卵焼きはなかった。代わりに入っていたのは出汁巻き卵である。
「ヨルはヨルです。代わりなんていません」
響司がエルドランドの意見を突っぱねると、エルドランドはさっきよりも大きな声で笑った。それは病院の敷地を超えて道路を走る自動車にも負けないぐらいだった。
「それはその通りだ。ワタシの言ったことは忘れてくれ」
エルドランドは切り替えが早かった。響司は追いつけず、まだ警戒のアンテナは高めにしていた。
「念のために聴くけど、ヨル坊との契約ってに無理やり契約を迫られたとか気が付いたら契約していたとかじゃないよね?」
本当に何もなかったかのように振舞うエルドランドに響司は拍子抜けした。
「……最初は目が覚めたら契約してましたね」
「最初?」
「ヨルとは再契約したんですよ。『烙炎』と戦うとき僕がヨルと契約してると魂が不安定な状態になっちゃって……」
「まさかと思うけど、呪いは契約しているときにもらったんだよね?」
「契約してないときにですけど」
エルドランドは頭を抱えていた。呻きながら頭を振る。見たことのないエルドランドだった。
「だからボウヤの魂は苦しそうなんだね。ヨル坊め、ケアもしないのか。いや、出来るはずもないか」
ぶつぶつと呟くエルドランド。響司は聴き取ろうとエルドランドに近づいた。
響司の目の前でエルドランドが親指と人差し指を弾いた。弾いた指の中から潰れた植物の種が出てくる。今度の種はどこか油っぽい香りをさせた。
匂いを嗅いでから目が開けていられない。瞼が勝手に閉じていく。歪みに触れた時とはまた違う感覚が襲ってくる。
響司の身体は振り子のように揺れながらまた地面の上で横になった。そして規則正しい寝息を立てている。
「これはちょっと本気で取り組まないといけないかな。場合によってはボウヤには悪いが本当にヨル坊との契約を解除してもらわないと――呪い殺されてしまうかもね」
エルドランドはため息をつきながら響司をお姫様を抱くように抱き上げた。
「本人たちが望むなら手を引こうと思っていたけど、こればかりはしょうがないよね」
次投稿、遅れます