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汗をたらした響司が買い物を終えて家に帰ると玄関にヨルが佇んでいた。いつもならタンスの横の隙間に収まっているか、リビングで音楽番組を探してリモコンを骨の爪でつついている。
相変わらず表情らしい表情は読めないヨルではあったがいつもと違う行動をするということは何かがあったのだと察せれる。どういう感情なのかまで読めないのがどこか歯がゆい。
「エルドランドさんに会ったよ」
何を喋ったらいいか分からなかった響司は事実ベースでヨルに話しかけた。
「知っている。黒紐が警戒音を出したので確認しに行ったからな」
話は繋がったが、ヨルの言葉遣いが普段の五割増しで荒っぽい。
靴を脱いでキッチンまで買い物袋を運ぶ響司の後ろをヨルは大人しくついてきた。
「やっぱりそうなんだ。近くまで来てたんなら一緒にいればよかったのに」
「断る。あの根なし草の相手なぞ御免こうむる」
「人間の僕を助けてくれたよ? グラムの知り合いらしいし良い悪魔なんじゃないの」
買い物袋からサラダのパックや牛乳を出して、冷蔵庫に入れる物を入れていく響司。ヨルはというとずっと響司から目を離すような素振りをまったく見せなかった。
「良い悪いで線引きできるような奴ではないわい。彼奴の眼鏡に叶えば生かされ、意にそぐわない存在は消される。意思がある分、天災より厄介な爺だ」
「そんな風には見えなかったよ。お昼も奢ってもらっちゃったし」
「餌を与えられて懐くのであれば獣と変わらんぞ」
獣と言われて、響司は薄い目でヨルを見つめた。
(本当の姿は黒兎。自由気ままな姿は野良ネコなヨルの方が獣じゃないか)
無音の反撃は悪魔のヨルでも認識できないらしく、大きな身体を屈ませて眼をつけるようにヨルの顔が近づいてくる。
「なんだ、その一言物申したそうな目は」
「何も思っておりませぬ」
入れる物を入れ終えた響司は冷蔵庫を閉めた。そして、エルドランドという悪魔のことを思い返す。
「ノイズがしなかったんだ。それに悪魔に人間が食べられそうになったのを防いでくれた。悪い悪魔ならそんなことしないと思う」
例えノイズが聞こえたとしても分かり合える悪魔はいる。『烙炎』に消されてしまったウバナがそうだった。未だに『烙炎』の調査という依頼を軽率にウバナにしてしまったことを思い出して、響司は己を責めてしまう。
「結果論だ。あの爺は己のためにしか動かん。悪魔の中でも我が強く、救えない奴だ」
「ヨルもそこそこ我が強いと思うけど」
「さぁな。爺と意地の張り合いなぞしたところで面倒なだけだ」
「無駄なケンカをしないほど仲良し?」
「あの爺と? ワシが? 寝言は寝て言え」
「エルドランドさんがヨルの事、友達だって」
「『忌み名』持ちで彼奴を知らぬ悪魔の方が珍しいわい」
ヨルは仰いだ。視線の先は白い天井しかない。それでもヨルは仰いだままだった。
「あの爺は『忌み名』を持つ悪魔のところに現れるんじゃよ。ワシと初めて会ったときも『夜兎』という名が広まり始めた頃だった」
特に前置きもなく昔話が始まった。ヨル自ら話し始めたのはおそらく初のことである。響司は何が始まったのかと驚いたが、すぐに真剣に聴き入った。
「あの爺は良くも悪くも最初は敵ではないのだ。しかし昼行燈というわけでもない。己の自己満足のために人間の世界に留まり続ける監視者あるいは裁定者だ。『忌み名』を持つ悪魔の素行を調べ、害になるなら排除し、益となるなら放置する。それがエルドランドという悪魔だ」
「力の強い悪魔が『忌み名』を持つんでしょ。危なくないの? 近づいたら」
「奴も『鎮樹』という『忌み名』持ちだ。しかもワシが知る悪魔の中でも古株も古株。そんじょそこらの悪魔は手も足も出せぬ相手だ」
街中で表れた悪魔が樹になった光景を見た響司はエルドランドの力量に関しては疑う余地はなかった。しかし、その他の行動に関しては不可解すぎた。
「そうかも。でも悪魔に力を分け与えるとか言ってたけどそれは何か意味があるの?」
「まだそんなことをしているのか。救えないのは百年経っても相変わらずか。意味なぞキョウジが求めるな。求めた先にあるのはどうしようもない答えだ」
「さっきから救えないって言ってるけどエルドランドさんは強いんだから救われるケースなんてないんじゃない?」
鼻で笑ったヨルは左手から黒くて細い糸を出し、あやとりのような遊びをし始めた。
「救えないのはクソ爺の在り方だ。悪魔を幸せにすること。それがエルドランドという悪魔の在り方だ。そのために人間の世界に留まり続けている。悪魔が悪魔を幸せにするなぞ滑稽もいいところではないか」
小馬鹿にするような笑いを小さく、何度もするヨル。なぜヨルがエルドランドを馬鹿にしているのか響司にはわからなかった。
「不幸は悪魔も人間も関係なしに嫌でしょ。幸せになれるならいいことじゃないか」
響司の質問でヨルは笑うのをピタリと止めた。同時にあやとりをしていた左手も止まる。
「キョウジは何もわかっとらんな」
ヨルの左手に響司の頭は掴まれた。ヨルと視線がバッチリ合わせまま頭を固定してくる。
「悪魔は幸せの定義を知らぬ。なにせ己以外を認識できない『闇』で悪魔は生まれるのだからな。幸せをまったく知らぬ奴らを幸せにするなぞ不可能だ」
「幸福と不幸の区別が出来ないのか……。ならどうやって幸せにするんだろう」
「人間から学ばせるんだそうだ。それ以上は知らん」
投げ捨てるようにヨルは響司の頭を離した。離されたとき、力が強かったため響司の重心がぐらつき、よろけた。
「エルドランドにどういう印象を持とうが勝手だが『味方にだけはならない悪魔』ということは頭の片隅に置いておけ。あの爺は最初に大当たりを引いてしまった哀れで救えない悪魔だからのう。のう」
そういうとヨルはキッチンを出ていった。向かっている先はタンスの横の隙間だということは歩いている方向から見て明白だった。尋ねたいことがあったので響司はタンスの横に行ったヨルを追いかける。
「ヨルは、幸福と不幸の違いって分かるの?」
悪魔は幸福と不幸の区別ができないのが孤独だからとしたら、契約悪魔として外に出てきているヨルは区別できているということだ。できているのだとしたら、ヨルの口から聞いてみたいことがあった。――今の状況はヨルにとって幸せか、と。
「さぁな。不幸であることは認識できるが幸福は分からぬ。分かったところで何かが変わるわけでもあるまい」
ヨルの声は珍しく下がり気味のトーンで、何かを諦めているようにしか聴こえなかった。