5
喫茶店でミックスサンドを御馳走してもらった響司は笑顔で喫茶店を出た。夏の暑さでゆっくりと幸福感が溶かされていく。
太陽に直接視線を向けないように右腕で目元に影を作って仰いだ。
「太陽さん、どうして君はいじめてくるの……」
「問いかけても欲しい答えは返ってこないんじゃないのかな?」
会計を済ませて出てきたエルドランドが無常な事実を突きつけてくる。
「それでも問いかけたくなるんですよ。汗でベトベトになるの好きじゃないんで」
「大変だね、人間は」
「その見た目で言わないでくださいよ」
「確かに」
エルドランドは杖を右手から左手に持ち替えて胸ポケットから懐中時計を取り出して時間を見ていた。
「時間もいい頃だろう。買い物をしていないボウヤを長々と付き合わせるのも悪いからここまでにしておこう。まだ悪魔が隠れているかもしれないから、そちらを処理しないといけないしね」
「そうですか?」
「気を付けて帰るんだよ」
あっさりとエルドランドは響司がいる方向とは逆の方向へと歩いて行く。杖が杖としての仕事をしているのかわからない綺麗な姿勢で早足だった。
取り残された響司は買い物が終わった後のことを思い描く。今日だけではなく夏期講習が始まるまでの間すべて予定がない。去年はこの時期、高校の先生に依頼されて多目的室の清掃を手伝っていた。文化祭の準備や夏祭りのボランティアもまだない。
ヨルとどこかへ行くにしても悪魔のヨルとどこへ行けばいいのか分からない。唯一、見当がつくのはオーケストラの演奏を聴きに行くことだ。しかし、自分が楽しめるかと言われれば、絶妙にずれている気がしていた。
(退屈しのぎがなさすぎる)
ただの退屈しのぎが意味を持つならきっと最高の退屈しのぎとなる。ヨルと契約する前から響司がずっと信念に近い思考であった。退屈しのぎに関わる存在が悪魔か人間かはどうでもよかった。
響司はエルドランドを追いかけた。追いつき、追い抜いて、エルドランドの前に立った。
「どうかしたかな?」
「確か病院を探してるって言ってましたよね。それってグラムのいた病院ですか?」
「その通りだけど、あぁ、なるほど」
納得したようにエルドランドは口元を緩ませ、頷いた。
「なら、案内できます。だから一緒に行きませんか?」
突然、エルドランドは渋い顔をした。腕を組んで固まる。そしてエルドランドは一瞬だけ目線を左右に動かした。
「そうだね。案内してもらえるならしてもらおう。ただ明日でいい。また明日、ボウヤと出会った神社で待っているよ。だからボウヤは買い物に行きなさい」
響司はエルドランドからどこか追い返そうとしている気配を感じ取とり、自分が恩の押し売りをしていることに気が付いた。
「変なことを言ってごめんなさい」
「謝罪は不要だよ。私は病院の場所を教えてもらって助かるんだから。ただちょっと用事があるだけなんだ。大切な用事がね」
エルドランドはそのまま響司の真横を通りすぎていった。後ろを振り返ったときには姿がない。空を見上げると老人が空にいた。電柱の頭に着地しては次の電柱へと飛び移る。
「昨日みた影、絶対にエルドランドさんだ……」
―― ◆ ―― ◆ ――
電柱と電柱の間を簡単に飛ぶエルドランド。その横に黒い影がぴったりと張り付いた。
「なかなかに面白いボウヤじゃないか、ヨル坊」
黒い影に草食獣の頭蓋がクククと小さく笑った。
「珍しいこともあったものだな。人間嫌いの貴様が人間に面白いと評するか」
「欲がまともに見えない人間に強力な呪いがまとわりついていたからね。気になって当然ではないかな。あと、私が嫌う人間は何の価値も生み出さない人間だけだよ」
空中で二体の悪魔は会話を始める。
「そういうヨル坊こそ私と一対一で話したがるなんて今までなかったじゃないか。別に私は契約者のボウヤに危害を加えるつもりはないよ」
「そんなことはどうでもよい。何用だ。意味もなく貴様がワシの前に現れることないじゃろう」
ヨルはなんとなくではあるがエルドランドが何故、現れたのか察しがついていた。もし予想が当たっているのなら『話』にならなくなる。響司に聞かせる話ではない。だから早めにエルドランドに嫌々姿を出し、響司を引き離したのだ。
予想外だったのは響司とエルドランドが共に行動し続けたことだ。
二度、姿を出してようやくエルドランドに伝わったのだった。
ある程度、響司から離れたところでヨルは静止した。エルドランドも電柱の上に立ち止まった。
「悪魔の間で噂になっている『夜兎』が本物であるかの確認だよ」
「真実だった感想はどうだ」
「予定が狂わなくて安心しているよ」
エルドランドは指差すように杖でヨルの顔を指した。
「ワタシと共に来ないかい?」
あまりにも予想通りすぎたエルドランドの言葉ににヨルは舌打ちを返した。
「断る。言ったはずだ。貴様の目的にワシを巻き込むな」
「ワタシはこう返したよね。諦める気はない、と」
昔から旅についてこいとしつこかった。ライゼンと共にいたときも諦めてはくれなかった。この件に関しては諦めるという言葉がエルドランドにはなかった。
「ワタシの力で野良悪魔たちを世界に繋ぎ止め、選別し。魂鳴りを聴くことのできるヨル坊の耳で人間の本質を聴き分け、選別する。選別した両者の中で相性の良い者たちで契約させる。そうすることで一体でも多くの悪魔たちは救われる。ヨル坊の力が必要なんだよ」
「貴様の道楽に付き合うつもりはない」
「道楽ではないよ。野良悪魔が増えれば人間側に大きなダメージが行くだろう。大人しく人間に絶滅されたら困るし、下手に人間を刺激しすぎて悪魔狩りなんて始まってご覧よ。悪事を働いていない同胞が可哀そうだと思わないかい?」
自己満足の権化。ヨルにはエルドランドがそう映っている。
「他を当たれ。そもそも他の悪魔も人間もワシには関係ないことだのう。のう」
「力目当てで誘っているわけではないよ。人間と関わることの重要性を理解しているキミだからこそ誘っているんだ。悪魔と人間はプラスの交わりをすることで新しい扉を開くことが出来る。悪魔も良い方向に進めるんだ」
「下らぬ思想を押し付けてくるな。そういう偏った思想は今の契約者だけでたくさんだ」
自殺願望はないのに行動が自殺を望んでいるとしか思えない思考。自分の命の価値を棚に上げているのか低く見積もっているのかヨルには分からない。呆れてしまいそうなほど歪んだ存在。それでも気にかけてしまうところがあるのだ。
「あのボウヤはライゼンではないよ」
杖を下ろしたエルドランドがわざとらしく呟いた。
「言われずともわかっとるわい!」
ヨルは声を荒げた。エルドランドは嫌いではないが、エルドランドと会話するのは嫌いだった。見たくもないものを無理やり首を固定させられて見せつけられる拷問を受けている気分になってしまう。
「そうかい? ワタシの目にはライゼンと重ねているようにしか見えないね。まるで過去をなかったことにしたい愚かな人間と同じだ。慣れない呪いまで使ってね」
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。言えぬなら無理やり吐かせてやろうか」
「不釣り合いな契約で力を出し切れない兎にワタシが負けると思うかい?」
すべて見抜かれていた。響司という半端な人間と契約するために悪魔にとって最悪の結界を生み出すオルゴール――『月下の檻』に力を封じ込めている。
弱っていたはずの『烙炎』と対等以下の戦闘しか出来なかった。エルドランドと戦えばおそらく消滅するのは明白だった。
「ケンカを売ってきたのはそちらだぞ、『鎮樹』」
『鎮樹』と忌み名で呼ばれたエルドランドは杖を持ち上げて二回、自分の右肩の上で跳ねさせた。
「ライゼンでないと本当に分かっているならいいんだよ。今後降りかかるであろう火の粉をライゼンなら振り払うが、ボウヤには無理だろうからね」
「ワシがどうにでもしてやるわい」
「火の粉を呼び込む元凶なのにそんな口を叩けたものだね」
「なに?」
「『烙炎』を倒した悪魔がいるという噂がチラホラ流れていてね。誰が倒したか情報はないがどうも『夜兎』という悪魔を狩りに行ったらしいというところまで情報が出ている。ここまで出ていれば誰が倒したかなんて察しが付くものだ」
「それのどこが火の粉に繋がる。むしろワシに喰われぬように離れていくだろうよ」
「時代が変わったんだよ、ヨル坊」
エルドランドは電柱の上に足を垂らして座った。
「忌み名狩りと呼ばれる行為が悪魔の間で流行っていてね。忌み名持ちを倒して名をあげることを指す。本来、忌み名とはキミの認識どおり『危険な悪魔の特徴を伝え、逃げる目安』のようなものだったんだが、意味合いがどんどん変わっていてね」
大きなため息をしたエルドランドはつまらないものを見るような目をした。
「噂に『烙炎』に『夜兎』と忌み名が二つも出てきているというのに過激な野良悪魔連中は好機としか思っていない。さてさて、キミは無事でも、あのボウヤはどうだろうね」
エルドランドは暗に言う。――私に付いてこれば響司は悪魔に襲われずに済むぞ、と。ライゼンと同じことになるぞ、と。
ヨルは骨だけの左腕を出して、黒い糸を準備する。ヨルの身体といえる黒い靄も動物が身体を大きくして威嚇するように膨れ上がる。
「失せろ、クソ爺」
怒りを露わにしたヨルに対してエルドランドは帽子を深く被って、ヨルから視線を逸らした。
「出直そう。ワタシはただスカウトしに来ただけで戦う気はないからね」
「神経を逆撫でしてきてふざけたことを抜かすな!」
「あぁ、そうそう。明日もボウヤを借りるよ。教えてあげたいことがあるからね。もちろん、傷つけはしないよ」
あくまでマイペースなエルドランドは話を切り上げた。そして電柱を軽く蹴って、逃げるように離れていった。
「老木め。ワシの前で本性を見せたら、枝の二本か三本折ってやる」
エルドランドの背中を見ながらヨルは吐き捨てた。響司のいる場所に戻ろうかと思ったが、エルドランドの一言で乱された感情が落ち着くまで家を離れることにした。
「キョウジはキョウジ。ライゼンはライゼンだ。他に何があるというのだ」
口にせずとも分かっている事実。しかし、このときばかりは未練がましく聞こえた。再契約をしたときに断ち切ったと思っていたライゼンへの未練はまだ断ち切れていなかったらしい。
「貴様は死んでもなお、ワシを困らせるのう。ライゼンよ……」
空をたゆたいながらヨルは口笛でとあるメロディを奏でる。『夜兎』と呼ばれていた頃に暇で暇でたまらず作った無名の曲である。
ライゼンは何故かこの曲が気に入っていた。『月下の檻』に組み込むほどである。ただ原曲通りではない。『月下の檻』が奏でるのは、森の中で兎が楽しそうに飛び跳ね、遊びまわるような曲である。
原曲であるヨルの曲を初めて聞いたライゼンはこう感想を述べていた。
『いい曲だけど……この曲は時間と共に頭上を通り過ぎる一人ぼっちの月を憐れんでいるのかな。少し、ほんの少しだけ、寂しすぎやしないか?』と。