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「さて、今日から何しようか」
十時過ぎに起きた響司は朝食よりも先に昼ごはんの買い出しをするべく、スーパーまでの道を歩いていた。ただいつものように駅の方まで一直線に行くのではなく、神社の公園を経由する遠回りをしている。
夏の暑さが嫌なら素早くス―パーに行って帰れる自転車を使えばいいところをわざわざ徒歩で向かっていた。自転車を選ばなかったのは数年の間に染みついてしまった退屈しのぎのせいである。
退屈で虚無の時間があると響司には死が訪れる。本当に死にはしない。短時間、魂が肉体から切り離される。言葉にすると実にあっけない臨死体験。誰からも理解されない。話のネタにするには不謹慎すぎる。厄介の種である。
「夏に神社の階段を昇るものじゃないね。しんど」
ヨルがいれば『人間は不便だのう』とからかってきただろうが、今はいない。相変わらずの自由人ならぬ自由悪魔である。
(あれって……)
神社の鳥居をくぐる直前に響司の足が止めた。
境内にある御神木の前で杖を持っているにも関わらず、少しばかり姿勢の良い人物がいたのだ。公園が神社の裏にあるので、昼間に人がいることは珍しいことではない。響司が足を止めた理由は電柱の上にいた謎の英国紳士とスーツがそっくりだったからだ。
白髪と対照的なダークブラウンの帽子が落ちないように杖を持っていない右手で押さえて、御神木を見上げていた。
しわくちゃの横顔が笑みでさらにシワが増える。
「良いね。キミは愛されているよ」
笑顔で御神木と対話をする老人。下手に話しかけてはいけない空気を感じて、響司は距離をとりながら、気付かれないように老人の背後から神社裏の公園へと忍び足で向かう。
「ボウヤ、少しいいかね」
無駄だった。老人の後ろを通り過ぎたところで声を掛けられてしまった。
「はいぃ……」
響司は渋々、小さい声で返事をした。
「この辺りに住んでいる子供かな?」
落ち着いた低い声で話しかけてきた老人は優しそうに聞こえる。しかし、帽子の下から覗いてくる老人の目が明らかに別の感情をはらんでいるのである。
かなしばりにあったように動けなくなった響司は静かに老人の品定めに近い視線をあびる。
「怖がらなくていいよ。ワタシは世界中を旅していてね。訪ねた土地と住んでいる人間のことを調べているんだよ」
老人が友好的に両腕を広げて、響司に笑いかける。同時に響司のかなしばりが解けた。
かなしばりを老人がかけていたのではないかと響司は錯覚してしまう。だが錯覚は錯覚だ。
錯覚だと断定できるのは、ヨルから受けた呪い――『黒紐』が発動していないからだ。『烙炎』の攻撃を防ぐ性能と『黒紐』の判断による防衛行動。呪いというより加護と呼んでもいいものである。響司の右腕に巻きつけられている『黒紐』は響司が危険になれば自動的に動き出している。攻撃されていないから『黒紐』は沈黙したままだということになる。
(僕の気にしすぎかな)
老人の姿があまりにも似すぎている。サマースーツだとしても夏の日差しの中、汗をかかずに外にいるというのは腑に落ちない。ただ老人を悪魔だと決めつけて行動するのはあまりに失礼でもあった。
――普通の人間には悪魔の存在は関係ないのだから。
「はい。この辺りで暮らしてる学生です」
響司は思考を切り替えて、老人にはっきりと伝えた。
「やはりそうか。時間があれば少しばかり街の案内を頼まれてくれないかな? 昨日やってきたばかりで右も左も分からなくて参っていてね。ちゃんとお礼もしよう。いかがだろうか?」
時間はある。ありあまっている。退屈しのぎにはちょうど良かった。
「買い物のついででいいなら」
「ついでで構わないさ。時間だけはたっぷりある身だからね。お願いするよ」
老人は帽子をとった。日本人離れした高くて、すっとした鼻と細い目が現れる。その後、老人は歳をとっているとは思えないほど伸びた背筋を前に倒して、深く丁寧なお辞儀をした。
初対面の、しかも目上の人に頭を下げられて響司は困惑する。
「頭を下げないでください!」
「礼儀作法の厳しい日本では当たり前ではないのかい? 場合によっては土下座というものをするはずだ」
「厳しいかな? そのへんはわからないですけど、今まで生きてきて、おふざけ抜きの土下座は見たことないです」
最近見た土下座といえば二週間前。期末の勉強をサボっていたのがばれてしまった九条彩乃が紀里香に何度も謝っていた。テストで赤点をとると夏期講習強制参加と追加課題が待っている。夏休み明けすぐにある文化祭の準備で人手が欲しいのにテストの点が悪かったからという理由で人手が減るのは演劇部としてはそこそこ痛いらしい。
「そうなのかい?」
老人は難しい顔をしながら帽子をまたかぶった。
「しかし、こちらの願いを受け入れ、叶えてくれるのなら感謝すべきであり、誠実に伝えるべきだとワタシは考えていてね。それが例えどんな相手だろうと感謝は忘れてはいけないんだよ」
キミはどうだい、と問われている気分に響司はなった。頭に浮かんだのはクラスメイトの紀里香や彩乃に晴樹。何よりも大きく存在感を放っているのは一度だけ見た二足歩行する大きな大きな黒兎の背中である。
「多分、僕が一番感謝を伝えたい相手は素直に受け入れてくれませんね」
響司が答えると、老人は響司の頭上付近を向いていた。そして、小さく頭を下げた。学校で同じ部活の先輩と不意に出くわしたときにしている会釈のようだった。
何かあるのかと響司は振り返る。石の台座の上に稲荷の石像があるだけだ。響司よりも高い位置にある稲荷の石像が普通と違うのかと響司は思ってまじまじと観察する。しかし、退屈しのぎで一般教養から離れたことを調べる響司でも稲荷の石像に関する知識なんて持っていない。
「変わったところありました?」
「あぁ、懐かしいモノを見たよ」
懐かしい、とは奇妙な感想だった。会話が成り立っていないということを目を瞑ったとしても相手は土地勘のない旅行客。それも恐らく外国人が『懐かしい』と言うだろうか。
もう一度、響司は空を見た。飛行機雲ぐらいあれば老人に確認できたが、木の位置も雲の形も変わっていない。老人の見た懐かしいモノの正体は依然、不明である。
「では案内を頼むよボウヤ」
老人が杖をついて、神社の階段へと歩いていく。
「待ってください。この神社、抜けられるんですよ。だから階段降りなくて大丈夫です」
「そうかい。やはり案内は頼んでみるものだ」
英国紳士風の老人は響司に歩み寄ってくる。
(御神木に話しかけてたくらいだしなぁ……。何か見間違えしてたりしてたのかな?)
高齢になるとボケるとは聞いたことあるが、ボケた人を直接みたことがない響司は判断できずに内心、首をひねるばかりである。
確証もないので、とりあえず案内をしていけばわかるだろう、と響司は思考を終わらせた。
「ずっと思ってたんですけど、日本語上手過ぎませんか?」
「色んな出会いの中で覚えたんだ。大体の国の言葉は喋れるんじゃないかな」
「すごいですね」
「長生きしていたらこうなっただけさ。私はエルドランドという。ボウヤは何という名前なのかな?」
エルドランドと名乗った老人は左手に杖を持って、皮膚がだぶついた右手を差し出してくる。
突然の握手に響司が悩んでいるとエルドランドは右手を一度だけ手首を動かした。
「響司って言います」
手をつないだとき、風が吹き、エルドランドから爽やかな花の香りがした。