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夏の日差しで焼けたコンクリートの上で空気が歪む。
青空の中、頭の真上にある七月の太陽が元気に日差しを届けてくる。三十度を超える気温。一般的な日本人であれば過度な熱さである。コンクリートの床と落下防止のフェンス。熱せられて誰も座りたくないベンチのある開けた空間に少年――刹那響司はフェンスの前に立っていた。
エアコンがきいていた校内から出てきたばかりだというのに、響司の額には汗が吹き出し始めた。
だらしなく伸びていた前髪を『烙炎』に燃やされた後。短くした。風通しが良くなったとはいえ、夏の日差しが相手では髪の長さ程度では無意味だった。
「あの男の魂鳴りが聴こえるか?」
響司の頭上から声が降ってくる。響司が上を見上げると、黒い霧状の上に草食動物の頭蓋骨がついている異形の存在が浮かんでいた。
一般人であれば悲鳴をあげるか腰を抜かしながら逃げ出すところだ。しかし――響司は普通ではなかった。彼にとって日常の光景である。
「どこの人、ヨル」
ヨルと呼ばれた異形は黒い霧状の身体から左腕を出した。顔同様、骨だけの腕と手。人間とは違う四本の指。
指の一本だけをピンと伸ばしてヨルは地上を指した。
「あれだ。あの四人組の一番左の男だ」
フェンスの間から響司は下を見下ろす。一学期の終業式が終わって、沢渡高校の生徒たちが一気に下校している。ヨルが指差していたのは、横並びになって下校している男子四人組だった。何を喋っているのか聞き取れないが、楽しそうにしている。
一番左の男子生徒の位置を目で確認した響司は目をゆっくりと閉じた。
(神経を集中させるのは耳。他の情報は遮断)
目を閉じた響司の瞼にはどこまでも広がる水面が広がっていた。水面にはいくつかの波紋が広がっている。波紋は様々な音を鳴らす。細かく爆発するような音。金属が落下して硬い物と衝突したような高い音。そして、風鈴のような爽やかな音。
男子生徒がいた場所には波紋がなかった。
「ダメだ。何も聴こえないや。逆に余計な音を拾っちゃってる」
呼吸を思い出すように響司が息を吐く。
ヨルは首を横に振った後、響司の横に音もなく着地した。
「ワシと契約して魂鳴りを聴く力を得たのは良いが、使いこなせぬと痛い目を見るぞ。いや、この場合は痛い音を聴く、になるのかのう。のう」
「わかってるよ。だからこうして放課後は特訓してるんじゃないか」
『魂鳴り』――それは欲望と感情が奏でる音であり、音の悪魔にしか聴き取れない音である。
音の悪魔であるヨルと契約した響司は人間でありながら『魂鳴り』を聴くことができようになった。この力は契約のオマケ程度に響司は捉えていた。しかし、契約し続けて約二か月経って分かったことがある。
強い『魂鳴り』を長時間聴くと、乗り物酔いのようになってしまうのだ。
最初は気のせいだと思っていた。しかし、夏休みの期末テストが近づくにつれて生徒の不安と不満が魂鳴りとなって、いたるところから聞こえてきたのだ。鼓膜を超低音で不快な音をずっと聴かされ続けた響司は期末テスト五日前に限界を超えてしまい、学校のトイレで吐いてしまったのだ。一度吐き出して楽になれば終わり、という訳にもいかず、身体が吐いたら楽になると覚えてしまい、条件反射的に毎日吐いてしまうようになっていた。
「『欲無し』で死にやすいってだけでも不便なのに『魂鳴り』で酔いたくない……。胃酸の味と戦いたくない……」
「前者はマシになっているではないか。ワシとの再契約以降、魂が肉体から離れたことはない」
確かに『欲無し』のせいで訪れる死の感覚をしばらく味わっていない。再契約前の響司であれば、最低でも週に一回は不快で窮屈な意識の檻に閉じ込められている。
「だが後者は知らぬわい」
「知らないって、ヨルがこの訓練方法を教えてくれたんじゃないか!」
「ワシはある程度は音の調節ができるからのう。とはいえ、この学び舎のチャイムとやらだけはどれだけ絞っても耳に入ってくるがな」
ちりん、と風鈴の音が校舎の中で鳴る。校舎の中に風鈴なんてない。予想が正しければ、音を鳴らしているのは、とある人物である。
ヨルも音に気が付いているらしく、先に扉へと視線を移していた。
視線の先にある分厚い金属の扉が動いた。扉を開けたのは長い黒髪の少女だった。
「やっぱりここにいたわね。夏休みが始まる前に今後の予定を立てようって言ったじゃない!」
大きく、きれいな瞳には怒りが隠れることなく表れており、吊り上がった眉が少女――逢沢紀里香の魅力を間違った方向に引き上げていた。それでも、美人という定義から外れないのは元が良すぎるからである。
「予定って来週からお盆までの文化祭準備のことでしょ? 僕は夏期講習に出るから全部参加するよ」
「ならちゃんと教えてよ。ただでさえ夏休み中の準備で文化祭の劇の良し悪しが決まるんだから」
沢渡高校の文化祭は夏休みが終わってから一週間後にやってくる。夏休み後の一週間で準備が終わる出し物であれば夏休みをエンジョイできるが、準備期間が足りないクラスは夏休みの夏期講習期間の間に文化祭の準備を始めるのだ。
「そんな大げさな……」
「演劇やるからには本気よ。手抜きは許さないから」
「現役演劇部こわーい」
やる気に満ち溢れている紀里香に対して響司は間延びした言葉を返した。
「私の意見を無視した上、主役固定にされたんだからこっちの要望ぐらい通さないと割に合わないわよ」
「『夏休み中に台本の完成』と『小道具の準備を八割は終了させる』だっけ。スケジュールきつくない?」
台本は演劇部でも台本書いてるらしい清水さんに任せている。今回やる演劇はシンデレラをベースにコメディ寄りにするらしい。
「本当に必要なものが台本ないと分からないでしょ? 服は最悪、私が演劇部で使ったものを流用できればいいけど、それも台本次第でイメージ変わるからイチから準備しないといけないことも考慮すると――」
餅は餅屋。演劇のことは演劇部に、だ。紀里香は響司の考えていたことよりも先を見越していた。
「何の話をしておるのだ?」
蚊帳の外にいたヨルが不思議そうに尋ねてきた。
「文化祭っていう学生主体のお祭りがあるの。その準備の話よ」
「なんと! 祭とな?」
紀里香がヨルにさらりと説明すると、ヨルの黒い霧状の身体が逆立つような動きを見せる。
「では音楽隊や吟遊詩人などが来るのかのう! のう!」
「軽音部とか吹奏楽部の演奏なら去年もあったけど、外部から呼ぶことはないんじゃないかしら」
あからさまに興奮しているヨルに紀里香は戸惑いながら答える。
「ふむふむ。けいおん、とやらはわからぬがその口ぶりから音にまつわるものはあるとみた! 楽しみじゃのう。楽しみじゃのう!」
今までに聞いたことのない浮ついた言葉で身体を曲げてリズムを取り始めるヨル。
「そういえばヨルさんって音の悪魔だったわね……」
「テレビの使い方を覚えてから家で音楽番組ばっかり探してるよ……」
ヨルが音楽好きなのは間違いない。しかし、軽音部がやるようなアニメやロックなものよりもクラシック音楽が好きなことはスマホのアラームで確認済みだ。もしヨルに音楽を聞かせるなら吹奏楽部の方だろう。
「話を戻すけど、夏休み中の準備に参加する人って何名かわかる?」
「確定して参加するって分かってるのは十名かしら。といっても部活組がほとんどだけど」
「部活組は部活終わってからの参加だから時間換算で言うとかなり少ないんじゃないのかな……」
勉強を忘れて楽しい時間を過ごせる夏休みの中、わざわざ制服を着て登校する生徒は部活組と響司のような夏期講習参加者ぐらいである。
「なんで、みんな準備が必要なの頭から抜けてるかな……。遊びたいならもっと楽なのにすればいいのに……」
愚痴を響司がこぼす。紀里香もまったくだと言わんばかりに頷いていた。
あーだこーだ言ったところでもう生徒会と文化祭の運営に提出してしまっている以上逃げられない。腹を括るしかなかった。去年の文化祭では演劇をする予定のクラスが準備不足で文化祭で何も出来なかった、なんて伝説を残した日には恥ずかしさといたたまれなさで死にたくなる。
「ノリだけで演劇に決めたからよ。裏で変なことしてたみたいだし」
紀里香のいう『変なこと』の内容を知っている響司は、あー、と気の抜けた声を漏らした。
「その声はなに?」
「別に」
紀里香から首ごと左に逸らす響司。大山晴樹という友人が裏で文化祭でメイド喫茶をやるために、票を獲得する裏工作をしていたことを知っていたから変な声が出た、など言えないのだ。言ってしまえば晴樹の前に響司が先に問い詰められる。
怒った紀里香が怖いのは『烙炎』の件で嫌というほど知ってしまった。説教されたことを思い出しただけで震えが止まらない。
(まぁ、僕が知ったのは投票終わってからだし関係ないけど、もう怒られたくないから黙っとこ)
逸らした先で坂道を下っていく下校中の生徒たち以外に茶色の点が視界に入った。
電柱の上。茶色いスーツを着た何者かが立っていた。帽子を深くかぶって、杖を持っている。英国紳士のような出で立ちが夏の青空に茶色の染みを作っている。明らかに狂った場所と人物の組み合わせ。常識の範囲外は響司の経験上、悪魔か呪いの類である。
「ヨル、なんか変なのがいるんだけど」
「変とな?」
「多分、悪魔かなにか」
判断に困った響司は英国紳士がいた電柱を指差す。
「なんだと」
奇妙な踊りを踊っていたヨルが低い声を発して、響司の指す方向に顔を向けた。
「何もおらぬではないか。魂鳴りもしとらぬぞ」
「いや、でも、茶色のスーツの人が……あれぇ?」
電柱の上には誰もいなかった。ヨルの言う通り、悪魔特有のノイズもしなかった。響司はその場で首を傾げるばかりである。
「ここで立ってたら汗が出てくるわ。幻覚見る前にさっさと帰りましょ」
「幻覚って決めつけないでよ」
「実際、キョウジの見たという悪魔らしき影がないのだから言われても仕方あるまい。事実だとしても照明出来ぬことだ」
ヨルの言う通りなので響司は妙な存在については口にせず、紀里香の行動に言及することにした。
「帰るって、文化祭の準備の確認のためだけに僕を探してたの? こんなとこまで?」
「そうね。えぇ、だって退屈しのぎで何でも屋やってた刹那くんがいてくれたら準備がはかどると思うのよ。私的には大助かり」
「そうですよねー。知ってた。知ってましたよーだ」
当てにされているのは自分の器用さだと頭の隅っこで理解していた。それでも確認して見たかったのだ。怒ったら誰よりも怖いけど優しい少女が器用さ以外を見てくれていることを。
無駄だと分かっていても欲が出てきていることを響司は自覚して、自分が嫌になる。
「無理やりな約束とかいらないもの」
「何の約束?」
「こっちの話よ」
明確な答えを返さず、そのまま校舎へ入っていく紀里香。横でヨルがクククと笑いを殺しきれずにいた。
「まったく、キリカは良き魂鳴りをさせるのう。のう」
表情の読みづらい骨の顔で声音だけがねっとりとしていた。
「僕には聞こえなかったけど」
「だろうな。だから笑ったのだよ。馬鹿キョウジ」
ヨルが紀里香のあとを追うように校舎に入っていく。響司は立ち止まっていヨルの背中を睨んだ。ヨルから馬鹿呼ばわりされること自体は慣れてきている。ただ馬鹿にしてきている理由がわからないことに頭を悩ませていた。
「意味わかんないよ」
響司はすぐに校舎に入らず、電柱に立っていた人物が気になって何度も見返す。
目に入るのは青空と何の変哲もない住宅街だった。振り返ると、非現実的な悪魔とクラスメイトがドアの先で止まっていた。
「こんなところにいても退屈だし、帰ろうか」
悪魔と共に過ごす初めての夏休みが始まる。きっと退屈はしないのだろう。
また三日に一回ぐらいの頻度で更新していきます。