90 闇堕ち令嬢の反撃
覚えがある。はっきりと覚えている。
まるで、周囲がすべて敵になってしまったかのような……この、肌に突き刺さるような冷たい空気を。
「フローゼス公爵令嬢は教育係という立場を利用して、ことあるごとに私を貶めました」
「なんたることだ……」
「聖女様に何と無礼な!」
アンネを取り巻いている者たちは、口々にリリスを糾弾する。
落ち着け……と自分に言い聞かせても、自然と体が震えてしまう。
リリスの体は、魂は、この後に起こることをはっきりと覚えているのだ。
――糾弾が真実かどうかなんて関係ない。周りが真実だと思い込んだら、それで終わり。
一周目の時には、リリスはことあるごとに聖女アンネをいびり、真正面からぶつかっていった。
それは事実だが、実際にはやっていないことまでリリスの行った所業に加えられていたのだ。
だが、その真偽を確かめようとする者はほとんどいなかった。
「王子に愛されず嫉妬に狂った公爵令嬢が、清らかな聖女を害そうとした」という筋書き通りに、物事は進んでいくのだから。
アンネはつらつらと、リリスから受けたひどい仕打ちとやらを述べている。
そのほとんどが、今のリリスには身に覚えのないことだった。
――アンネ、どうして……。
最初は、一周目の復讐を遂げようとアンネに近づいたのは事実だ。
だが、今のアンネはリリスの思っていたアンネとは違った。
その違いに拍子抜けして、いつの間にか彼女の教育係に就任して、時間を過ごすうちに……リリスは、すっかりアンネのことが好きになっていたのだ。
これからも一緒に時間を過ごしていきたい。そう、思っていたのに。
だが……そう思っていたのは、リリスだけだったのだろうか。
――私のこと、嫌ってたの? ずっと……。
彼女の無邪気な笑顔が蘇る。
あれもすべて、アンネの演技だったのだろうか。
そう思うと、胸が潰れそうになるようだった。
冷たい視線をこちらに向けるアンネを見ていられなくて、俯いて視線を床に落とす。
だがその時、傍らからそっと声を掛けられる。
「……大丈夫、顔を上げて」
その声につられるようにそっと顔を上げると、オズフリートと目が合う。
彼はいつになく優しい視線を、こちらへ向けていたのだ。
「今まで君が頑張ってきたことは、決して無駄じゃない」
彼の声が、胸に染みわたる。
不思議と、胸を押しつぶそうとしていた不安が和らぐような気がした。
「もう同じ悲劇は繰り返さない。……今度こそ、アンネを取り戻そう」
「……オズ様?」
「今の聖女様は誰かに操られてるってことだ」
「イグニス!?」
気が付けば、リリスの背後にはイグニスが立っていた。
いつの間に……と驚いたが、今はそれどころじゃない。
アンネが、誰かに操られている!?
「それって、どういうことなの!?」
「説明は後だ。今は怪しい奴を探せ。必ず、この近くにいるはずだ」
「なにそれ……どうやって探せばいいのよ!」
「とにかく、アンネを煽り倒せ。お前そういうの得意だろ。相手を挑発して……尻尾を出すのを待つんだ。相手が動揺したら……本物のアンネを引っ張り出すんだ」
まったく、何が何だかわからない。
だが、質問する暇も、深く考えている暇もなさそうだ。
リリスはしっかりと顔を上げ、ぺらぺらとリリスの罪を並べ立てるアンネを見据えた。
――アンネが誰かに操られてる……そうだとしたら……。
胸の奥から湧き上がるのは、猛烈な怒りだ。
――絶対に、許さない……!!
いったい誰の許可を得て、アンネに手を出したのか。
アンネはリリスの教え子である。今日は散々特訓した淑女教育の成果を確認する場だったのに、いったいなんてことをしてくれたのか!
犯人を見つけたら必ず血祭りにあげてやろう。
そんな思いを胸に、リリスは深く息を吸って口を開く。
「ふふ、先ほどから黙っていればぺらぺらと……よく回る口ですこと。あなた、聖女よりも詐欺師の方が向いているのではなくって?」
そう言い放った途端、アンネは驚いたように目を見開いた。
まさか、この状況でリリスが反撃してくるとは思っていなかったのかもしれない。
「『教育係という立場を利用して、ことあるごとに貶めた』……だったかしら。あらあら、野生のイノシシのようなあなたのマナーを、きちんと躾けなおして差し上げたのがそこまでご不満だったのかしら? ナイフとフォークの持ち方もわからないまま、皆さまの前に出してあげた方が親切だったかもしれないわね」
嫌味ったらしくそう言ってやると、アンネは悔し気に顔をゆがめた。
案外、アンネを操っている存在の煽り耐性は低いのかもしれない。
――待ってなさい、絶対に尻尾を掴んでやるんだから……!
更なる追撃を加えようと、リリスはにやりと口角を上げた。




