84 天使の囁き
何とか無事に今日の淑女教育を終え、アンネは神殿側の教育係であるミリアと共に、現在居住している大神殿へと戻ってきた。
「ふぃー、今日も疲れだな」
アンネの正式なお披露目の場が近づいてくるにつれて、リリスの教育にも熱が入ってきている。
教鞭を片手に迫真のレッスンを繰り広げるリリスは、まさに鬼教官とでも言うべき貫禄を兼ね備えている。
今やアンネは、彼女に畏怖と尊敬の念を覚えていた。
初めて彼女を見た時は、その洗練された美しさに目を見張ったものだ。
オズフリート王子の婚約者と聞いて、すぐに納得した。
容姿だけではない。彼女からは未来の王妃と言われても納得できるような「風格」を感じるのだ。
……自分もいつか彼女のように、堂々と人前に立てるような人間になりたい。
初めて会った時から、アンネはリリスに強い憧れを抱いていたのだ。
片田舎から出てきてばかりで不安だったアンネは、オズフリートの提案を聞いて一も二もなく彼女に泣きついた。
リリスのレッスンは厳しかった。だが、その厳しさの中に……確かに、彼女の優しさや気遣いを感じたものだ。
彼女がそれだけ厳しくするのも、いつかアンネが社交界で恥をかいてはいけないというリリスの愛情からだろう。
そう気づいてからは、いっそう彼女を困らせまいと努力したものだ。
リリスは高位貴族の家に生まれた、まさに深窓の令嬢だ(とオズフリートは言っていた)。
だが蝶よ花よと育てられたはずの彼女は、脅威に真っすぐに立ち向かうような芯の強さも持ち合わせている。
神殿側で用意された最初の教育係――シメオンのことを、アンネは苦手に思っていた。
彼と共にいると常に監視されているような、息の詰まるような心地を味わったものだ。
シメオンの聖女教育はどんどん厳しさを増し……ついに、彼の言いつけに背いてケーキを口にしているところを見られたアンネは、思いっきり彼に頬を打たれ、床に倒れ伏した。
そんな時、颯爽とシメオンに立ち向かったのがリリスだ。
彼女は年上の男性相手でも少しも怯むことなく、堂々と立ち向かった。
そして、見事に撃退して見せたのだ。
それだけではない。リリスがアンネの境遇をオズフリートに奏上し、シメオンは教育係を降ろされた。
そのおかげで、アンネは神殿にいる間も随分と過ごしやすくなった。
リリスは、またしてもアンネを救ってくれたのだ。
リリスへの憧憬は、どんどん深まっていくばかり。
いつか……彼女とまたバーベキューがしたい。
……そうだ。お披露目が成功したら、アンネの方からリリスに提案してみよう。
そんなことを考えながら祈りを捧げていると、ふと背後に気配を感じた。
振り返ると、そこにいたのは現在の教育係――ミリアだった。
「ミリアさん、どうがすますたか?」
いつも穏やかな笑みを欠かさないミリアだが、今は真剣な表情でアンネを見つめている。
いったいどうしたのだろう……と首をかしげると、彼女はそっと口を開いた。
「聖女様は、この国がお好きですか?」
ミリアは唐突に、そんなことを言い出したのだ。
これも教育の一環なのだろうか、と不思議に思いながらも、アンネは答えを返す。
「はい、好きです」
アンネはこの国で生まれ、この国で育った。
聖女になるまで小さな片田舎の村しか知らなかったが、今暮らしているこの都も好きだ。
ここは、アンネの大好きなリリスが育った地でもあるのだから。
「聖女様には、この国を良い方向に導く力がございます。その力を、私にお貸しいただけないでしょうか」
ひどく真剣なミリアの様子に、アンネは戸惑ってしまう。
だが、アンネはミリアのことを信頼していた。
いつだって、彼女の言うことは正しい。
「はい、私にでぎるごどならなんでも」
アンネは、いまだに「聖女」とはどういう存在なのかよくわからない。
だがきっと、ミリアの言うようにこの国を良い方向に導く、そんな存在なのだろう。
だから、自分にできることがあれば何でもしたい。
そう考え、アンネは肯定の言葉を返し、頷いた。
……頷いてしまった。
その瞬間、ミリアはにっこりと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「あなたの慈悲に感謝いたします、聖女様。……後のことは、すべて私にお任せください」
「ぇ…………」
何かがおかしい。
そう気づいたと同時に、今までに経験したことのないような激しい頭痛がアンネを襲った。