73 闇堕ち令嬢、悪徳神官をこらしめる
バチーンと小気味の良い音が響き渡り、衝撃でシメオンの体は吹っ飛んだ。
普段からカラテで鍛えているリリスである。
たかが14歳の少女のビンタとはいえ、非力な神官を吹き飛ばすには十分だったのだ。
潰れたカエルのような声を上げて床に伸びたシメオンを見下ろし、リリスは衝撃で乱れた髪を優雅に払って見せた。
「あらあら、口ほどにもありませんこと」
「完璧に悪役の台詞ですよ、それ」
やれやれと肩をすくめるイグニスをよそに、リリスは頬を抑えるアンネの傍にしゃがみ込んだ。
「ふぇ……リリスしゃん……」
リリスの顔を見た途端、アンネの瞳はうるうると潤んでいく。
「はいはい、びっくりしたわね」
よしよしと頭を撫でると、アンネはひんひんと泣きだしてしまった。
その声で意識が戻ったのか、伸びていたシメオンがよろよろと起き上がるのが視界に映る。
「くっ……なんて邪悪な女だ……! やはり貴様のような――へぶぅ!」
「淑女を貴様呼ばわりなんて言語道断!」
先ほどとは反対側の頬を張ってやると、またしてもシメオンは軽く吹っ飛んだ。
さすがに今度は手加減したので、彼はすぐにまた起き上がってくる。
「いったい、なんのつもりだ。リリス・フローゼス……!」
「はぁ、それはこちらの台詞なのですけど? 勝手に人のレッスンに乱入して何のつもりですか?」
「こんなもの、聖女様には何の役にも――」
「わたくしはオズフリート王子殿下の勅命で! 聖女アンネ様の教育にあたっているのです! それをひっくり返す権利があなたにあるとでも?」
言外に王家に逆らうのか? という意味を込めて嫌味ったらしく問いかけると、途端にシメオンはぐっと言葉に詰まったようだ。
腰に手を当てて彼を見下ろしながら、リリスはカツン、と靴音を鳴らして神官を威嚇する、
「ここは私のレッスン場で、今はレッスンの時間です。そこにやって来たということは……あなたも私のレッスンを受けたいということですよね?」
「なっ!? 誰がそんなことを言った!!?」
「別に誰が何といおうと関係ありません。私がそう解釈したまでです」
「…………は?」
ぽかんと間抜けに口を開けたシメオンを一瞥し、リリスはにやりと口角を上げた。
「さぁ、早くお立ちなさい。私のレッスンでそんな風に無様に座り込んでいることは許されませんわ!」
「何を馬鹿なことを……私はただ聖女様の――」
「黙りなさい。ここでは私の言葉が絶対。逆らう子犬ちゃんはきちんと躾けなおして差し上げなければね」
にこりと口元に笑みを浮かべ、リリスはパチンと指を鳴らす。
「イグニス、鞭を持ってきなさい」
「はい、お嬢様」
イグニスがどこからか取り出した鞭を受け取り、床を打つと、明らかにシメオンの表情が引きつった。
「ききき、貴様はいつもこんなことをしているのか!?」
「あら、淑女を『貴様』呼ばわりなんて許されないと、先ほどお伝えしたはずですが……これは、『お仕置き』が必要なようね」
「ヒィッ!」
シメオンは怯えたように、鞭をしならせるリリスから距離を取ると、くるりと背を向け扉の方へと駆け出した。
「覚えていろ……! 背徳者にはいずれ神罰が下るとな!!」
そんな捨て台詞を残して、シメオンは逃走した。
バタバタとせわしない足音が遠ざかるのを聞きながら、リリスは勝利の余韻に浸る。
「あはは、弱い犬ほどよく吠えるっていうのは本当ね! ざまぁないわ!! ギデオンに比べて根性がないわね」
「さすがはリリス様、鮮やかなお手並みです」
レイチェルがぱちぱちと拍手を送ってくれ、リリスは得意になって胸を張る。
「ふふ、もっと褒めてもいいのよ?」
「しかし『鞭を持ってきなさい』とか言われた時はどうしようかと思いましたよ。俺が持っていたから何とかなったものの」
「そういえば、何であなた鞭なんて持ってたのよ」
「知りたいか?」
「別に」
くるりと振り返ったリリスは、再びアンネの傍にしゃがみ込む。
一連の状況をぽかんと見守っていたアンネは、おずおずとリリスと視線を合わせる。
「……あいつはもう行ってしまったわ。べ、別にあなたの為に追い払ったんじゃないけど!」
そう言うと、アンネは笑おうとして……笑うのに失敗してまた泣いてしまったようだ。
――まったく、私のライバルならそんな風にピーピー泣いてちゃダメじゃない!
それにしても、あの神官の態度は異様だった。
敬うべき聖女に暴力を振るうなど、実際に目にしなければにわかには信じられないだろう。
――……オズ様に進言したほうがよさそうね。
別に、アンネのことを心配しているわけじゃない。
これは彼女を復讐するにふさわしいライバルに育て上げるために必要なことなのだから。
そう自分に言い訳をしながら、リリスはアンネの頭を撫でてやった。