70 天使の囁き
「……聖女様。そろそろ祈祷の時間です」
「たのめす……あっ、よろしくお願いいたします、シメオンさん」
シメオンが声を掛けると、聖女アンネはにこりと笑って元気よく頭を下げた。
その様子に、シメオンは心の中で舌打ちする。
……アンネの聖女教育は、思うように進んではいない。
神殿の長い回廊を並んで歩きながら、シメオンはアンネに問いかけた。
「聖女様。私の知らぬところで、決められた食事以外を口にするようなことは――」
「いいえ、ございません」
「……そうですか。誤って穢れを取り込まぬよう、今後もお気を付けください」
「承知いたしました」
そう言って笑うアンネの瞳には、まだ強い光が宿っている。
その様子を、シメオンは冷めた視線で見下ろす。
……このままでは駄目だ。もっと強固に、教育を進めなければ。
「アンネ」という少女を、人々を導く「真の聖女」に作り替えること。
それこそが、シメオンに与えられた使命なのだから。
◇◇◇
人々が寝静まった深夜。シメオンは一人、祈祷室の扉を開いた。
そっと跪き祈りを捧げると……すぐに愛しい声が脳裏に響き渡る。
『……待っていました、シメオン。私の愛し子……』
歓喜のままに閉じていた目を開くと、視界に広がるのは愛しい姿。
穢れ一つない純白の六枚翼に、緩やかに流れる金色の髪。
聖画で見たままの「天使」の姿がそこにはあった。
「あぁ、我が主……聖天使レミリエル!」
上ずった声で呼びかけると、天使――レミリエルは聖母のごとき微笑みを浮かべる。
『今の私には、あなただけが頼りなのです。……シメオン、この国の未来と私の為に、力を貸してくれますね?』
「……はい。あなたの為ならば、私のすべてを捧げましょう」
シメオンにとっては、国の未来などどうでもいい。
ただ愛しい天使の為に、すべてを捧げる覚悟はできている。
元々、シメオンは貧しい農村に生まれたごく普通の少年だった。
幼い頃のシメオンには、神よりも天使よりも明日の食事の方が大事だった。
週末のミサにも、神官の説法よりもその後に貰えるお菓子目当てで参加をしていたようなものだ。
そんなシメオンの人生を変えるような出来事が起こったのは、今から四年ほど前になる。
畑でやる気もなく鍬を振るっていたシメオンの脳裏に、唐突に天使のお告げが下ったのだ。
天使は数日後の嵐の到来を告げ、余裕をもって備えるように事細やかな指示をした。
半信半疑のシメオンがその通りに行動すると、天使のお告げ通りの嵐はやって来た。
十分に備えていたおかげで、例年に比べると格段に被害は少なく済んだ。
その時初めて、シメオンは神や天使の存在を信じるようになったのである。
『シメオン、選ばれた存在、私の愛し子……。どうか私の声を聞いて』
いつからだろう。聖天使レミリエルの呼びかけを待ち望むようになったのは。
天使のお告げ通りに動けば、皆シメオンを称賛するようになった。
貧しい農村に生まれたごく普通の少年にとって、「選ばれた存在」になることは何よりも甘美な誘惑だったのだ。
『シメオン、あなたの力はもっと多くの人の為に役立てるべきです』
天使はシメオンに、王都へ行き神殿へと入るように告げた。
指示通りに動けば、神官として神殿に入るのは簡単だった。
権力に取りつかれぶくぶくと肥えた神官長などよりも、シメオンの方がよほど正確に天使の声を聞くことができる。それは、平凡だった少年に何よりもの優越感を与えた。
もっとも、レミリエルの指示でシメオンが天使の声を聞くことができるという事実は隠していたが。
一神官として実力を隠しながら、それでも着実にシメオンは神殿内での地位を高めていった。
誰もがシメオンに、畏怖と憧憬のまなざしを向けるようになった。
これも皆、聖天使レミリエルの導きのおかげだ。
シメオンはレミリエルを我が主と崇め、美しき天使の為にすべてを捧げようと決意した。
だがシメオンが神殿に入り一年ほどが経った頃、神殿内部を大きく揺るがすような事件が起こった。
第一王子オズフリートと彼の婚約者であるフローゼス公爵令嬢が、春告祭の準備の為に郊外の神殿に籠った時のこと。
その際に、神殿の不手際で二人の身に危険が迫るような事態が起こったようなのだ。
王家と神殿は、互いに後ろ暗い部分は探らないという暗黙の了解を結んでいる。
だが、さすがに第一王子が死にかけたとあっては黙ってはいられなかったのだろう。
事件の詳細が公にされることはなかったが、当時の神殿の上層部は皆、その地位から引きずり落とされたのだ。
そんな時シメオンは、愛しい天使を悲しませる不届き者の存在を知ることになる。
「レミリエル、どうして泣いているのですか」
その日、シメオンの愛しい天使の声は涙に濡れていた。
いったいどこのどいつが、レミリエルを悲しませているのか。
憤怒にかられたシメオンの脳裏に、愛らしいレミリエルの声が響き渡る。
『あぁ、シメオン……私の愛し子。もう、あなたしか頼れるものはいないのです……』
「なんでも仰ってください、レミリエル! 私のすべてはあなたの為に!」
『ありがとう、シメオン……。よく聞いてください、今この国はかつてない危機に瀕しています。邪悪な闇の魔女が、この国を陥れようとしているのです』
「邪悪な闇の魔女……。それはいったい、どこのどいつなのですか……!」
『私の愛し子。今から告げることはあなたの心の中に秘めておいてください。闇の魔女に知られれば、あなたまで消されてしまう……』
シメオンはごくりとつばを飲み込んだ。
国を陥れようとする邪悪な魔女……いったいそれは――。
『フローゼス公爵令嬢リリス。彼女は悪魔と手を組み、オズフリートを操り王妃として君臨し、この国を闇に墜とそうとする諸悪の根源なのです!』