66 ダンスレッスン
「ご機嫌よう、フローゼス公爵令嬢。今宵も宮殿は人が多いですこと」
淑やかにそう口にし、優雅にスカートの裾を持ち上げ礼をして見せる聖女アンネ。
その一連の動作を見て、リリスはぷい、とそっぽを向いて小声でつぶやく。
「…………まぁ、及第点かしら」
その途端、アンネの表情がぱぁっと明るくなった。
「本当だが!? たげ嬉すい!」
「こらっ、戻ってる! このおたんこなす!!」
ガミガミと叱ると、アンネはてへへ……と照れたように頬をかいた。
リリスによる聖女育成計画は、亀の歩みではあるが少しずつ前へと進んでいる。
しかしまだまだ人前に出せるようなレベルには達していない。
もっともっと鍛えてやらねば。
「じゃあ、一度休憩にしましょうか」
パンパンと手を叩くと、侍女がティーセットと茶菓子を運んできてくれる。
途端に、きゅるる……とアンネの腹が大きく鳴った。
「ちょっと! はしたないわよ!!」
「しょうがねべな、生理現象だはんで!」
さすがに恥ずかしかったのか、アンネの頬が赤く染まる。
その反応にリリスは思わず口元を緩めかけ……慌てて我に返ってぱっと手で口を覆った。
――いやいや、何微笑ましい気分になってるの、私!
ぶんぶんと首を横に振り、リリスは目の前のアンネを睨む。
――こいつは私を地獄の底に突き落とした元凶なのよ!? きっちり仕返ししてやるんだから!!
ぎりぎりと睨むリリスの視線には気づいていないのか、アンネは嬉しそうに茶菓子を頬張るのだった。
◇◇◇
「今日からはダンスレッスンに入るわよ」
貴族の社交の必須科目、それはダンスだ。
社交シーズンになれば、王都のあちこちで毎日のように舞踏会が開かれ、朝まで踊り明かすのである。
リリスも幼い頃からみっちりダンスを仕込まれ、「フローゼス公爵令嬢の踊る姿はまるで白百合のように優雅だわ!」と称されるまでになっている。……まぁ、気を抜くと転びそうになることもあるのだが。
「あなた、ダンスの経験は?」
時間が巻き戻る前の世界では、アンネは婚約者であるリリスを差し置いてオズフリートと真っ先に踊るという許されざる行為をたびたび行っていた。
リリスはそのたびに、悔しい思いをしながら二人の踊る姿を見ていたものである。
だから、よく覚えている。
アンネのダンスの腕は、少なくとも見ていてみっともなく思うほど下手ではなかった。
――いえ、でも今のアンネはとんでもない芋娘なのよ? ちゃんと確認しておいた方がいいわ。
彼女と深くかかわるようになった今でも、リリスは一周目のアンネと今のアンネが同一人物だと信じ切れずにいた。
一周目の彼女を基準に考えてはいけない。しっかり、今のアンネを見極め、育成してやらねば。
ダンスの経験の有無を問いかけると、アンネは少し悩んだのち、恥ずかしそうに口を開く。
「村の祭りで、何度が踊ったごどがあさぐらいだ」
「村祭り……まぁダンスと言えばダンスなのかしら」
聖女アンネは平民の少女だ。
聞くところによると、ここに来るまではそれこそ辺境の村で、日々畑を耕したり魚を釣ったりして過ごしていたらしい。
リリスからすれば想像がつかないような生活だ。
何から何まで私と正反対ね……と、どこか感慨深く思いながら、リリスはアンネに指示した。
「じゃあ私がリズムを取るから、好きなように踊ってみて」
「わがった!」
「『承知いたしました』って言うのよ! こういう時は!!」
いかんいかん。
気がつけばアンネのペースに飲まれそうになってしまう。
気を取り直して、リリスはぱんぱんと手を叩く。
これで、ある程度彼女のダンスレベルも推し量れるだろう。
「それじゃあ、始めるわよ」
「承知いたしました、フローゼス公爵令嬢」
優雅に礼をして見せたアンネを見て、教育の成果を実感したリリスはにんまりと口角を上げる。
「スタート!」
リリスの手拍子に合わせて、アンネは踊り始めた。
それはリリスの見たことのない、なんともダイナミックな舞だった。
全身を大きく動かし、時折飛び跳ねたり、手で何かを引き上げるような独特の動きを交えた舞に、リリスは圧倒されてしまう。
――これが、聖女の力……!?
なんと生命力にあふれた、躍動感溢れるダンスなのだろう。
リリスは披露される聖女の舞に感動すら覚えていた。
アンネの舞は素晴らしい。素晴らしいのだが……。
――力強すぎて優雅さがゼロ! 社交ダンスとしては不適格にもほどがあるわ!
王宮の舞踏会でこんなダンスを踊ろうものなら、パートナーの男性が吹っ飛ばされてしまうだろう。
その光景を想像し、リリスはひきつった笑みを浮かべる。
「ヤーレン! ソーラン!!」
謎の掛け声とともに、アンネのダンスは幕を閉じた。
ぱちぱち……と拍手をしながら、リリスはアンネに向かって微笑みかける。
「とてもパワフルで、圧倒されたわ。これは、なんというダンスなの?」
「ソーラン節どいって、里では豊漁を願って踊るものですた」
「そう……あなた、他のダンスは?」
「やったごどがね」
「…………そう」
リリスはアンネに向かってにっこりと笑うと……ダン! と力強く床を踏みつけた。
「一度、あなたの中のダンスという概念をぶち壊すわ」
「なすて!?」
「今のダンスとあなたがこれから習得しなければならないダンスじゃ、コンセプトが180度違うからよ!! 力強さは押し隠して、優雅に、淑やかに! 私が一から鍛えなおしてあげるわ!!」
「ひええぇぇぇ!!」
リリスのあまりの気迫に、アンネは恐れおののいたように後ずさりし始めた。
だが、逃がすつもりは無いリリスはじりじりとアンネににじり寄る。
「待ちなさい! 絶対にあなたを華麗な蝶に変身させてみせるんだから!!」
ばたばたと室内を逃げ回るアンネを、リリスはどこか充実した気分で追いかけるのだった。