45 聖なる森の神殿
――『……命令よ、私と一緒に神殿に行き、私を守りなさい』
リリスは神殿に一緒に来て守るようにイグニスに命じた。
主人であるリリスの命令を、イグニスは無視できない。
ただここで、一つ大きな問題が発生したのだ。
「でも、従者は連れていけないのよ。神殿は厳重に守られていて侵入もできないだろうし、いったいどうすれば……」
「ふーん、そういうことね。……犬と猫とうさぎ、どれが好きなんだ」
「えっ?」
「いいから」
唐突な質問に、リリスはぱちくりと目を瞬かせる。
てっきりまたからかわれているのかと思ったが、イグニスは珍しく真面目な顔で思案しているようだった。
「……うさぎ」
小声でそう答えると、イグニスはにやりと笑う。
「了解」
立ち上がった彼が、リリスの目の前でぱちんと指を鳴らす。
次の瞬間、イグニスの姿はその場から掻き消えていた。
「イグニス!?」
信じられない思いで、リリスは腰掛けていたソファから立ち上がる。
すると、イグニスが立っていた場所に何かが残っているのを見つけた。
そっち持ち上げてみると、それは……。
「うさぎ?」
ちょこんと床に鎮座していたのは、なんとも可愛らしい黒いうさぎのぬいぐるみだった。
そっと抱き上げ、リリスはその愛らしさに思わず息を飲む。
――かっ、かわいい……!
まるで何かを訴えるようなくりくりとした真っ赤な目が、とんでもなくチャーミングだ。
リリスは一目でそのうさぎのぬいぐるみに心を奪われた。
一瞬イグニスのことも忘れ、すりすりと頬ずりしてしまう。
「かぁわい~。あなたはどこから来たの~?」
『おいおい、情熱的だな』
「ぎゃああぁぁぁ!!」
突然頭の中にイグニスの声が響いて、リリスはとっさにぬいぐるみを取り落としてしまう。
すると、今度は焦ったような声が頭に響いた。
『おいっ、落とすなよ! 拾え!!』
「え、イグニス……?」
聞こえてくるのは、間違いなくイグニスの声だ。
リリスはおそるおそる、取り落としたぬいぐるみを拾い上げる。
すると、ぬいぐるみの小さな手がちょこちょこと動き出したではないか!
『よし、だんだん馴染んできたな』
「あなた……まさかイグニスなの!?」
『はぁ? 見りゃわかんだろ』
「わからないわよ!!」
あの生意気な悪魔と目の前の愛らしいぬいぐるみが、どこをどう見れば結びつくというのか!
ぬいぐるみの正体に気づかず頬ずりしてしまったリリスは、ばつが悪くなって頬を膨らませる。
「……で、何でいきなりぬいぐるみになったりしたのよ」
『何でって、人間の姿のままだと神殿に入れないだろ。ぬいぐるみの方がまだ可能性がある』
「なるほど……」
ただふざけているだけかと思えば、ちゃんと彼にも考えはあったようだ。
テーブルの上に乗ったイグニスは、動きを確かめるように足や尻尾をちょこちょこと動かしている。
その動きがなんとも可愛らしくて、リリスは自然と頬を緩ませた。
「あっ、後ろにボタンがついてる」
『小さい物なら収納可能だ。ハンカチでも入れてくか』
「ふふっ」
――よかった……。あとは何とか、ぬいぐるみを神殿に持ち込むことを認めさせれば……!
そうしてリリスは、神官に無茶を言ってイグニスを連れていくことに成功したのだった。
◇◇◇
馬車は王都を出て、長閑なあぜ道を進んでいく。ぬいぐるみ以外の荷物を持たないリリスは暇なので、ずっとイグニスとしりとりをしていた。
やがて眼前に、どこか神秘的な雰囲気を纏う森が見えてくる。
「あれが、『聖なる森』よ。あの森全体が聖域で、奥に聖神殿が建っているの」
『それより聖なる森って名前、適当すぎじゃね?』
「え、気になるのそこ?」
などと話しているうちに、馬車は森の中へと入っていく。
その瞬間、空気が変わったような気がした。それと同時に、イグニスのふわふわな体がぶるりと震えたのにリリスは気が付いた。
「どうしたの?」
『いや……伊達に聖域って呼ばれてるわけじゃないんだな』
その言葉を聞いて、リリスははっとした。
イグニスは悪魔だ。無防備に聖域に入り込んで、何かダメージを負ったのでは……!
「ねぇ、大丈夫なの!?」
『鼻がむずむずする。めっちゃくしゃみしたい』
「えっ、そういう感じ!?」
どうやら彼の様子を見る限り、そこまで深刻な影響は無いようだ。
心配して損したわ……と、リリスは安堵のため息をつく。
聖なる森には静謐な空気が漂い、遠くから聞いたことのない鳥の声が聞こえてくる。
やがて鬱蒼と生い茂る木々の向こうに、白亜の神殿が姿を現した。
「いよいよね……」
たった一日。されど一日。
逃げ場のない陸の孤島で、オズフリートに殺されないように生き延びなければならない。
――いいわ、受けて立とうじゃないの……!
ぎゅっと唇を噛みしめて、リリスは馬車を降り神殿に向けて足を進めた。