42 天の王、天の花嫁
「はぁ……」
リリスは一人、とぼとぼと公爵邸の廊下を歩いていた。
本日は珍しく時間の出来た父と夕食を取り、つかの間の親子団欒を楽しんだ。
そこまではよかった。
だが、リリスがデザートのフローズンヨーグルトに舌鼓を打っていると、咳払いをした父が重々しく口を開いたのだ。
「実はな……大切な報告があるんだ」
まさか再婚相手か!?……と身構えたリリスの前で、父は嬉しそうにとんでもないことを言い出した。
「喜べリリス。次の春告祭の『天の花嫁』役に、お前が選ばれたぞ」
「…………え?」
スプーンいっぱいに掬ったヨーグルトが、ぽたりと落ちテーブルクロスを汚す。
だがリリスは自らの粗相にも気づかないほど、深い絶望に飲み込まれていたのだ。
◇◇◇
「というわけで、作戦会議を始めるわ!!」
「はいはい、今忙しいから後でな」
主人であるリリスが作戦会議を行うと宣言したというのに、やる気のない悪魔は読んでいる雑誌から顔を上げようとしない。
ちらりと背後から覗き込み、リリスは盛大に顔をしかめた。
何とこいつは、人の部屋で堂々といかがわしい雑誌を読んでいたのだ!
「<紅蓮の炎で灼き尽くせ>」
「熱うぅぅ!!」
低魔力のリリスでも扱えるようなエコな火魔法を発動すると、一瞬で雑誌は燃え上がった。
慌ててイグニスが火を消そうとするが時すでに遅し。
やたらと分厚かったので値が張ったであろう雑誌は、見るも無残な灰と化してしまった。
「お前なぁ……これ高かったんだからな!」
「女の子の部屋で人妻アンソロジーとか読んでる方が悪いのよ!」
年頃のレディの部屋でいかがわしい本を読むとはなにごとか!
ぷりぷり怒るリリスに、さすがにばつが悪くなったのだろう。
イグニスは灰を片付けると、やっとリリスの方を向いてくれた。
「わかったわかった。で、次は誰のカツラを吹っ飛ばすんだ?」
「そうじゃなくて! もっと大事なことよ!!」
仇敵共への復讐ももちろん大事だ。
だが今リリスは、それ以上にかつてないピンチに陥っているのだった……。
◇◇◇
セレスティア王国には、春の訪れを祝い精霊たちに感謝を捧げる「春告祭」という行事がある。
当日は街中が花で彩られ、人々は精霊に敬意を示し衣服に花を飾って、飲めや歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎを繰り広げるのだ。
王宮でも華やかな宴が催され、リリスも毎年父と共に出席していた。
――あぁ、あれはまだ私が牢に入れられる前だったわ……。あのチーズケーキ、もう一回食べられないかしら……。
最期に出席した春告祭の際に、王宮で食した春イチゴのチーズケーキはまさに絶品だった。今でもあの味を思い出すだけで幸せな気分になれるほどだ。
「ねぇ、今度イチゴのチーズケーキを作ってくれないかしら」
「別にいいけど……今の話だと何が問題なんだよ。ただ飲んで食べて騒ぐ日なんだろ」
「そう……春告祭は別に問題ないのよ。問題なのは、その前!」
春告祭は、精霊を招いて感謝を示す祝祭だ。
そして、精霊を招くには……まどろっこしい下準備が必要なのである。
まずは未婚の若い王族の男性の中から「天の王」、天の王と同年代の貴族女性の中から「天の花嫁」という役割が選ばれる。
二人は森の奥深くの聖神殿に一昼夜籠り、祈りを捧げ、精霊たちを春告祭に招き入れるのだ。
「私は天の花嫁役に選ばれてしまったの。そして、天の王は……オズ様なのよ!」
「そっか、頑張れよ」
「反応が軽い!!」
ひらひらと手を振るイグニスの頭を、思わずリリスはぺしりとはたいていた。
どうやらこの悪魔は今のリリスの境遇を、「はわわ、学芸会の演劇で主役に選ばれちゃってどうしよ~!」くらいのハッピーな悩みにしかとらえていないようだ。
「もっと危機感持って! 大変な事態なの!!」
「いってーな。何が大変なんだよ。ただ神殿に行って祈るふりしてりゃいいんだろ」
「聖神殿は普通の神殿と違って、聖域に指定されているの。用がなければ入れないし、用があっても護衛や使用人は連れていけないわ」
聖域を管理する聖職者はいるだろうが、そんなものは何の慰めにもならない。
助けを呼んでも駆けつける者はいない。逃げ出すにも周囲は深い森だ。うっかり迷い込めば遭難死は免れないだろう。
ある意味牢獄に閉じ込められるようなものなのかもしれない。
「つまり……私はそんな危険な場所で、一昼夜オズ様とほぼ二人っきりになるのよ!?」
リリスは自らの不運に涙し、がくりとその場に崩れ落ちた。