3 一周目の人生
人の心の闇に引き寄せられるように、悪魔はやって来る。
悪魔と契約を交わせば、願いを叶えるための絶大な力が手に入るだろう。
……もちろん、それなりの対価は必要になってくるが。
――悪魔の囁きに耳を貸してはいけない。
その魂まで、奪いつくされたくないのなら。
◇◇◇
「ぇ……本当にイグニス……?」
信じられない思いで、リリスは目の前の青年に問いかけた。
すると、イグニスはぱっとリリスの胴体を掴んでいた手を放す。
当然、リリスの体はそのまま床に落下した。
「ぎゃんっ!」
勢いよく尻もちをついたリリスは、涙目になりながら目の前の男に詰め寄った。
「痛いじゃない! 何するのよ!!」
「いや、夢だと思ってるなら現実だって教えてやろうと思って。こういう時、人間はよく頬をつねったりするんだろ」
「頬をつねるのといきなり人を落とすのは大違いじゃない!!」
この人の心を持っているとは思えない言動……間違いない。
目の前の男は、リリスが一周目で契約を交わした悪魔なのだ……!
「ねぇ、あなたは十五歳の私を知ってるのよね……?」
「んー、十五歳かどうかは知らねぇけど、もっと大きいお前のことなら知ってる」
「っ……!」
彼の返答に、不覚にも泣きそうになってしまった。
死んだと思ったら時間が巻き戻って、しかも自分以外の誰もそのことに気づいてはいない。
今思えば、必死に気丈に振舞ってはいたがそんな訳の分からない状況に、確かにリリスは混乱していたのだ。
だから、初めて自分以外に同じ認識を持つ相手に出会って……安心してしまったのかもしれない。
「あれ、何泣いてんの。俺と会えたのがそんなに嬉しかった?」
ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる悪魔に、恥ずかしくなったリリスは思いっきり彼の足の小指を踏みつけた。
「痛ぁ!!」
「ふん! お返しよ!!」
ヒィヒィ言いながらうずくまる悪魔――イグニスを見ながら、ほっと息を吐く。
――……落ち着いて、まずは状況を整理しないと。
大きく深呼吸をして、リリスは回想する。
一周目の人生で、いったい何が起こったのかを。
◇◇◇
十歳の時に、リリスはここセレスティア王国の第一王子、オズフリートと婚約した。
理由は簡単。オズフリートの妃は未来の王妃。いくら公爵令嬢といえど、頭を垂れなければならない相手である。
取るに足らないつまらない女に頭を下げるなど虫唾が走る。それならば、いっそ自分が王妃になってしまえばいい。
そんな自己中極まりない理由で、リリスはオズフリートの婚約者に志願した。
不幸なことに、婚約者候補の中にリリス以上の家柄の者はいなかった。
「あのわがまま娘に王妃などという大役が務まるのか」と国の重鎮たちは苦悩したが、フローゼス公爵が裏から圧力を掛けた結果、リリスは見事に第一王子の婚約者の座をゲットしたのだ。
リリスは嬉しかった。
影から「出来損ない」と馬鹿にされていた自分が、いずれは国の頂点に立つ存在になるのだ。
楽器の演奏が公害レベルだと馬鹿にした令嬢も、「うわっ、あいつの魔力低すぎ……?」と陰口を叩いた貴公子も、合法的に罰を下すことができる。
王妃となった暁には、軽く数十人くらい侮辱罪でしょっぴいてやろう。
邪な動機ではあったが、リリスはずっと……正式にオズフリートの妃となる日を待ち望んでいたのだ。
そんな大勝利確定の状況が変わったのは……リリスが十四歳の時だった。
突如神託が下り、一人の平民の少女が「聖女」として見出されたのだ。
古来より聖女は国を守り幸福を呼ぶ存在だと称えられ、特に王と聖女が婚姻を結べば、絶大な加護が得られるとの伝説が残っている。
国の重鎮たちは悩み、貴族たちはオズフリートの妃の座を巡って「リリス派」と「聖女派」に別れ、水面下で熾烈な争いが繰り広げられたのだ。
「聖女派」はとにかくオズフリートと聖女を結ばせようと計画を練り、リリスはそのたびに怒り狂った。
きちんと婚約を解消したならまだしも、リリスという存在がありながら他の女が大きな顔で台頭するなど許せなかったのだ。
売られた喧嘩は買ってやるのが礼儀だ。
婚約者と聖女が接近するたびに、リリスは口汚く彼女を罵った。
リリスはオズフリートの正式な婚約者である。婚約者を奪われた惨めな女という立場に甘んじるつもりは無い。文句を言うのは正当な権利ではないか。
そう考えたリリスは正面から、堂々とぶつかってやった。
……それが、敵の罠だとは知らずに。
やがて聖女暗殺未遂事件が起こり、リリスは容疑者として拘束された。
聖女派の自作自演だと主張したが、そんなリリス派の主張は一蹴された。
普段のリリスの態度を知る者たちは、「あいつならやりかねない」と満場一致でリリスを犯人扱いしたのだ。
あれよあれよという間に証拠を捏造され、極刑こそはまぬがれたが、生涯幽閉を言い渡されてしまった。
オズフリートはリリスを庇いもせずに、ただ冷たく、婚約破棄を言い渡した。
リリス一人を暗く冷たい牢獄に置き去りにして、世界は安定を取り戻したのだ。
そんなの、許せるはずがない。
だから、復讐してやろうと思った。
リリスという存在がありながら他の女にうつつを抜かし、自分を裏切った王子に。
突然やって来たよそ者の癖に、図々しくもリリスの立場を奪っていった礼儀知らずの聖女に。
無実の罪で自分を陥れようとした、腐敗した貴族共に。
そして、自分を馬鹿にし貶めた、多くの者たちに。
復讐を成し遂げる為なら、禁忌とされる悪魔との契約もいとわない。
絶大な闇の力を手に入れ、意気揚々とオズフリートへの復讐へ向かったリリスは……あっさりと、返り討ちにあい殺されたのだった。
◇◇◇
「…………ねぇ」
回想終了。
自身の半生を思い出し、リリスは苦々しい気分で目の前の悪魔を見上げる。
「あなたのくれた闇の力って全然たいしたことなかったんだけど!!? 聞いてたのと違うじゃない!! どうしてくれるのよ!!」
――『え、王子の暗殺? よゆーよゆー。闇の力があれば朝食に目玉焼き作るより簡単だって!』
目の前の悪魔――イグニスは、リリスと契約する際に確かにそう嘯いたのだ。
リリスはその言葉を信じ、悪魔との契約という禁忌へ踏み込んだ。
それなのに……。
「私あっさりオズ様に殺されたんだけど!? どうなってるのよ!! こんなの契約違反よ! 今すぐクーリングオフしてやるわ!!」
「残念。悪魔との契約にそんな親切な制度はないんだな、これが」
「このっ……人でなし!」
リリスは激情のまま、ぽかぽかと目の前のイグニスの胸のあたりを叩いてやった。
だが少しも耐えた様子はないイグニスは、にやにやとした笑みを崩さない。
「人でなしって……まぁ、悪魔だからな、っておい! 股間を蹴ろうとするのはやめろ!!」
あまりにもイラついたので令嬢らしからぬ手段に出ると、イグニスは慌てたように飛び退いた。
なるほど、悪魔にも弱点はあるらしい。
やっと表情を崩した男にどこかスカッとしながら、リリスはこほんと咳払いをする。
「で、あなたはどうしてまた私のところにやって来たの? 悪徳業者らしく次の犠牲者を探せばいいじゃない」
「いや、それが……俺とお前の契約、まだ続行中なんだって」
「……え?」
「つまりな。お前の望みを叶えるまで、俺もお前に縛られたままなんだよ」
驚いてぽかんと口を開けたリリスに、悪魔はわざとらしく丁寧な礼をして見せた。
「仕方ないから、もう一度あなたの願いを叶えさせていただきます。クソわがままなリリスお嬢様」
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