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34 闇堕ち令嬢、杏仁豆腐を食す

「ねぇ……あなた。お嬢様のお付きよね」


 すれ違いざまにそう声をかけられ、イグニスは緩慢な動きで振り返った。

 見れば、まだ年若いメイドがじっとこちらを見つめていた。


「そうだけど、何か? あっ、もしかして色事の誘いなら――」

「ちっ、違います!!」


 若いメイドは顔を真っ赤にして否定した。

 残念、可愛いお誘いではなかったようだ。


「あなたが来てから、お嬢様は変わったわ。いったい、どんな手を使ったの?」


 一瞬、目の前の彼女はリリスを陥れるために、どこかから潜り込んだ間諜ではないかという疑念が頭をもたげる。

 イグニスは、ずい、と顔を近づけ問いかけた。


「……何? それ聞いてお嬢様に取り入りたいわけ?」

「違います!」


 若いメイドは慌てたように否定した。イグニスはその様子をつぶさに観察する。

 表情、動作、体温や匂いからして……嘘をついていたり、何かを隠しているわけではなさそうだ。


「私……子供のころからこのお屋敷にお仕えしているの。奥様には……とてもよくしていただいたわ」


 奥様……と言うと、亡くなったリリスの母親のことだろうか。

 よくしていただいた、というからには、やはり彼女はリリスとは大違いの出来た人間だったようだ。


「奥様は最後までリリス様のことを心配されていて……私たちにも、『娘のことをお願いね』って何度も何度もおっしゃったの。それなのに、私……今までずっと、リリス様と向き合うことから逃げていたのよ」

「まぁ、あのわがまま暴君相手じゃ無理もないな……」


 彼女が下手にリリスの態度を注意しようものなら、すぐにでも「クビするわよ」攻撃によって解雇されていたことだろう。


「別に気にすることないって。誰だって自分の生活が一番大事だからな」

「でも、あなたは違うじゃない。あなたはどれだけお嬢様に叱られても、お尻を叩かれても、お嬢様から逃げようとはしていない」

「うわ、尻叩かれたとこ見てたのか……」

「きっと、あなたのように真摯に傍に居てくれる人がいるからこそ、お嬢様は変わったのよ」


 いや、あいつ全然変わってないぞ……という言葉をイグニスは何とか飲み込んだ。

 残念ながら件のお嬢様は、先日も上機嫌で婚約者である王子の暗殺計画を考えていた。

 彼女の想像するように、まともな公爵令嬢に生まれ変わったわけではないのだ。


「私も、これからは逃げずにお嬢様に向き合いたいと思うの。だから、せめて何かきっかけがつかめればと思って……」

「きっかけ、ねぇ……。あ、そうだ」

「何かあるの!?」

「お嬢様は甘党だから、口に甘い物をつっこんどけばその間は機嫌がいい」

「…………え?」

「あと珍しい物も好きみたいだからな。最近はカラテの影響で東の国の文化にはまってるっぽい」

「ち、ちょっと待って、メモするから!」


 ポツポツとリリスの好みを伝えると、メイドは真剣な表情でメモを取っていた。


「つまり……東の国の珍しい甘味をお出しすれば……!」

「まぁ、喜ぶだろうな」

「ありがとう! やってみるわ!!」


 彼女は何度もイグニスに礼を言って、嬉しそうに駆けて行った。

 その背中を見送って、イグニスはふぅ、と息を吐いた。

 失敗してクビになっても、俺を恨むなよ……と念じながら。




「へぇ、これが噂の杏仁豆腐……」


 メイドとの会話の数日後、ふと主人の声が聞こえ、イグニスはそっと窓の外を覗いた。

 見れば、お気に入りのガーデンチェアに腰掛けたリリスの傍に、あの年若いメイドが立っているではないか。

 どうやらイグニスの助言通り、リリスに甘味を献上することにしたようだ。見上げた度胸である。


「不味かったらクビにするから、覚悟はいいでしょうね」

「はっ、はい!」


 無駄にメイドを委縮させながら、それでも気になって仕方がなかったのだろう。

 リリスは待ちきれないとでも言った様子で、杏仁豆腐の器に手を伸ばした。


「見た目は及第点ね。プルプルしてて可愛いし……お味の方は……」


 ぱくり、とスプーンの先がリリスの小さな口の中に吸い込まれる。

 その直後――。


「おいっしーぃ♡ なにこれ、すっごい美味しいんだけど!!」


 一口食べてお気に召したのか、リリスはパクパクと杏仁豆腐を食していく。

 あっという間に、小さな器は空になってしまった。


「はっ! もう全部食べてしまったわ……」


 その途端にしゅん、としてしまったリリスに、メイドが慌てて声をかけた。


「おっ、お気に召したようならまた作らせていただきます!」

「……本当?」

「はいっ!」

「そう……ま、まぁ、また作るっていうなら食べてあげてもいいわ!」


 素直にまた食べたいって言えばいいのに……と思いつつも、イグニスはその微笑ましい光景に頬を緩ませた。

 リリスは劇的に変わったわけではない。今も困ったわがままお嬢様なのは間違いないだろう。

 それでも……周囲の者が少しずつ、隠されていた彼女の一面に気づき始めているのかもしれない。

 その変化をもたらした一因が自分にあるとは思わずに、イグニスはやれやれと肩をすくめた。

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