32 闇堕ち令嬢とお父様
その日、リリスは朝からきっちりとおめかしをしていた。
特にお出掛けや来客の予定は聞いていないイグニスは、そんな主人の姿におや、と首を傾げる。
「おはようございます、お嬢様。本日のご予定は……」
「今日はお父様がお休みだから、朝食をご一緒するのよ。きちんとしていないと失礼でしょう」
「あー、そういうことですか」
リリスの父であるフローゼス公爵は、この国の宮廷魔術師を務めている。
王の信頼も厚く、リリスがオズフリート王子の婚約者になったのも、彼の働きによるところが大きいと言えるだろう。
そんなフローゼス公爵はかなり多忙なようだ。
イグニスがこの屋敷に来て数か月、公爵が朝からゆっくり娘と朝食をとることなど……初めてのことなのだから。
――そう考えると、今までこの屋敷でほぼ一人だったのか……。
もちろん、公爵邸には使用人が大勢いる。リリスを恐れ、嫌う者も多いが、心の底ではリリスのことを心配する者もいることをイグニスは知っている。
だが、結局一周目の世界では誰もリリスを救うことはできず、彼女は破滅への道を歩んでしまった。
きっと、彼女はずっと孤独だったのだろう。
思わずぽんぽんと軽く頭をなでると、リリスはむっとした表情で顔を上げた。
「……何? 髪の毛が乱れるじゃない」
「いや、ちょうどいい位置にあったから」
「ちょっと! 私の頭はあなたの肘置きじゃないのよ!!」
顔を真っ赤にして追いかけてくるリリスを食堂へと誘導しながら、イグニスはリリスの子どもらしい姿にくすりと頬を緩ませた。
イグニスとリリスが食堂の前までやって来ると、既にフローゼス公爵は席に着いているとのことだった。
追いかけっこをしたばかりなので服の乱れがないかを軽く確認して、イグニスは恭しく食堂の扉を開く。
リリスは堂々とした足取りで食堂の中へと進み、淑女らしい挨拶をしてみせた。
「おはようございます、お父様。ご機嫌麗しゅう存じます」
ほんの一分ほど前まで、目を吊り上げてイグニスと追いかけっこをしていたとは思えない、優雅な姿だ。
こいつもやればできるんだよな……と、イグニスは感心する。
「リリス……」
だが公爵は不満げに眉を寄せ、低く娘の名を呟いた。
その途端、その場の空気が急に重くなった。
まさか何か粗相が……!? と、イグニスは自分のことのように焦ってしまう。
リリスの父――フローゼス公爵は、非情に厳格な人物だとの評判を聞いている。
特に王宮の魔術師の間では、「冷血公爵」との二つ名を轟かせるほどに恐れられているのだとか。
そんな人物ならば、きっと娘にもさぞや厳しいスパルタ教育を――。
「こーら、リリス。屋敷にいる間は『パパ』と呼びなさいと言ってるだろう♡」
「えへ、ごめんねパパ♡」
――全然激甘だったー!!
ウキウキと立ち上がった公爵は、足取りも軽くやって来ると素早く屈んで娘の両頬に軽く口づけた。
そのデレデレとした締まりのない表情を見て、イグニスは脱力しそうになるのを何とか踏ん張った。
――何が「冷血公爵」だよ。めっちゃ甘々じゃねーか!!
どうやら厳格な公爵も、愛娘の前ではただの親馬鹿全開な父親でしかないようだ。
なるほど、これだけ甘やかされて育てば、あの暴君が誕生するのも納得である。
「今日はパパのお膝で食べるかい?」
「もう、私は来月で11歳になるのよ? いつまでも子どもじゃないわ!!」
――お前実質15歳+数か月だろ! あざとい顔しやがって……。
わざとらしく頬を膨らませてそっぽを向いたリリスに、イグニスは顔が引きつりそうになるのを何とか耐えぬくことに成功した。
やっと席に着いた馬鹿親子は、にこにこと楽しそうに会話を交わしている。
今まで何度か見たことのあるフローゼス公爵は、いつも近づきがたい厳格な魔術師の顔をしていた。
だが、今の彼は違う。
娘のことが可愛くてたまらないとオーラが駄々洩れな、愛情あふれる父親だ。
――あの親父さんも、リリスのことを大切にしてないわけじゃない。ただ……仕事が忙しすぎて実質放置状態になってたのか。その結果が、王子に捨てられ投獄までされるとはね……。
一周目に起こった出来事について、イグニスは断片的にリリスから語られる情報しか知らない。
イグニスが初めて彼女に出会った時、彼女は既に暗く冷たい牢獄に生涯幽閉される身となっていた。
いったい何故、彼女はそこまで落ちぶれてしまったのだろうか。
――あいつはとんでもない奴だが……聖女暗殺未遂については間違いなくやってないと言っていた。誰かが、リリスを嵌めようとしたのか?
リリスのあの性格じゃ、敵は多いだろう。
一周目でリリスを陥れた者が、二周目に同じことを仕出かさないという保証はない。いや、このままでは、きっと同じようにリリスを狙ってくるだろう。
そうなれば、一周目の二の舞だ。
リリスの復讐は果たされず、イグニスも彼女の魂を奪うことが出来なくなってしまう。
――……気は抜けねぇな。
「リリス、来月の誕生日には何が欲しい? 何でもパパに言ってみなさい」
「オズ様の首……じゃなくて! く、く……靴が欲しいの! オズ様とのダンスで目立つような、すっごく可愛いのがたくさん!」
「わかった。とりあえず100足ほど用意させようか」
――……100足の靴をきちんと分類分けして仕舞うのは……俺だな。
馬鹿親子の会話を聞きながら、苦労人な従者は内心で大きなため息をついたのだった。