1 婚約破棄なんてしておいて、ただで済むとでも思いましたか?
「フローゼス公爵令嬢リリス。君との婚約を破棄する」
一片の愛情すら感じさせない冷たい声で、婚約者はそう告げた。
その瞬間、何もかもが崩れ去った。
出来そこないと蔑まれても、どれだけ馬鹿にされても、いずれ訪れるはずの幸福な未来を思えば耐えられた。
彼の妃になれば、何もかもがうまくいくと思っていた。
それなのに……婚約者は、突然現れた聖女とやらを――自分ではない女を選んだ。
「……許せない」
今までの努力は、献身は、すべて無駄だったのだ。
ただ断罪され、囚われ……暗く冷たい牢に一人きり。
「こんなの、間違ってるわ」
憎悪を込めて呟くと、誰もいないはずの牢の片隅から応える声が聞こえた。
『可哀そうなお嬢様、復讐するつもりがあるなら手を貸すけど?』
――復讐
その言葉が、すとんと胸に落ちてくる。
……そうだ。復讐をしなければ。
自分を裏切った王子に。
王子をそそのかした聖女気取りの女に。
そして、この暗く冷たい世界に。
「復讐、してやるわ……!」
じっと暗闇を見つめると、そこから一人の男が姿を現した。
闇に包まれたその姿に、幼い頃に聞いたおとぎ話を思い出す。
――『憎しみに捕らわれてはいけないよ。心の闇に引き寄せられて、悪魔がやって来てしまうから』
目の前の男は、悪魔なのだろうか。
……いや、なんだっていい。
自分を貶めた者たちへの復讐が遂げられるのなら、悪魔の力だって利用してやる……!
「……手伝うって言ったわね」
そう問いかけると、男は口元に笑みを浮かべた。
『あぁ、そうだな。あんた、名前は?』
「リリス。リリス・フローゼス」
『そうか……リリス。俺と契約すれば、あんたの願いを叶えてやる』
牢獄に捕らわれた公爵令嬢――リリスは、差し出された悪魔の手を取った。
◇◇◇
「今晩は。王国の暁の君、オズフリート王子殿下」
厳重に警備が敷かれた王宮の奥――王子宮。
姿を現したリリスが丁寧に礼をしてみせると、元婚約者――オズフリートは驚いたように目を見開いた。
それもそのはずだ。
「聖女」を害そうとした罪で今も牢獄に囚われているはずの罪人が、目の前に現れたのだから。
「フローゼス公爵令嬢……!?」
「馬鹿な、警備の者は何をやっている!?」
「うろたえるな、罪人だ! 捕らえろ!」
さすがは王子の護衛に選ばれた精鋭というべきか。
控えていた騎士たちは、すぐさまリリスを捕らえようと剣を抜いて向かってくる。
以前のリリスだったら、なすすべもなく捕らえられていただろう。
だが、今は違う。
「<焼けた靴で踊れ!>」
リリスが軽く命じただけで、騎士たちの体が足元から炎に包まれる。
絶叫し、まるでダンスでも踊るかのようにのたうち回る騎士たちを見下ろしながら、リリスは笑った。
「アハ、アハハハハハ! そのまま灰になるまで踊るがいいわ!!」
もう、以前の自分とは違うのだ。
落ちこぼれと蔑まれ、馬鹿にされ、皆に裏切られた哀れな公爵令嬢ではない。
悪魔と契約を交わし、絶大な力を手に入れた。
邪魔する者はすべて焼き尽くしてしまえばいい。
……もう、何も恐れる必要はないのだから。
「……リリス」
オズフリートは呆然としたように、リリスの名を呼んだ。
そんな彼に向って、リリスはにっこりと微笑んで見せる。
「ご機嫌よう、オズ様。愛しの聖女様は一緒ではないのですね」
「……君は、僕を殺しに来たのか」
「だとしたら、どうします?」
リリスは自分を裏切った者たちへの復讐を遂げにやって来た。
オズフリートはその最初のターゲット。彼の死をもって、リリスの復讐劇は幕を開けることになるのだ。
元婚約者の凶行にうろたえるかと思ったオズフリートは、どこか諦めたように笑っている。
「……君は、黒も似合うんだね。知らなかったよ」
この場にそぐわない言葉に、リリスは眉を寄せた。
確かに彼の言う通り、今のリリスは漆黒のドレスを身に纏っている。
黒は闇の色。「フローゼスの雪白姫」と呼ばれていたリリスが、一度も身に纏ったことのない色だ。
「あなたの愛する聖女様には、こんな色は似合わないでしょうね」
どれだけ白を纏い、清廉潔白を気取っても、リリスは彼の愛する「聖女」には敵わなかった。
だったら、どこまでも黒く染まってやる。
「最期に詩を残す時間くらいは、待ってさしあげてもよろしくってよ?」
強者の余裕を見せつけそう告げると、オズフリートはふぅ、と大きく息を吐いた。
「皆は君の詩を酷評したけど、僕は好きだったよ。独創的で」
「……今更お世辞を言って、命乞いのつもりですか?」
もっと泣き喚いてくれればいいのに。そうすれば、この胸の憎悪も昇華されるかもしれないのに。
これから死が待ち受けているとは思えないほど落ち着いた彼の態度に、リリスは軽く舌打ちした。
……もういい。復讐しなければならない相手はたくさんいるのだ。
いつまでも、彼にだけ構ってはいられない。
「残念、時間切れです。それでは……さようなら、オズ様」
裏切者とはいえ、自国の王子だ。
見苦しくないように、一思いに息の根を止めてやろう。
指先に魔力を集め、放とうとした瞬間――。
「っ……!」
まるで輝く星が落ちてきたかのように、瞬時にあたり一面が眩い光に包まれた。
リリスはとっさに目を瞑る。その直後、胸元に焼けるような痛みを感じた。
「かはっ……」
目を開けて、まず目に入ったのは白く光る刃。そして、施された王家の紋章。
リリスの胸を、王家に伝わる剣が貫いていた。
――そんな……どう、して……。
リリスは己の敗北を悟った。
最期に見えたのは、おぼろげなオズフリートの姿だ。
何故か彼がこちらに手を伸ばしているように見えたのは、きっと目の錯覚だろう。
彼がどんな表情をしていたのか確認する前に、リリスの視界は闇に飲まれた。
この日、運命に翻弄された哀れな公爵令嬢リリスは……わずか十五年という短い生涯を閉じた。
はずだった、のだが…………。
――……ん、…………あれ???
再び目を開けたリリスの目の前にいるのは、最後に見た時よりもずっと幼いオズフリートだ。
この世の光という光を取り込んだかのような眩い金髪に、菫青石のような深いスミレ色の瞳。
まさに天使と見まがうほどの美少年。
リリスを殺したはずの、婚約者の姿がそこにはあった。
――オズ様、なのよね……?
ぱちぱちと瞬きをしてみたが、やっぱりオズフリートは消えなかった。
目の前の彼はおそらく十歳くらいだろうか。
まだあどけなさを残したその姿に、リリスは困惑した。
――もしかして、これって走馬灯ってやつ? 私さっき死んだよね??
混乱しきったリリスは、穴のあくほどオズフリートの整った顔を見つめた。
白い頬は滑らかで、触ったらさぞかしぷにぷになのだろう。
そう考えたのがいけなかった。気づいた時にはリリスは既に彼の頬に手を伸ばし、ぷにってしまっていたのだ。
「あはは、くすぐったいよリリス」
「走馬灯がしゃべった!!?」
なんと、目の前のオズフリートはぷにぷにに対して反応を返してきた!
走馬灯にしては反応がリアルすぎるのである。
幼いオズフリートの姿を正視できず、リリスは慌てて視線を床へと落とす。
――なにこれ、どういうこと……? だって、私は死んで――っ!
そう考えた途端、強く手を握られる。
思わず顔を上げると、満面の笑みを浮かべたオズフリートがそこにはいた。
「ほら、笑ってリリス。今日は僕たちの婚約式なんだから」
「…………はい?」
その言葉で、リリスはやっと周りの状況に気がついた。
高い天井には本物と見紛うような青空が描かれ、そこから垂れ下がるシャンデリアは星のようにキラキラと輝いている。
ここは……王宮の大広間の一つ――「蒼穹の間」だ。見渡せば、多くの着飾った人々が集まっている。
皆嬉しそうな笑顔を浮かべて、口々に祝福の言葉を口にしている。
オズフリートの言葉通りなら、これはリリスと彼の婚約式だというではないか。
「嘘、夢でしょ……? だって、私は死んだのに……」
「リリス、どうしたの?」
「なんなの…………? なんなのよおぉぉぉ!」
遂にわけがわからなくなって、リリスはオズフリートの手を振り払いその場から駆け出した。
「リリス!」
背後から慌てたような声が追いかけてきたが、立ち止まることはできなかった。
驚く人々の合間を縫って、一目散に大広間を飛び出す。
「なにこれ……なんで走馬灯なのに走れるの!?」
彼の剣が胸を貫く感触を、今でもはっきりと思い出せるのに。
「夢なら覚めて! いや覚めないで!? どっち!?」
もう自分でもわけがわからなかった。
大広間を抜け、無我夢中で回廊を走っていたリリスの視界に、不意に信じられない光景が映りこむ。
ここは……壁一面に豪奢な鏡が張り巡らされた回廊――「鏡の間」だ。
その中の鏡に、リリスの姿が映っていた。
先ほどのオズフリートと同じように、随分と幼くなった姿が。
「嘘……」
震える手で、そっと鏡に触れる。
十歳ほどの年頃の顔を青ざめさせた少女が、鏡の向こうからまっすぐにこちらを見つめ返していた。
さらりと流れる、透き通るような長い銀の髪。
黄水晶のように澄んだ蜂蜜色の瞳。
新雪のごとく白い肌を覆うのは、一目見ただけでため息が出るほどの上質なドレスだ。
間違いなくそこに映っているのはリリス・フローゼス以外の何者でもなかった。
「どういう、ことなの……」
目の前の光景が信じられずぎゅっと目を瞑ったリリスは、背後から近づいてくる気配に気づかなかった。
「捕まえた」
気づいたときにはもう、彼の腕の中に囚われていたのだから。
「リリスは僕の婚約者なんだから、もう僕の前からいなくなったら駄目だよ」
逃がさないとでもいうように、リリスを背後から抱きしめ、オズフリートは耳元でそっと囁く。
リリスは意を決して振り返り、目の前の彼に問いかけた。
「……オズ様。今日は私とオズ様の婚約式なのですよね」
「そうだよ。主役が退場したら皆が困ってしまう。戻ろう、リリス」
――私とオズ様が婚約したのは、十歳の時……。まさか、時間が戻ってるの……!?
信じられない話だが、確かにこの状況はリリスの記憶にある婚約式とよく似ている。
――本当に、時間が戻ったのだとしたら……。
あの悲惨な人生を、やり直すことができるなら――
今度は、今度こそは絶対……。
――私を見下した奴らをぎゃふんと言わせてやるわっ……! 大人しく泣き寝入りなんてしてやらないんだから!!
一度死んだとはいえ、リリスは全く懲りていなかった。
何も自分は間違ったことをしたわけではない。
人の婚約者を奪おうとした泥棒猫に、絶対的な立場の違いを分からせてやったからといって、何がいけないというのか。
リリスが聖女を陥れようとした罪人として裁かれたのは、ただ立ち回りに失敗してしまった。
それだけのことなのだから。
――……あの泥棒猫も、浮気王子も、私を馬鹿にした奴らもみんな……絶対に許さない! まとめて復讐して、私の正しさを認めさせてやるんだから!
一周目の失敗を踏まえ、今度こそは必ずや復讐を遂げて見せるのだ……!
はやる気持ちを抑え、リリスはオズフリートににっこりと笑って見せる。
「申し訳ございません、オズ様、少し気分が悪かったのですが、もう大丈夫です、戻りましょう」
にっくき元婚約者の手を取り、蘇った公爵令嬢は意気揚々と歩き出す。
――ふふ、天は私を見捨ててはいなかったのね。あぁ、どうやって復讐してやろうかしら……。腕が鳴るわ!!
頭の中でボキボキと拳を鳴らしながら、数々の復讐劇を思い描いてリリスはにやつく。
スキップでもしたいくらいにご機嫌に、回廊を進むリリスは婚約者の小さな呟きに気づけなかった。
「今度は、絶対に離さないからね」
確かな執着を込めたその呟きは、すぐに鏡の間に吸い込まれて消えた。