12 悪魔な従者は苦労人(前)
「イグニス君、今日もお嬢様のおやつ係よろしくね!」
「了解っす」
フローゼス公爵邸、使用人用の通路にて。
声をかけてきたメイドにウィンクを返すと、彼女は「キャー♡」と黄色い声を上げて走り去っていった。
その後姿を見送って、イグニスはふぅ、と小さくため息をつく。
「……人間って本当ちょろいな」
悪魔にとって自身の姿を変えるなど造作もないことだ。
イグニスも力を失ったとはいえ、その程度の魔力は残っている。
リリスに会いに公爵邸に潜り込む際に、イグニスは「他者から好感を抱かれやすい容姿の青年」に姿を変えていた。
元々の姿で公爵邸の門を叩けば、その場で通報どころか始末されてもおかしくはなかったのだ。
効果は上々。イグニスが微笑んで話しかければ、大抵の人間は好意的に接してくれる。
……まぁ、屋敷の女性使用人の間でイグニスを巡っていらぬ争いがちょくちょく起こることは、想定外だったが。
――でも、あいつは怖がらなかったっけ……。
初めてリリスと出会ったのは、暗く冷たい牢獄の中だ。
今でもはっきりと覚えている。あの、囚われの身でありながらも気高さを失わない、鮮烈な少女の姿を。
常人であれば一目見ただけで悲鳴を上げるであろう、イグニスの本来の化け物のような姿にも、リリスは全く臆することはなかった。
――『復讐、してやるわ……!』
憎悪の炎を宿した苛烈な瞳。
一目で、魅入られた。
どうしても、彼女の魂を食べたくて仕方が無くなったのだ。
――……まさか、あんなポンコツだなんて思わなかったんだけどな……。
力を失った今のリリスは、キャンキャンとよく吠える小型犬のようだ。
それでも、見ていて飽きることはない。
最初に抱いた印象からはかけ離れているが、現在のリリスもイグニスにとって興味を惹かれる対象であるのは確かなのである。
二度と失敗は許されない。何としてでも彼女の願いを叶え、今度こそあの魂を捕食しなければ。
通路の突き当たりには大きな姿見が設置してある。
軽く身だしなみを確認して、イグニスは満足げに頷いた。
「仕方ない。今日もあのわがままお嬢様に付き合ってやりますか」
イグニスは現在、リリスの従者のような扱いになっている。
大事なお嬢様に年頃の男を近づけていいのか……と思わないでもないが、それよりもリリスのパワハラに耐えられる人材は貴重なのだろう。
厨房に顔を出すと、既に顔なじみとなった料理人たちが声をかけてきた。
「よぉイグニス。今日もお嬢様のスイーツ担当か?」
「そういうこと。材料と器具一式使わせてもらうんで」
今まで何人ものパティシエが、リリスの癇癪の犠牲になってきた。
そのせいで誰もリリスの為のスイーツを作りたがらず、今ではもっぱらイグニスが担当することになっている。
純白のエプロンを身に着け、気合を入れなおす。
「それじゃ、いっちょやりますか!」
◇◇◇
ストロベリー、ラズベリー、ブルーベリー、クランベリー……。
美しくナパージュが塗られた果実はキラキラと輝き、まるで宝石箱のように美しい。
お手製ベリータルトの出来栄えに満足し、イグニスは恍惚のため息漏らした。
これならあの小さな暴君も、きっと満足してくれ――。
「って、何やってるんだ俺ぇ!!」
我に返ったイグニスはその場に崩れ落ちた。
考えろ。このベリータルトを作るのに一体何時間かけてしまったのかを。
――そう、俺は悪魔だ。悪魔なんだよ! あのわがまま娘の専属パティシエでも何でもないんだよ!!
人間を惑わし、その魂を喰らうのが悪魔だ。
それなのに今の自分はなんだ。
リリスと再会して早数か月。日々あのわがまま娘に顎で使われ、すっかり使用人仕事が板についてしまった。
……悪魔のプライドなど、とうにずたずたに引き裂かれている。
目を逸らしていた現実を思い出し、イグニスは打ちひしがれた。