121 天使の恩寵
「奥の手を使って俺は何とかレミリエルを殺そうとした。……が、あいつも最後の力を振り絞って時空転移を使いやがったんだよ」
「時空転移? あなたとレミリエルが消えた時のがそうなの?」
「そうそう、こことは別の世界へ転移するんだ」
「ふーん……?」
イグニスの言うことはいまいちよくわからなかったが、たぶん今重要なのはそこじゃない。
リリスは続きを促した。
「で、転移先がなんと天界だったんだ! わかるか? 天使たちの総本山だ。あの時はさすがに死ぬかと思ったな」
「へぇ、よくわからないけど大変だったのね」
「想像してみろよ。気が付いたら全然別の場所にいて、物凄い数の天使に囲まれてんの。ショックで心臓止まるかと思ったわ」
「それでよく生きてたわね……」
念のためぺたぺたとイグニスの体を触ってみたが、今までと変わりはなさそうだ。
リリスは少しだけ安堵したものである。
「レミリエルは早く俺を殺せってうるせぇし……でもな、お優しい天使様たちはすぐに俺を殺さずに裁判を開いたんだ。あいつらアホだな」
「天使にも裁判とかあるのね……」
「そうそう、被告人は俺とレミリエル」
「え、レミリエルも!?」
そう聞き返すと、イグニスはにやりと笑う。
「お前にも見せてやりたかったな……。レミリエルの奴、最初は偉そうに俺の罪状を並べ立ててんのに、他の天使たちにフルボッコにされて涙目になってやがんの」
「何それ、どういうこと!?」
「あいつの行いは行き過ぎだって、満場一致で責められたんだよ。聖女の体を乗っ取って色々やらかしたり、お前を殺そうとしたのがいけなかったらしい」
「ぇ、そうなの……? 天使ってレミリエルみたいな話の通じない奴ばかりかと思ったら、そうでもないのかしら」
「そうそう、俺も驚いた。で、俺はそんなレミリエルの暴走を止めてくれたって、逆に感謝されたんだよ。ほんと意味わかんねぇ」
不服そうな顔をするイグニスに、リリスはくすりと笑う。
天使に感謝される悪魔……本当に、らしくない光景だ。
「そのレミリエルを止めた功績に免じて、俺は無罪放免。やっと戻ってきたら今だったんだよ。ちなみに、レミリエルの奴は便所掃除1000年の刑とか言われてて泣いてたな」
「あはっ! なぁにそれ! 私も見たかった!!」
あのお高くとまった天使がトイレ掃除を命じられて、泣き崩れる姿……できれば間近で目にして、思いっきり笑ってやりたかった。
情けないレミリエルを想像してひとしきり笑った後、リリスは少し不思議に思った。
「……ねぇイグニス。私とあなたとの契約は――」
そう問いかけると、イグニスは意味深に笑う。
「お前なら、わかるだろ?」
そっと自身の胸に手を当て、リリスはゆっくりと息を吐いた。
イグニスと契約してからずっと、いつも自分の中に彼の存在を感じていた。
きっと、悪魔との契約とはそういったもの――ある意味、魂を分かち合うようなものなのかもしれない。
いつしかそれが当たり前となっていた。だからこそ……イグニスが消えた時、途方もない喪失感に襲われたものだ。
だが、今は……イグニスが再びこうして現れたというのに、自分の中に彼の存在を感じられない。
きっと、イグニスとの契約は切れてしまったのだろう。おそらく、イグニスの手によって。
「……もう、契約は消えてしまったのね」
「なんだよ、もっと喜べよ。それとも……そんなに俺に食べられたかった?」
そう言って顔を近付いてきたイグニスに無性にイラついてしまい、リリスは再び彼の顎先に頭突きをお見舞いした。
「うおぉ!?」
「調子乗りすぎ! 逆にせいせいしたわ!!」
再び顎をさすりながらうずくまったイグニスを見下ろし、リリスは何故か泣きたくなるのを懸命に耐えていた。
寂しい……なんて思うのがおかしいのだ。
イグニスはリリスとの契約を破棄した。単にリリスに付き合うのに飽きたのか、彼が言った通りリリスがあまり食べても美味しそうではなかったからなのかもしれない。
「それで……何であなたは性懲りもなくまた私のところにやって来たのよ。もう契約が消えたのなら……どこへでも、行けばいいじゃない……」
最後の方は何故か小声になってしまった。
イグニスの顔が見られなくて俯くと、ぽんぽん、と優しく頭を撫でられた。
「いやぁ、俺もそう思うんだが……どうしても、美人の頼みって断れねぇじゃん」
「えっ?」
「あっ、言っとくけどお前のことじゃないからな?」
「別にそんなこと思ってないわよ! まったく……」
頬を膨らませるリリスに、イグニスはくすりと笑う。
そのまま彼は、リリスの背後の墓標へと視線を遣った。
「天界から戻って来る前にさ、一人の天使に声かけられたんだよ。その人がすっげぇ美人で」
「ふぅん」
「どうしても美人の頼みって断れないんだよな~。お前もそう思うだろ?」
「知らないわよ……。で、その美人さんの頼みと私に何の関係があるっていうの」
「……その天使が言ったんだ。『どうか、私のかわいいリリスちゃんをお願いします』って」
「え…………?」
リリスは思わずイグニスの方を振り返る。
彼は、どこか優しい目でリリスの方を見つめていた。
「アイリス」
彼の口から出た名前に、リリスの心臓がどくりと音を立てた。
それは、リリスの大切な……亡くなった母の名前だったのだから。
「その天使に名前聞いたら、そう名乗ったんだ。だから、お前も……あんまり美人のママを心配させるようなことするんじゃないぞ」
リリスはおそるおそる、自身の背後の墓標の方を振り返る。
そこに刻まれているのは、今しがたイグニスが口にした名だ。
「お母様っ……!」
墓標に縋りつくようにして、リリスは泣き崩れた。
……見守って、くれていたのだ。
リリスの大好きな母は天使となって、ずっと……リリスのことを見ていてくれたのだろう。
泣き崩れるリリスの肩を抱くようにして、イグニスが囁いた。
「ほらほら、いつまでもこんなとこにいたら風邪ひくぞ? あんまり腹冷やすなって忠告しただろ」
その口調とは裏腹に、リリスに触れる手はどこまでも優しかった。
「まぁ、美人に頼まれたら仕方ないからな。もうしばらく……お嬢様のわがままに付き合って差し上げますよ」
その言葉に、また一筋熱い涙があふれたのは内緒だ。