116 歪んだ愛のレクイエム(3)
薄暗い森の中を走りながら、オズフリートは自らの見通しの甘さに舌打ちした。
――異端審問官がこの地に迫っている。
その情報自体が、オズフリートをおびき出す罠だったのだ。
王妃アンネの放った刺客は既にオズフリートのすぐそばに潜伏しており、身を隠そうと隠れ家となっていた屋敷を出たオズフリートたちは、見事にその罠にはまり、襲撃を受けた。
一緒にいた魔術師は殺された。
オズフリートはリリスを抱いたまま間一髪逃げ出すことができたが、今もこうして追っ手から逃げ続けている。
木々の向こうに、追っ手の持つ松明の明かりが見え隠れする。
……見つかるのは、時間の問題だろう。
――それに、ガラスの棺はもうない。
襲撃の際の乱闘で、リリスの体を収めていたガラスの棺は粉々に砕け散ってしまった。
何とかリリスの体だけはこうして救出することができたが、時間を止める効果が消えてしまった以上、リリスの体は長く持たない。
その前に、ことを成し遂げなければ。
隠れ家を出る直前に、魔術師は「時戻し」の秘儀を完成させていた。
オズフリートの首元で揺れる、先端に砂時計を括りつけたネックレス。
これこそが、世界を壊しかねない禁断の魔道具だ。
異端審問官たちは何としてでも、この砂時計を破壊しにくるだろう。
――きっと、これが最後のチャンスだ。
もう残された時間は少ない。
オズフリートは意を決して、森の中の少し開けた場所で足を止めた。
「……早く、君に会いたいな」
上着を脱いで地面に敷くと、その上にリリスの体を横たえる。
月明かりに照らされたその姿は、いつにも増して美しかった。
そっと彼女の冷たい手に触れ、一本一本冷たい指を暖めるかのように絡ませていく。
「初めて会った時のことを覚えてるかい? あの時まで戻れたなら、今度はきちんと君に花束を渡したいな」
リリスの好きな歌にどれだけ周りが呆れていても関係ない。
君の歌はとても素晴らしかったと伝え、花束を贈ろう。
「好きな花だって、今ならすぐに答えられるよ。凛と咲く姿が、君によく似ているんだ」
白百合のように気高く優美な姿を、ずっと目で追っていたい。
たまにこちらを振り向いて、笑ってくれさえすれば……きっと、何もかもが報われる。
「もう周りに流されたりはしない。どんな悪意からも、君を守って見せる」
十年そこそこしか生きていないオズフリートには、襲い来る悪意からリリスを守ることができなかった。
だが、今は違う。郊外に引きこもっていることが多かったとはいえ、多くの時間と経験を積んでいるのだ。
リリスを悪く言う者がいても、角を立てないように立ち回り、リリスを守る術だって今ならいくらでも思いつく。
「君の誕生日には、本当に君の喜ぶものを贈るよ。リリスはセンスは変わっているけど、きっと流行の最先端になる。だから……」
センスが奇抜でも、落ちこぼれでもいい。
それが、オズフリートの愛したリリス・フローゼスなのだから。
「だから……もう一度笑ってよ。リリスっ……!」
眼前のリリスは、目を閉じて穏やかな表情をしている。
だが、その目が開くことも、笑うこともない。
いったいいつまで、脳裏にリリスの笑顔を思い描くことができるのだろうか。
リリスとの記憶が、思い出が薄れていくのを、オズフリートは何よりも恐れていた。
「今度は、ずっと一緒に居よう。二人がしわくちゃの、おじいさんとおばあさんになっても」
リリスと一緒に年を重ねていきたい。
傍で、その変化を見守りたい。
でも、もしも……。
「もし、君に死ぬほどの危険が及ぶのなら……その時は、君の盾となって散りたいな」
リリスはもっと長く、自由に生きられるはずだった。
こんな風に、儚く散っていい命ではなかった。
だから、もしもリリスに死の危険が迫ったのなら、今度は自分が代わりに死のう。
オズフリートが望むのは、リリスが笑って生きていられる未来だ。
その未来が手に入るのなら、何だって捧げよう。
……たとえ笑うリリスの隣に、自分がいなかったとしても。
「……一緒にいこう、リリス」
そっとリリスの手を握り、彼女の冷たい唇に自分の唇を重ね合わせた。
そのまま、自らの魔力とリリスの魔力を繋ぎ合わせる。
リリスの中に眠る膨大な魔力を、自らの内に取り込んでいく。
「時戻し」を行うには、人間の領域では届かないほどの膨大な魔力が必要になる。
リリスの内側に眠る……悪魔に授けられた力。
足りるかどうかはわからない。何もかもが失敗に終わり、この世界が壊れてしまうかもしれない。
だが、それでもよかった。
リリスのいない世界など、オズフリートにとって何の価値もないのだから。
魔力を取り込み、リリスのことを想いながら首元の砂時計をひっくり返す。
これで、「時戻し」は発動される。
やがてぐにゃりと世界が歪み、まるで虚空に放り出されたような、嵐の中に飲み込まれたかのような衝撃に襲われる。
だが、オズフリートは決して繋いだ手だけは離さなかった。
そのうちに、何もかもが深淵の闇に飲みこまれて、そして――
「……殿下、オズフリート王子殿下!」
傍らから声を掛けられ、オズフリートははっと覚醒した。
視線を落とし、絶句する。
ずっと繋いでいたはずの、リリスの手が消えていたのだから。
「っ、リリスは!?」
「フローゼス公爵令嬢でしたら、じきにお見えになりますよ。……今日こそは、変な行動はせず大人しくしていてくださるとよいのですが……」
顔を上げて、オズフリートは再び絶句した。
自分が今立っているのは、数十年足を踏み入れていないはずの、王都にある宮殿だったのだから。
慌てて振り返ると、見知った顔の侍従が怪訝そうにこちらを見ている。
……オズフリートの記憶にあるよりも、ずっと若い姿で。
――まさか、ここは……!
「済まない、この後の段取りを今一度教えてもらえるかな」
「えぇ、構いませんよ。フローゼス公爵令嬢がお見えになったら彼女と共に控えの間に移動し、本日の婚約式のためにお越しになった来賓の方々へのご挨拶を――」
――婚約式。
その響きに、オズフリートの心臓がどくりと音を立てた。
オズフリートとリリスが婚約を結んだのは十歳の時だ。
もしこれが、夢でないのなら……。
「鏡を貸してもらえるかな、少し身だしなみを確認したい」
「……? 特におかしな点はございませんが――」
「いいから!」
オズフリートの常にない強い態度に、付き従っていた者の一人が慌てたように手鏡を差し出した。
ひったくるように手鏡を手に取り、そこに映った姿にオズフリートは歓喜した。
長年変わらなかった見慣れた姿ではなく……もう数歳、幼い顔の自分が映っている。
十歳の、婚約式。
二人が出会った頃とまではいかなくとも、オズフリートは長い時を超えて……ここまで戻ってこれたのだ。
リリスが、生きているはずの時間に。
「お待たせいたしました、殿下。フローゼス公爵令嬢がお見えに――殿下!?」
その言葉を聞くやいなや、オズフリートはその場から駆け出していた。
リリス、リリス……リリスに会える!
「リリス!」
勢いよく扉を開け放すと、中にいたリリスが驚いたような顔で振り返る。
……長い間、恋い焦がれていた存在がそこにいた。
その瞬間の胸が焼けこげるような歓喜を、きっとオズフリートは生涯忘れることはないだろう。
今度は、今度こそは絶対に間違えない。
リリスの笑顔を、これから歩んでいく未来を守っていこう。
リリスにも時間が巻き戻る前――リリスが死ぬまでの記憶があることや、一度殺したはずの悪魔が現れたことは想定外だったが……それしきのことで揺らぐような軟弱な誓いではなかった。
どんな手を使っても、リリスを守り抜く。
恨まれたままでもいい、復讐されてもいい。すべてが終わったら、リリスに殺されたっていい。
リリスが笑ってくれるのなら、何もかもが報われる。
「リリス……君は生きて。今度こそ、生き延びて……」
――「もし、君に死ぬほどの危険が及ぶのなら……その時は、君の盾となって散りたいな」
かつて願ったことが叶えられた喜びに、オズフリートは満足して力を抜いた。
リリスの必死な叫び声が聞こえる。
一秒でも長くその姿を見ていたかったけど、やがて視界は闇に飲まれた。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
次回からはやっと現在軸に戻ります。
いよいよハッピーエンドに向かって進行していくので、引き続き見守っていただければ幸いです!