113 崩れ始めるシンフォニー(6)
一度だけ、オズフリートは牢の中のリリスに会いに行ったことがある。
てっきり怒り狂ったリリスに罵倒されるかと思ったが、彼女は恨み言の一つも言わず、ただ仄暗い瞳でオズフリートを睨みつけただけだった。
彼女の強い憎悪が、自分に向いている。
たったそれだけのことで、オズフリートはひどく安心したものだ。
憎悪でも何でもいい。リリスの強い感情が自分に向けられているというただそれだけで、オズフリートは救われるのだから。
「……少し、そこで頭を冷やすといい」
少し、ほんの少しの時間でいい。
聖女との婚約というめでたい出来事で、人々の意識からリリスの存在を薄れさせるのだ。
そうすれば、リリスを牢から出すことができる。
王都から遠く離れた地に彼女を匿い。そして……いつか、心から謝ろう。
結局のところ、オズフリートはリリスを甘く見ていたのだ。
リリスが牢の中でおとなしくしているはずがないということくらい、もう少し冷静であれば予想がついたはずなのに。
◇◇◇
「今晩は。王国の暁の君、オズフリート王子殿下」
牢につながれているはずのリリスが目の前に現れた時、オズフリートの胸によぎったのは、多大なる驚愕と……確かな歓喜だった。
やはりリリスは、オズフリートの予想を飛び越えた存在だったのだ。
漆黒のドレスを纏い、踊るようにすべてを焼き尽くす姿は美しかった。
状況も忘れ、見惚れてしまったくらいなのだから。
「……リリス」
おそるおそる彼女の名を呼ぶ。
すると、リリスは見惚れてしまうほど妖艶な笑みを浮かべた。
その目に宿るのは……燃えるような殺意。
すぐに、オズフリートは彼女の目的を察する。
「ご機嫌よう、オズ様。愛しの聖女様は一緒ではないのですね」
「……君は、僕を殺しに来たのか」
「だとしたら、どうします?」
リリスはオズフリートを殺すために、ここまでやって来た。
おそらくすぐに、オズフリートは彼女の手によって殺されるだろう。
そうわかっているのに、オズフリートの胸に湧き上がるのは歓喜と安堵だった。
……もう、色々なことに疲れてしまった。悩むのも、苦しむのも、もうたくさんだ。
愛しい彼女の手で人生の幕が引かれるのなら、これ以上の幸福はないのかもしれない。
でも、少し……あと少しだけ、彼女との時間を楽しみたい。
「……君は、黒も似合うんだね。知らなかったよ」
普段のリリスは白や青などの明るい色のドレスを身に纏うことが多いので知らなかったが、漆黒のドレスを纏う姿は妖艶で美しい。
少しでも長く、目に焼き付けておきたくなる。
素直に褒めたつもりだったが、オズフリートの言葉を聞いたリリスはどこか自嘲するように笑った。
「あなたの愛する聖女様には、こんな色は似合わないでしょうね。……最期に詩を残す時間くらいは、待ってさしあげてもよろしくってよ?」
そう言われても、オズフリートはとても詩を残すような心の余裕を持ち合わせていなかった。
元々オズフリートの詩は、教本に従って言葉を組み合わせただけの数式のようなものでしかない。
残したい言葉など、浮かんでは来ないのだ。
最後まで自分の空虚さを思い知らされ、オズフリートはため息をついた。
「皆は君の詩を酷評したけど、僕は好きだったよ。独創的で」
「……今更お世辞を言って、命乞いのつもりですか?」
心からの称賛を贈ったつもりだったが、命乞いだと思われてしまったようだ。
焦れたのか、リリスが軽く舌打ちする。
「残念、時間切れです。それでは……さようなら、オズ様」
指先をこちらに向け、リリスが魔力を込めたのが分かった。
いよいよ、オズフリートの息の根を止めるつもりなのだろう。
――これで、やっと……。
やっと、終わることができる。
悩み、苦しみ続けた生から逃れることができる。
リリスを恨む気持ちは少しもなかった。自分を殺してリリスの恨みが少しでも晴れるなら、それで何よりだ。
ただ、最後まで彼女の姿を見ていたい。
瞬きをする時間すら惜しく、オズフリートはじっと愛しい元婚約者の姿を見つめていた。
だから、異変に気が付かなかった。
突然辺りが眩い光に包まれたかと思うと、リリスはてのひらで目を覆うようにしてふらついた。
だが、オズフリートにはさほどのダメージはなかった。
いったい何事だ、と背後を振り向き、オズフリートは戦慄する。
壁に飾られていたはずの、王家に代々伝わる聖剣――王族を守護するため、敵を葬る定めを刻まれた剣が、ゆらりと浮き上がっていたのだ。
その刃の先は、まっすぐにリリスの方を向いている。
――聖剣が、リリスを敵とみなしてしまったのだ。
「やめっ……!」
オズフリートは必死に聖剣を止めようと手を伸ばす。
だが、間に合わなかった。
放たれた矢のように、聖剣はまっすぐにリリスの元へ飛んでいき、その胸を貫いた。
「かはっ……」
ごぽりと血を吐いた瞬間、リリスの視線がこちらを向いたような気がした。
だが次の瞬間、彼女の体は糸が切れたように地面に倒れ伏す。
「リリス!」
オズフリートは必死にリリスに駆け寄り、傍らに膝をつき彼女の体を抱き起こした。
「リリス! リリス! 目を開けてくれ!!」
だが、リリスが目を開けることは二度となかった。
抱き上げた体からおびただしい量の血が流れだし、徐々にぬくもりがが失われていく。
「あ、ああああぁぁぁぁぁぁぁ……どうして、こんな……!」
ここで死ぬのは、オズフリートの方だったはずなのに。
リリスは、自由になれるはずだったのに。
どうして、こうなってしまったのだろう。
やがて、リリスを追って来たのかふざけた態度の悪魔が現れた。
ほとんど八つ当たりのように、聖剣を掴み悪魔を切り裂く。
だが、そんなことをしてもどうにもならない。
オズフリートはただ茫然と、事切れたリリスの体を抱いたままその場から動けなかった。
どのくらい時間が経ったのか、城の兵士が現れ、慌ただしく事後処理を施していく。
オズフリートはぼんやりしたまま彼らの質問に答えながらも、リリスの体だけは絶対に離さなかった。
「……この結果は誠に残念です、オズフリート殿下」
不意に、一人の男がオズフリートの傍らで立ち止まった。
のろのろと顔を上げると、その男が闇夜に溶けるような漆黒のローブを纏っていることに気が付く。
「……魔術師か?」
「えぇ、そちらのフローゼス公爵令嬢の父君とは派閥が異なりますが、私も魔術師の端くれです」
「魔術師が、何の用だ」
「傷心のオズフリート殿下に、一つご提案を、と思いまして」
何がおかしいのか、魔術師はくすりと笑うと血だまりの中に膝をつき、小声でオズフリートに囁いた。
「我々の研究する魔道具の中に、魔法の棺がございます。今のオズフリート殿下に、ご入用かと思いまして」
取引でも持ちかけるように、見知らぬ魔術師はそう告げた。
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